フォーチュン・ツリーをさがして     (C)加藤 寿生2005.09 【注意】 ・著作権は加藤 寿生が有しています。 ・改ざん・転用・流用・作者の許可のない配布はお控えください。  されないと思うけど(´・ω・`)。 【本編開始】 「その……縁結びの樹、探してみない?」  彼女がそう言った時は、一瞬だけ、心臓の鼓動も乱れた気がして息苦しくなった。それは確かなことだった。 (改ページ) 第一章      喪われた風景      1.  契機(きっかけ)を思い出せないくらい、二人は自然に話せるようになった。  休日に一緒に出かけたりすることはないし、二人きりで沈黙が生じればお互いにぎこちない。話題だって共通のものは乏しい。  ―ただ、話をしているだけで気持ちが明るくなる。相手が笑ってくれた時など今までに感じたこともないような喜びを覚える。  これが恋愛というものだろうか。 (……違うんじゃないかな)  自分の置かれた状況をふと考えた時、彼―櫻井(さくらい) 賢八(けんや)はぼんやりと(、、、、、)否定した。  恋というのはもう少し、熱や苦しさを帯びるものではないのだろうか。例えば小学校の頃の初恋は、結局誰にも伝えることができずに終わったが、その娘のことは毎日だって思い浮かべて「好きだ」と念じていた気がする。まるで念じていれば伝えられるのではないかと信じているかのように。  ……結局の所、一言もそれらしいことを相手に言えずに勝手に終わってしまった典型的な片想いだった。それを恋の一般論にすり替えるのには無理がある。ただ、今の熱の感じ方はかつてのそれとはほど遠かった。  それほど、人を好きになることに熱心ではない。  きっと素晴らしいものなのだろう―他の誰かにとっては。そんな、どこか遠いもののように感じていた。今までそうした経験がないからなのか。 (かもしれないな)  見栄や衒(てら)いもなくそう思う。では今は、それを得ようとしている段階なのか。 (やっぱり、そういうのとは違う)  そんな昂揚はなく、自らの問いにすら疑問符の付く回答しか持ち得ない。  他愛のない思考を繰っているうちに、賢八は閑静な住宅街の路地に入り込んでいる。そして、その路地に面して建つ散髪屋の扉を開けて足を踏み入れた。 「ただいま」 「おう、お帰り」  この場に居慣れない幾人かの客が不審げに顔を上げる。それを察した整髪中の主人は気さくな表情で一言告げた。 「倅(せがれ)なんですよ」 「へえ、じゃあ跡取りかい」 (勝手に決めるな)  ほとんど、反射的に。賢八は叫んでいる。ただしあくまでも心の中である。  ……勤労を続ける父は立派だと思う。尊敬しているつもりでもいる。しかしそれに自分がなりたいと思うかは別だ。賢八は、そうした決めつけに無条件で反撥した。長男なだけで周囲が跡取り扱いするのは我慢がならなかった。  そうした感情は、表情にも出さない。しかし「跡取り」と持ち上げてくれた―であろう―見知らぬ老人に愛想笑いが出来るほど世に慣れてもいなかった。軽く会釈をして顔をなるべく見せずに仕事場を通り抜ける。  救いはあった。 「いや、それがなかなか難しいんで。それにこいつぁ勉強が出来る。いい大学に行かせるつもりなんです」  ……父は、もう諦めてくれた。それまでには何度も嫌な対立や言葉の応酬があったが、もう過去のことだった。早々に姉の方に期待しているかのようでもあるが、彼としては、自分なりに格闘してきたつもりだった。それが「勉強」だった。  自分の運命を変えるために出来る努力としては、一番手っ取り早かった。学校に行っている以上身近なものだし、努力が明瞭に報われる。水準を超えれば周囲からも評価される。それは同学年の友人たちのみならず、教師、知人、家族、一族からもだ。  純粋に知的好奇心に依っている訳ではないのが、自分でも少々胡散臭くもある。 (―いいんだ。昔から立身出世は軍人か学者になるか、なんだから)  などと内心、嘯(うそぶ)いてみる。進路に関する家族の相克は、時として暴力を伴ったり冷戦のように血の通わない対立を引きずるらしい。その結果が事件となり、報道(ニュース)で目にすることもある。  少年には愚の骨頂に思えた。―そうやって、自分の居場所すら家からなくしてしまってどうするのか。互いに無駄で不幸だと思う。  彼の居場所は、二階の四畳半だった。日中は階下に父親の世間話が聞こえる。それも戸を閉めてステレオをかければ気にすることはなかった。客商売だから逆にその音で迷惑をかける訳にもいかない。自然、控えめになる。  世の中で大事なのは、均衡(バランス)なのだろう。  誰だって自分が満たされたいのだ。  でも、自分が満たされ過ぎては、きっと他の誰かが満たされなくなってしまう。自分と父親のように。  だから適度に譲り合って、満たされ合えばそこに幸せが訪れる。  それが少年の現実認知だったが、実際に口にすることはなかった。自分の生きてきた、たかだか十数年で獲得した処世観である。達観したつもりはなく、賢しらげに語ったところで顰蹙しか買わないのは想像がつく。自分が此処で大過なく過ごしてゆくには、その程度の理解と振る舞いで十分だった。  ―そういう意味では、彼女との出逢いは、彼の慎まやかな幸福と平穏を容赦なく破壊する一要素なのかもしれない。柄にもなく『恋愛』という主題を模索したのはその予感があったから、なのか。後になって、この日のことを彼はよく思い出した。この日、あの些末な言葉を契機に、彼は思いもしない物語の登場人物の一人になったのだ。 「『えんむすび』、か」 「なあに? それ」 「わ!?」  自室の扉を開けた瞬間に聞こえたその声に、賢八はあからさまに動揺した。あやうく階段を踏み外しそうになって、階段の端の手摺りにしがみつきつつ堪える。 「いけっ! 墜ちろっっ」 「っっっっっ!!!」  はしゃぐ声を気にする余裕もなく、言葉にならない声を上げる。数瞬後、彼はかろうじて体勢を戻してひと息ついた。 「はあ、はあ。……何が逝けだ墜ちろだ。薄情もん」 「大丈夫だって。狭いからすぐ身体がひっかかって止まるって」 「他人(ひと)様ん家(ち)の間取りをバカにするな」  まともに相手をするの馬鹿馬鹿しくなって、再び賢八は大きく息をつく。 「帰れ」  吐息と供に言った。 「うん。今週号出してくれたらすぐ帰る」  あまりにもあっさりとした条件提示に、彼はすぐに返事をするのも面倒になって自室に入った。だいたい入り口はこの一カ所だけなのに、この少女は―一応少女と言っておく、が―窓からあっさりと入り込んで来るのだ。いくら何でも不謹慎というものだろう。小学生の頃ならばいつでも友達(、、)が来られるというのは嬉しいものだったが、二人ともずっとそのままでいられる訳ではなかった。 「晶(あきら)。いい加減に窓から出入りすんのは勘弁してくれ」 「そりゃあ、こっちに上がられちゃ困るけど」 「自分が困ることを平気で人にするのかお前は」 「んー、ごめん。今週号まだかなーって思って窓開けてみたら開いちゃうんだもん。不用心だなーって思って」 「……。不用心だったのは認めてやる。でもだからって入っていい訳じゃないぞ」  あまりにも軽い、軽すぎる『ごめん』に賢八は詰問する気が失せた。窓の鍵を開けていたのも事実だ。自覚のない相手に自覚させるよりは、自身の不注意に舌打ちして済ませてしまう方が効率的である。 「はやくー。今・週・号」  晶と呼ばれた少女はひたすらにその言葉を連呼している。お気に入りの連載がある漫画雑誌の発売日で、彼が帰りの電車でそれを購入している習慣は分かっていた。なので、彼女はその彼から読み終わった雑誌を回収するのが習慣になっている。  少女は、小柄だった。快活にしゃべり、陽気に笑い、大声で怒る。喜怒哀楽の三つまでを持て余すことなく発揮している。ツインテールに括った長い髪は、少女の活発な動きに合わせてよく飛び跳ねているのを見かける。 「なんかさ。そこまで露骨にモノ目当てだと、出すの嫌になんだけど」 「ええーーっ。そんなこと言わないでよ。お願い!」  不満の声を上げたかと思うと、勢いよく両手を合わせて賢八を拝む。きびきびとよく動く少女である。 「どうしようかなあ」 「今週号をください」 「素直になられても、今更だよな」 「もう! くれって言ってんじゃん!!」 「逆ギレかよ」  晶は―ふーっと猫のように息を吐くと、今度は一転してくねっとしな(、、)を作った。 「ねーえー、おにいちゃあん」 「やめろ。それだけはやめろ。やめてくれ」  鳥肌が立ったのを感じつつ、賢八は慌てて鞄から雑誌を取り出した。効果覿面(てきめん)である。 「あははっ、ざまあ見ろこのシスコンっ♪」  陽気に罵ると彼女は漫画雑誌をひったくるようにして賢八から奪った。仕掛けた本人からそんな評され方をするのは、彼としては理不尽であるし不本意の極みでもある。  ふと、少し心配になって、訊いてみる。 「晶。お前、どこでそういうの覚えて来るんだ」 「ん? ああ、あの『おにいちゃああん』って?」  ぱらぱらとページを繰りつつ少女は声だけを再現する。 「やめろっての。―お前、勘違いするなよ。逆効果だからな、それ」 「何よーしっかり全身(特に下半身)で反応しといてその言いよう」 「ちょっと待て。何だその(特に下半身)(かっことくにかはんしん)て」  次から次へと独特の言い回しがよくも出てくるものだった。学校で流行っているのだろうか。 「誰って、八尋(やひろ)さんだよ。あたしにいろいろ教えてくれるの」 (姉貴っ、あんたか!)  眼鏡をかけてうっすらと微笑する姉の顔がすぐに思い浮かんだ。数年前に社会人になってこの家を出て以来、ほとんど音沙汰もなくなっている……と思っていたが、最近になって突如舞い戻ってきた。この数年で何があったかは陽気に笑い飛ばすだけで実のあることは何も語らない。ただ、どういう心境の変化があったのか、家業を継ぐ意志をそれとなく見せ始めている。賢八からすれば「糸の切れた凧」から「ありがたい身代わり」に格上げされたものの、ともかく若無人な性格なのである。それでいて妙に鋭い。話していると余計なことまで見透かされている気がするのだった。  自分とは合わない、と思う。 (……でもまあ、悪気がある訳じゃなさそうだな)  姉の限界というか、悪くなり切れない要素を肉親として感じ取っている。妹分の晶に面白可笑しく『女性のなんたるか』を教えた結果があの妙な声音と仕草なのだろう。それならば他所(よそ)で濫用することもあるまい。 「あれだ。他のやつにそんな風にしても、だ。かえって―」 「うん。いいよ別に。賢ちゃんにさえ通用すれば」 (どういう意味なんだ)  そういう言われ方をされると、ほんの少し動揺もする。中学二年生ともなれば痩せた身体もどことなくふくらみを帯びて、女性らしさを感じさせる頃合いだった。  ―ああ、弄(もてあそ)ばされている。こんな、ただの隣家の少女に。  そう感じると、急に熱が冷めた。いい加減、それに付き合い続ける必要もないだろう。 「さ、気が済んだろ。それ持ってっていいから、もう帰れ」 「う、ん。……」  相手に言い捨てられて背を向けられると、張り合いをなくしたかのように晶も急におとなしくなった。そろそろ出て行くだろう、と思いながら賢八は鞄から参考書や問題集を取り出す。自分も含めて受験の準備は周囲が皆一様に進めており、こんな風に遊んでいる暇は本来なかった。 「ねえ。『えんむすび』って、なに?」  怪訝そうに賢八は相手を振り向く。晶の表情は、素朴な疑問をそのまま表しているかに見えた。 「何?」 「えんむすび。先刻(さっき)、部屋に入って来たとき言ってたじゃん」 「言ってたか」 「うん。言った」  言い出したら聞かない。それだけ、自分の記憶と耳に自信があるのだろう。  これ以上下手に惚(とぼ)けてもきっと堂々巡りだ。少し言葉を選びつつ、賢八は返すことにした。 「ん。―訊かれたんだよ、今日。『縁結びの樹』、だってさ」  答えながら、賢八は今日の駅までの帰り道を思い出していた。学校からの帰り道、あれは二人が『いこい』という名の茶房の前を通り過ぎる時だったか。 「『縁結びの樹』って……知ってる?」  傍らの少女は、軽くそう訊いた。少し話が途切れて、沈黙が生まれた頃だった。  秋が深まろうとしている。  二人の通う学校は、小高い山の頂付近にあった。  地名を、笠原と言う。何の変哲もない、ありふれた名前だ。由来も容易に察しがつく。ちょうど、笠を地面に伏せさせたような形状なのだ。そしてこの近辺の住所は『笠原』。都心部から電車で一時間弱は離れた郊外に位置している。  ―だのに、何故かその山は「神楽山(かぐらやま)」と広く認識されていたし、実際そう呼ばれていた。自然、校名もまたそれを冠していた。その近辺では有名な公立の進学校である。男子は詰め襟、女子は黒のセーラー。襟や袖の二本の白いストライプがはるかな昔から変わることのない神楽山の制服だった。  毎日が小登山のようなものだった。最寄り駅から商店街、住宅街を抜けて笠原参道へ。小山の中腹にある笠原神社をさらに石段を登り、天辺(てっぺん)の平らな部分に古びた校舎と土のグラウンドがあった。  『いこい』という茶房はその山の入り口を少し入った所、樹々が途切れた空間にある。こぢんまりとした平屋は校舎と競うかのように時代を感じさせる。神社への参拝客と神楽山の学生たちを相手にした商売でこの店は存(ながら)えているに違いない。 「縁結びの樹か。……聞いたことくらいはあるけど、どこの樹の話?」  正直に賢八は答える。どんなものかはなんとなく察しがついたが、実際には見たこともない。  『縁結び』は、昔から幸福(しあわせ)のひとつとして願掛けや祈念の対象であり、各地にその象徴がある。樹であったり、井戸であったり、神社であったりする。曰く『そこで願掛けをすれば末永く幸せになれる』『良縁に恵まれる』といった類のものだ。 「ウチの学校の近くにもあったらしいよ。縁結びの樹」 「ふーん。そんな樹があるんだ。―でもさあ」 「ん?」 「そういうのに頼ってまで一緒になったとして、後でダメになっちゃったらどうなるんだろ。キライになった相手ともずっと結ばれちゃうってこと?」 「……。ずいぶん夢のない解釈をするんだな。お前」  『うまくいかなかった時のこと』が先に出てくるとは。いつも夢みたいなことを言っていると思ったが、少女は、いつのまにか少女ではなくなりつつあるのかもしれない。自分がこれくらいの年齢の時はどうだったろうか、とふと考えた。 「でも別に縁結びの樹ってやつは魔法の樹じゃないぞ。それじゃまるで呪い(,,)だ。樹は樹さ。何もしてくれないよ。その後二人の仲が壊れたら、それはそれっきりさ」 「じゃあ何にも意味ないじゃん」 「まあなあ。願掛けなんてのはそもそも意味がない人間にはとことん意味がないし」 「?」  少ししかめ面で晶は腕組みしている。小首を傾げてあらぬ方を見ている少女は今、考え込んでいる。 「つまり、暗示だ。『これだけのことをやってるんだから、うまくいく』。誰の為でもない。自分たちで自分たちにそう信じ込ませたいんだ」 「ふーん。……」  難しい話だろうか。  ―そうかもしれない。  願いは思えば叶うものだと、彼も思っていた頃はあった。それが、ちょっとずつ、届かないことがあまりにも多いことに気が付いて、それが当たり前なのだと分かる。 「意味あるのかなあ、それって」  同じ事を晶は繰り返す。『思い込み』や『暗示』というのは、何だか自分を騙しているだけのように感じるのだ。―催眠術のように。そんな行為に何の意味があるのか。彼女にはどうしてもそれが分からない。  賢八は、その素朴な相手の表情に、少し安堵した。 「じゃあ、お前には(、、、、)意味がない話なんだ。きっと」 「どういうことよそれ」 「そういうのにすがる必要がないってことさ。でも、その方がずっといい。晶らしい」  諭すように言われると、子供扱いされているようで晶は面白くない。―自分より、ほんの少ししか年上ではないくせに。  ただ、その数年の差が、異なる学校へと二人を離れさせ、それが一層大きな差を作っているように彼女には思えた。小学校までは数年は同じ学校だったのだ。その頃には、もっと明るくて元気があったように思う。悪く言えば老けた。良く思えば、一人だけずうっと大人になってしまった。そんな感じだ。  あと一年と半年ほどが過ぎれば、自分も追いつけるのに。  でも、その頃には。その学校には賢八は居ない。彼は卒業し、また自分とは別の世界での生活を始めているだろう。 「―その樹って、神楽山のどのへん?」  好奇心か、あるいはそれ以外の理由か。本人にも判然としないまま、少女はさらに踏み込んだ。 「さあな。知らない」 「何よー。そこまで話しておいてそれはないでしょー」  一転、少女は口を尖らせて文句を言う。別にこちらから望んで話し始めた訳ではないというのに、いつの間にやらここからさらに話を盛り上げるのは賢八の役割になっているらしい。 「いや。ほんとに分からないんだ」  この話を聞いた時も、結局、ここまででそれ以上の展(ひろ)がりようがない話だった。 「つまり―」  あの時、彼女はこんな言葉を言っていた。今は誰も知らない光景。 「今はもうどこにあるのか分からないんだ」  『喪われた風景。』  ―と、彼女は―長谷川 遥佳(はるか)は、そう言っていた。      2. 「ウチの学校の近くにもあったらしいよ。縁結びの樹」 「へえ。じゃあ、神社の境内かな」  笠原神社はお世辞にも大きな神社とは言えないが、昔から地域の信仰を象(かたどる)るものとして鎮座している。普段は、神主すら住まぬ状態で『打ち棄てられた』『朽ち果てた』という印象すらあるのだが。  遥佳は首を振った。それだけで長い髪がほのかに芳香して、賢八は今更ながら彼女を実感した。 「それが、学校の校舎、ほら新館があるじゃない?」 「どっからが新しいんだかさっぱり分かんないんだけど」  的はずれな少年の感想に、彼女は弾けるように笑う。こうした素朴な言葉が、どうやら遥佳のツボには嵌(はま)るらしかった。 「あははっ、言えてる! そうよねー、どっちも旧いもんね。でも微妙に壁の黄ばみ具合が違うのよ。境目で分かるもん」 「ふーん。……」  感心したように少年は頷き、そして少し考えてから、念のために訊いた。 「わざわざ確かめたんだ」 「だって新館本館って呼んでたら気になるじゃない。ならなかった?」  さすが理系である。おそろしく探求心が旺盛なのだ。しかも人によっては本当にどうでもいい事を。 「―まあ、いいや。それで新館が建てられた時にその樹は伐られることになったとかって、そういう感じ?」  少し先回りして賢八は話を許に戻そうとした。彼女は、会話の蘊蓄(うんちく)もその脱線癖も堂に入っている。 「いい線いってるけど、微妙にハズレ」  遥佳は陽気に採点した。 「伐るって段になって反対の声が上がって、樹はお引っ越しをしたの」  そうした行事は日本的だなあ、と賢八は思う。草木や路傍の石にすら神が宿るというのだから、功徳のある樹となればそれなりの祭られ方をしてきたのだろう。伐るよりは「移す」ということになったに違いない。 「だけど、それからは以前ほどは流行らなくなっちゃって、それがいつの間にか『知る人ぞ知る』になって、ついには『誰も知らない』になっちゃって、今に至る訳」  誰も知らない縁結びの樹、か。  これほど無意味な存在は珍しいに違いない。神木は、人々から忘れ去られてただの草木に戻った訳だ。 「―それにしても」 「うん?」 「ずいぶん詳しいね。そういうのに興味あったんだ?」  言いながら、ただの興味ではなさそうに思える。伝説伝承が好きというだけでなく、この笠原―神楽山に詳しすぎると思った。一連の『縁結びの樹』の逸話(エピソード)は、地域の文献など地味に調べなければ到底得られない話ではないか。  遥佳は、はにかむ仕草を見せた。 「う・ん。……あのね」  言うか否かを少し迷い、彼女は言いあぐねている。その様子を端で感じて、賢八は自分までもが心拍が変わっていくのを感じた。そういえば、まだ、お互い、肝心な一言は言っていなかったと思う。そういうことなのだろうか? 意識するなと思っても、妙に期待してしまっていた。  彼女は意を決したかのように、胸元のポケットから生徒手帳を取り出した。そしてとあるページを開くと、小さな紙片を賢八に差し出した。 「何で詳しいかっていうと、―これな訳」  写真……だった。  古びた写真で、褪色している。妙に青が強い。  二人の男女が移っている。少年と少女だ。丁度、自分たちと同じくらいの年齢―だろうか。  少年の方は、丁寧に髪を七三に分けており、いかにも一世代は前の学生風だ。眼鏡の柄が太くて重そうな印象を受ける。制服姿―は、同じ学校だろうか。当時は何処も詰襟だろうから明瞭(はっきり)とは断言できない。  そして少女の方はといえば、 「……え?」  しばらく凝視し、彼は不審さに満ちた声を上げる。  髪型こそ少し異なるが、そこには、遥佳が写っていた。色褪せた風景の中で、彼女だけはそのままであるかのように、にこやかに微笑している。 「これ、うちのお父さんとお母さんなの」 「は? あ、ああ、何だそうか。はは」  あっさりと正解を出され、賢八は常になく狼狽えた。当たり前だ。この旧い写真の中に在る彼女と、今此処に立っている彼女。同一人物である筈がない。―だが、一瞬でも、彼はその可能性を疑ったのだ。それくらい遥佳の母と遥佳は酷似している。 「やっぱり似てるかなあ。親戚からもよく言われるの。私が大きくなればなるほどよく似てきたって」  彼女の方はあまり嬉しくもなさそうである。―かもしれない。似ていたとしても当たり前だし、似ているからといって何の得もない。むしろ自分が誰かの模倣品という発想にもなれば、マイナス要素の方が強い。 「ふうん。……じゃあ、この樹、後ろに写ってるのがひょっとして」 「当たり。移した後の『縁結びの樹』なんだって」  そして結ばれたというのなら、まさに樹が取り持った縁(えにし)ということか。賢八はそれなりに感心した。遥佳の両親二人の律儀さにである。  高校時代の、こんな約束でこれから将来(さき)の長い人生に早々と束縛をかけたのだ。羨ましいとは、あまり思えなかった。  とはいえ口にする必要もない感想だ。彼女はそんなエピソードを気に入っているようだし、少なくとも遥佳がこうしてこの世に生を受けたのはその二人の律儀さの結果だし。賢八は、不遜な発想に浸るよりもむしろ感謝すべきだろう。 「だけどね。二人とも、もう覚えてないんだって」  そう告げたときの彼女の口調は、元気がない。寂しげに呟いていた。 「……覚えてないって、何を?」  これだけのエピソードを語っておいて、何を覚えていないというのだろう。会話の先回りをクイズのように楽しむ癖があるこの少年も、察しかねて控えめに訊ねた。 「樹の場所! 訊けばいろいろ出てくるのに、場所は全然覚えてないんだって。年かしらねえ」  遥佳は、今度は空を見上げて大きく溜め息をついていた。彼女にはそれが不満なのだ。そして、大事なことであっても忘れてしまうことが寂しかったのだろう。 「―だからこれは、『喪われた風景』。地図にも載っていない場所で、人が訪れることもないままで、縁結びの樹はずっと人を待っている」  喪われた風景、か。  その表現に詩的な印象を得て、賢八は想像する。じっと立ち続けてきた樹の、穏やかで眩しい木漏れ日。その下で生い茂る草花。人為と自然とが織り成す一幅の絵のような風景。  誰も訪れなくなって、しかしずっと待ち続けている、縁結びの樹。 (―そんな訳ないか、な)  小さく苦笑する。お伽話ではあるまいし、と自らその空想を棄てた。しかしそれと同様に美化されがちのものがある。  ―人の抱える「思い出」……だ。  実際には何十年も前のことで、景色だって変わるだろう。だが、訪ねることがなければ記憶の風景はただ美しく色褪せる。たとえその樹が枯れていようと、二人にとっては大事な記憶に違いない。だから(、、、)、場所のことは忘れていたいのだろう。今になって、訪ねることもないように。  彼がそうしたことを伝えると、彼女は驚き、そして少し考え込んだ。 「なるほどね。記憶に残したいから、忘れる。―そういう心理が働いてるのかもね。うん、なんだか納得」  何回か小さく頷くと、彼女はにこりと賢八に笑いかけた。 「櫻井君は、いいね」  率直に、彼女は言う。賢八はどきりとした。 「な、何が」 「ちょっと他の人と違った発想かなあって。あの、変って意味じゃなくて。面白いもん、話してると」 「別に、面白くしようとしてる訳じゃないんだけどな」 「いいの。私が面白いって思うのは勝手でしょ?」  相手の戸惑いなど簡単に丸めて包んでしまうような、遥佳の言いようである。 「―ねえ」 「うん」  ここで少し時間を掛けて、遥佳は思い切ったように言った。 「その……縁結びの樹、探してみない?」 「じゃあ探そう」 「え?」  少女の声に賢八は我に返った。いったい今の台詞は誰が言ったのか。 「今なんて言った?」 「む。何惚(とぼ)けてんのよ」  彼女からすれば、目の前の少年が会話をしながら数時間前の過去に思いを巡らせていたことなど知る由もない。しらじらしくとぼけているように感じたのだ。晶は、そうした言葉の狡(ずる)さが分かる。そして分かってしまうからこそ許せない性質(たち)だった。 「違うってば。ほんとに、ちょっと今他のこと考えてた」  それを知っているから、賢八も素直に謝った。が、不機嫌な晶は容赦がない。 「どうせやらしいこと考えてたんでしょ変態! ロリコン!」  多少やましいかもしれないが、やらしい訳ではない、と自分で思った。しかしここで賢八がそう主張しても火に油……火にマグネシウムか。今の晶は水の中でも燃えそうな勢いだ。 「で、何だよ。話の続きは」 「あっきれた。ほんとに聞いてない。―探そうよ。その、縁結びの樹」  賢八は反応できなくなった。  そんな物好きが、よりにもよって自分のそばに二人も居ることに何より驚いていたのだ。 「……何でお前、そんなもの探したがるんだ」 「なんでって、探したがってるのは賢ちゃんでしょ」  どうなんだろう。自分でも正直はっきりしない。―少なくとも、 「そんなことは一言も言ってない」 「わっかるわよ。何年賢ちゃんの生態を観察してると思ってんの? このあたしを」  かれこで十年近くになるのだろうか? この少女とのつきあいは。  確かにお互いの状況や動向は知り尽くしていると言っていい。特に晶は時として心の内まで言い当てるような鋭さがある。もっともそれは賢八も同様で、むしろ賢八の「会話の先走り」に対抗しているうちに晶も鋭くなったとも言える。  今は、まさに晶が相手を読み切った(、、、、、)ということだろう。 「おおかた学校の女の子にでも言われて興味を持ったんでしょう。その、『縁結びの樹』」  外れていない。しかしこの場合、素直に認めたくもなかった。年下の少女にそこまで見透かされるのは格好の良いものではない。 「それがどうした?」  殊更に平静さを装って返した。―つもりだった。が、 「それがどうした? って、声上擦らせて何よ。カッコ悪うーい!」  ……不慣れなのである。そこを直撃されて、平静を装った声が見事に裏返っていた。  一転してにやり、と晶は小悪魔めいた笑みを見せた。 「まあいいんだけど。そんな理由でもなけりゃあ、賢ちゃんがそんな樹のこと気にするはずないし。―だからさ、ここはひとつひと肌脱いであげようと思って」 「脱ぐのか……」 「! 勝手に脱がさないでよバカ変態!」 「いててて。……お前なあ、何を一人で騒いでるんだよ」  ほとほと辟易したかのように賢八は嘆いた。―こいつが騒ぐのはいつものことだ。と、思いはしても、最近この手の反応の過激ぶりは度を超している。面白い反面、叩かれる肩が痛い。 「だいたいお前、目的は何だ。縁結びなんかどうでもいいんだろうし、まさか俺のことを手伝おうなんて健気な訳じゃないだろ」  理詰めだ。理詰めで圧倒するしかない。賢八は反撃を試みた。 「そりゃあ、さ。面白そうじゃない」 「……樹を探すのが、か?」  ひたすらに地味だ、と思う。少女も同様で、むしろさらに容赦のない言葉を重ねた。 「そんなのはどうでもいいよ。私が興味あるのは、賢ちゃんにそんなこと言い出した女の子」  そう来たか、と少年は苦々しく思う。この少女ならば、その興味はむしろ当然かもしれない。だがそれは動物園に珍しい生き物を見に行くような感覚だろう。珍しいつがい(、、、)を眺めてみたいのだ。 「何処のどんな人かなあって。なんか面白そうじゃない」  はああ………………、と。賢八は心の底からといった様相の溜め息をもう一度ついた。 「お前のことだ。そこまで言った以上、俺の返事がどうなのかも分かるよな」 「えーーっいいじゃん別に。なんだかんだ言って手伝ってあげるんだよ?」 「いやいやいやいや。別に頼んでないし。謹んでお断りする」 「ちぇーーーっ。失敗したなあ。もう少し『おにいちゃああん♪』とか甘えた声で付け入ればよかっ」 「あーもういいから。いいから! 今日のところは今週号で勘弁してくれ」  最後は拝み倒すように。賢八は晶に手を合わせて頭を下げる仕草を繰り返した。 「ん。分かった。今週号に免じて今日は許してあげる」  ……所詮はその程度の思いつきなのだ。そんなものを契機に微妙な私事(わたくしごと)に踏み入れられてはたまったものではない。―どうせこの場をしのげれば、少女は忘れてしまうだろう。そんな気安さもあって、賢八はこの場はひたすらに下手に出ることにした。  晶は上機嫌で窓枠に手を掛け、軽々とそれを跨いだ。  途中、足を止めて賢八を振り返る。 「見ないでよね」 「見てないよ」  予想通りの反応に、賢八は予め背を向けて手をひらひらとさせて返した。最近この手のもの言いが増えたなあ、と思う。気にするくらいなら、そうした行動を慎むべきなのだが。そのあたりが微妙な均衡(バランス)の年頃……なのか。 「ほっ」  屋根に出ると、晶は自分の家の屋根めがけて軽く跳んだ。とん、と軽く音を立てて着地する。身軽なものだった。昔から、そうだ。  区画の都合だろう。賢八と晶の家の間はとても近く、窓越しに何をしているのかも簡単に分かってしまうほどだ。こうして屋根の間を軽く跳ぶだけで行き来することもできる。昔はそれが楽しくて仕方がなかったが―今は、どうだろう。歳を重ねるに連れて晶はカーテンを閉め切ることが多くなっていたし、それは彼も同じだ。  墜ちはしないかと最近はさすがに心配にもなる。この瞬間だけは、賢八は振り返ることにしている。 「おー。いい眺め」  ……落下を懸念した階下の方から、いやらしい声がした。 「ちょ、やだ! 八尋さん!」晶は初々しく恥ずかしがった。……この差は何だ。 (姉貴、居たのか)  確かに今は無職なのだから、外をぶらぶらしていなければ家に居ることが多い。家に帰ってきた当初はそれも許し難い怠慢だったが、今では互いの距離をそれなりに弁(わきま)えている。賢八はこの家をいずれは出て行くつもりだし、姉は帰ってきた人間だった。それぞれに居場所があるのだから、一定の尊重さえ持つことができれば争う必要もない。 「元気だねえ、晶ちゃんは。お姉ちゃんにもその若さ分けてよ」 「八尋さんは十分若いですってば。あ、そうだ。後でちょっとお話あるんで聞いてください―」  二階と一階とでやりとりをするのを聞きながら、賢八は窓を閉めた。晶が何か言って雑誌を持った手を小さく振ったのが見えたが、よく聞こえなかった。  机を振り返ると、彼は顔を洗う時のように手で顔をこすった。とんだ乱入者が居たものだったが、切り替えなければならない。彼は受験生なのだ。そして、それほど余裕のない受験生だった。 (ここで失敗したら、親父にも姉貴にも会わせる顔がない)  それほど気負うつもりもないし、重圧と称するほどの逼迫さはないはずだが、賢八はそう思っている。今までは、それが力を与えてくれたのだ。  しかし今日はなかなか身が入らなかった。どうかしている、と自分を叱り付けたくなる。いつもの平凡なやりとりの中で、ただ一言、違った言葉が紛れ込んだだけだというのに。 (櫻井君は、いいね)  この言葉が、妙に彼にまとわりつく。  だから彼は帰宅の道すがら考えたのだ。これは恋か、と。 (……。かもしれない)  夜、一人きりで難解な数式に手が止まっていた時に、賢八はふとそれを認める気になった。      3. 「あんた『フォーチュン・ツリー』を探してるんだって?」 「何。そのなんとかリーって」  弟の無愛想な反応に、彼女は片頬だけで笑みを作った。 「そこで区切るあんたの言語感覚がまた独特。―"fortune tree"! 幸せの樹、よ」  今度は気合いの入った英語風味の発音で彼女は言う。それで言いたいことは伝わったが、賢八は素っ気なかった。 「"fortune tree"なんて言葉はないと思うよ。いかにも作りそうな言葉だけど」  すると相手もさるもので、豊かな胸を大きく反らして自信たっぷりに返した。 「そりゃそうよ。あたしが造ったんだもの」  賢八は驚かなかった。姉は、八尋(やひろ)はそういう女性(ひと)だ。彼女が話すと何もかもが当たり前で簡単に聞こえる。 「姉貴の頭ん中までは俺、読み取れないし。まずその説明が欲しかったかな」 「あらほんとに知らなかったの? 探してるっていうんだからてっきり知ってるとばっかり」  『自分が造った言葉』と『名付けた対象』が別で、しかも前者は『本人しか知らない情報』ではないのか。『対象』を見聞きしているからといって『姉が造った言葉』を知っていなければならない道理など、地球上のどこを探してもあるはずがない。  が、その前提はひとつ誤りがあったらしい。 「フォーチュン・ツリーって呼ばれてたわよ。あたしの学校では、ね。―神楽山の『縁結びの樹』」  一連の会話の中で、初めて賢八は真面目に相手の話を聞くつもりになった。椅子を回転させて姉へと向き直る。 「お。食い付いてきたわねー。何だかんだ言って探す気まんまん」 「またそうやって、『俺を釣るのが目的だった』なんて言うんじゃないだろうね」  言いかねない姉だし、実際、何度かそういう苦汁を飲まされている。  彼女は部屋の中に入ると天井の明かりを点けた。芳香で分かっていたが、風呂上がりらしい。彼女は自分の部屋に帰ってくるついでに弟の部屋に寄ったのだった。  窓際、ちょうど夕方頃に晶が出入りした窓枠に腰掛けると、彼女は缶ビールを開けた。 「んな訳ないでしょ? あたしはあんたの仕合わせをそりゃあ願ってるわよ」  姉の情緒過剰な言葉に、弟は無味乾燥に応じる。 「晶から何を聞かされたんだか知らないけど、デマじゃないなら聞くよ」 「あらま」  大きく息を一つ吐いて、八尋は足を組み直した。ビール缶を持つ手を賢八に向けて諭すように言う。 「あんたねえ、そういう可愛くないこと言わないの。顔は可愛いんだからもっと天使のように素直になんなさい」 「こぼすよ。―それにね、姉貴。その点については自分の胸に手を当ててちょっとは考えて欲しいかなって思うよ。俺としちゃ」  この歳になって『可愛い』扱いされても嬉しくない。どこまでも馬鹿にしている。 「あたしが自分の胸に手を当てたってつまんないわよ。あんた自分の手で触ってみない?」  言いながら、八尋は自分の胸を両腕で脇から押し上げて示した。  そして、無言の時間が数秒過ぎてから、彼女は両膝と両手を揃えて謝った。しおらしくなって言う。 「ごめん。つまんなかった」 「面白かったら許されるのかよ!」  そういう話ではあるまい。 「あたしが言いたいのはねえ、大人しく素直になりなさいってことよ。聞きたいんでしょ?」  悪びれる様子すらなく、彼女はビールを口にした。  …自分の胸を巫山戯(ふざけ)て誇示することと、弟をもっともらしく諭すことがどうしても賢八の中では関連づけて理解できない。―が、そもそも、この姉を理解しようとするから無理が出るのだと改めて思い至った。 「うん。聞かせてよ」  素直さを装う。その程度の処世で良いのならば賢八でもこなすのである。  素直になった弟を満足げに見て、八尋はほん少し旧(ふる)い話をした。 「あたしが高校生だった頃はもうン年前になるけど、その頃には神楽山の縁結びの樹はそこそこ有名だったわよ。―で、そんな古くさい名前じゃカッコもつかないからあたしが名付けたの。『フォーチュン・ツリー』って。これがけっこう流行ったんだから」  そういう、横文字が珍しがられたり好まれたりする時代だったのだろうか。無理に名前を変えなくとも、『縁結び』は詩的でゆかしく思えるのだが。  ともあれ、話は随分単純(シンプル)になった。こんな身近にその樹のことを知っている人間が居るとは思ってもみなかったが、後は所在を確認するだけである。 「じゃあ、その樹、神楽山のどのへんなの?」 「うーん? 確か、笠原神社から少し路を上がっていった所だったって聞いてるけど」  ……あまりにも抽象的なその表現に、彼はたちまち表情を渋くした。 「姉貴。つまり知ってるだけ(、、、、、、)で、場所は知らないんだな」 「うっさいわねえ。結ぶ縁もなかったってのになんでそんな樹拝みに行かなきゃなんないのよ!」  逆に八尋は弟に噛みついた。―確かに、何か目的がある訳でもない限り、わざわざそんな場所まで出向いたりはしないだろう。恩着せがましく話し始めておいてこの結末では物足りないが、少なくとも、嘘ではなさそうだ。少なくとも、姉には確かに結ぶような縁がなかった。  姉の反応にやや引きつった笑みを作りつつ、賢八は考える。……別の学校の生徒にも知られているというのは、遥佳が今日話してくれた『喪われた風景』とは違う気がする。つまり「やはり別の樹」のことを語っているのではないかと思える。 「樹、違いか…」 「何ですってえ?」  姉の凄んだ声に、賢八はうかつだった自分の呟きに気づいた。音で読むと今の呟きは放送禁止用語である。 「いや、そうじゃなくて。人違いならぬ樹、違いなんじゃないかって」 「まあねえ。神楽山はいくつか伝説や噂もあるからね。でも『縁結び一号』とか『二号』がそうそうあるとも思えないけど」  それも道理である。だいたい、人に御利益をもたらすものは「珍しいから」こそ有り難がられるのだ。そう何本もあってはたまらない。どちらかが嘘、ということになり、いずれ淘汰されるだろう。……いや、となると、まさに(、、、)そのケースか。遥佳が語った樹の方は、淘汰されて人々の記憶からも消えた(、、、、、、、、、、、)のか。可能性はある。 「姉貴」 「なあに?」 「その、ン年前の話から、そこそこ有名だった訳だよね。その樹」 「中高生って好きだからねえ。土地の伝説。『口裂け女』とか『トイレから突き出る手』とか」 「え? いやいやいやいや。姉貴には縁がなかったけど、実際行った人だって居たんでしょ?」  このへんをごっちゃにしてはいよいよ訳が分からなくなると思う。確かに縁結びなどは伝説の類だが、実際に見た人間が居るのならばその時その樹は確かにあったのだ。賢八は、別に伝説の真偽を確かめたい訳ではない。その場所を知りたいだけだった。 「いやなこと言うわねえ。縁がない、ないって」  酒が回り始めているのか、八尋の目はもう据わっている。たいして飲めないくせに風呂上がりの一杯はたしなみとばかりに欠かさないのだ。顔は赤くなって口調も確かではなくなった。 「いや、うん、―ごめん。つまんないこと言った」 「なによぅ。おもしろいとか、つまんないとかそういう問題!?」 「え。いや、俺のは別にそういう意味じゃないん―」 「いいわよ別に。どうせあたしはねえ、行き損ねた年増なのよーだ」  ……何故、こうも突然に姉の愚痴につき合わねばならなくなるのか。賢八は、酔っぱらいは嫌いだった。というかこうしたことを幾度となく繰り返して、嫌いになっていった。絶対にこんな人間にはならない。なりたくない、と思う。しかし一方で、この姉と同じ血が自分にも流れていると思うと複雑な心境になる。 「面倒だから話を戻すと―有名だった割には、今はほとんど聞かないんだけどさ。何かあったの?」  通じるか分からないが、賢八は訊きたいことを口にした。これがひとつ明瞭になれば、ただの都市伝説も実体を得られそうな気がしたのだ。 「―。……。ああ、そういえば、確か」  ずいぶんと頼りない思考の果てに、八尋は、にこりと賢八を見た。  なんだかとても嫌な予感がした。 「したいが」 「え?」 「……『死体が、埋まってるとか』ってねえ」  嫌な予感は、今や妙に艶々(つやつや)しい酔態を晒す女の言葉で具現した。 「―それは、つまり、その、」  死体は死体である。どう言葉を飾ろうと実体は変わらない。 「だから―、人は遠ざけるようになったのか……」  一体誰の死体が埋まっているというのだろう。これまた都市伝説の、いわば付録のような話であるが、気になった。この展開では気にならないはずがない。姉の言葉や態度には嘘が入り込みようがなかった。―何しろただの酔っぱらいである。酔った上での妄言かもしれないが、少なくとも姉の悪意(、、)が関与しようがない状況で、極めて不吉な対象を耳にしたのだ。  それなら人が退き、いつしか忘れ去るのも分かる。事実なら縁起の悪いことこの上ない。  これではフォーチュン・ツリーどころか魔性の樹だ。 (……長谷川さんは、それを知っているのだろうか)  もし、あの霞むような笑顔を見せて「探しに行こう」と告げてくれた彼女がこれを知っていたら。―それは賢八の想像を超えた。知らないのだろう。  ……そもそも真実かどうかも疑わしい。所詮はただの伝え聞いた話、だ。  そう考え直すと、彼は幾分安堵の息をついた。何もそこまであれこれと先走る必要はない。  そもそも、と考えていけば、まず第一の疑問がある。 (―どうして、俺を誘ったんだろう)  素朴に考えてみようとしたが、賢八は失敗した。どうしてもこの結論が待っている。顔立ちの良い同い年の少女から、そのように誘われるのは、特別な意味があるに違いない。―と、 (そんなことはないだろう)  などと思うようにしていても、どうしても反対のことを思ってしまう。自意識過剰ではないか。などと自分を冷たく突き放して見ても、それはポーズでしかなかった。考えれば考えるほど、彼は遥佳を意識せずにいられなくなっている。  ひとつ、息をつく。 (らしくない)  それは事実なのだろうが、今の彼にはその思い上がりと勘違いに昂揚を感じている。勘違いでもいいじゃないか、とさえ思える。 (考えていても始まらないな)  そこまで至っても、その先が真っ直ぐでないのがやはりこの少年らしい。  その樹を探してみよう、と思った。  相手と自分の気持ちを確かめるのならば、今からでも会って話せばいい。電話だってある。しかし彼はそれを避けて、わざわざ遠回りを選んだ。しかも奇妙な遠回りである。  ―その樹が見つけられたら。  その時は、それを切っ掛けにできる。自分自身への言い訳に近いが、その時彼はそう思ったのである。……彼女も探している、その樹の下で。自分の今の気持ちを伝えてみよう。彼女の気持ちを聞こう。 「姉貴。他には―」  言いかけて、眼前の光景に賢八は言葉を失った。  姉は既に完全に眠り込み、畳の上で俯せになっていた。缶ビールが空になっているのは不幸中の幸いである。すやすやと快調な寝息を立てる姉の側にそれは転がっていた。  賢八は揺すろうとしたが、やめた。以前それで吐かれた苦い思い出がある。大声を上げようとして、やはりやめた。階下の両親がえらく怒った記憶が蘇る。こうしたことのひとつひとつが賢八から無邪気さや素直さを削っていったのだ。胸に手を当てて考えてみろ、というのは彼としては決して冗談ではなかった。肝心の姉は、一度もそうすることなく今もその豊かな胸を畳に押しつけて安らかに寝ている。悪気はないのだろうが今の賢八にはそれすら腹立たしかった。  このままでは布団すら敷けない。  ―放置すらできぬとなれば、排除するしかない。  八尋は賢八よりも少しだけ上背がある。ついに追い越せなかったか、と内心口惜しく思いながら賢八は姉を引き摺り上げた。場所を確保するだけならば廊下に出しておくだけでもよいのだが、やはり以前それをやって大風邪をひかれ、かえって後が面倒になった経験がある。そのままずるずると姉の部屋に運び入れると布団に寝かしつけた。  大きく溜め息をつく。そしてこう思ってしまうのだった。 (晶。お前はこんな女になるなよ)  憎いとまではさすがに思ったことはないが、およそ男として異性として許容しがたい存在である。そして、隣の少女はこの姉をどうやら慕っていて、いろいろと聞き込んだりしているらしい。最近言うことがいちいち姉に似てきている気がする。賢八はそれが面白くない。 (……何を聞いたかも、確認しておかなきゃな)  と、思った。晶の性格が陶冶されることを懸念しただけでなく、実のところ、神楽山近辺には最近大問題(、、、)があった。少女が独り歩きをするには幾分危険なのだった。  自室に帰り、窓の向こうの別の窓を見ると、明かりは消えていた。この時間だから寝てしまったのだろう。厄介ごとが増えた、と言わんばかりに再び溜め息をついて、賢八は自己採点済のプリントの裏に言伝を書いた。  神楽山が、此処からもさほど遠くないのが問題である。  フォーチュン・ツリーの話に興味を持った晶が探検気分で入り込んだら―。考え過ぎかもしれないが、可能性があるならやんわりと受け止めてやらねばならない。この「やんわりと」がポイントである。「行くな」「来るな」では絶対にやって来る。むしろ意地になって必ず来る。そういう少女なのだ。  わきまえたもので、文面を思いつくと彼は手元の紙片にすらすらと書き込んだ。それを手にして窓枠から身を乗り出す。 (……久しぶりだなあ)  あの少女と同じように屋根と屋根の間の間隙をひとまたぎすると、通風口になっている小さな窓枠の隙間に挟み込んだ。こんな通信手段を持っているのは二人しか居ない。  そうして、彼はようやく自分の時間を取り戻したのだった。とんだ乱入だったが全くの無駄という訳でもない。ノートと問題集のページを繰りながら思う。―後は、明日になってからの話だった。 (死体、か)  その言葉と語られた口許が妙に生々しく彼の記憶にまとわりついた。この部分だけは、今聞くべきではなかったのかもしれない。      4.  神楽山高校の図書室というのは、部屋というよりは別館が一つ出来上がるくらいの規模だった。一階が学校の歴史を辿る資料や賞状、盾、優勝旗などが並べられている。二階が一般書籍や参考書、学術書、小説などが並ぶ図書室になっている。  一階はほとんど生徒が寄り付かない。「縁結びの樹」を調べるに際して、彼もまず二階に足を運ばせた。確か地元の週刊新聞を長い間保存しているのだ。 (この校舎の建て替えだったら、ちょっとしたイベントだもんな)  昨日の遥佳の話からすれば、まずそこで樹は移されたのだ。どこに移されたのかも、当時ならば話題になったのかもしれない。建て替えは二十年ほど前だったろうか。  その後もしばらくは―姉が高校生だったン年前までは、それなりに有名な場所だった訳だ。  それがたちまち誰も寄りつかず場所も分からなくなってしまった、ということになる。 (そんなもんなのかな)  遥佳の話までは、よくある話である。しかし姉・八尋の経験談を耳にすると、少しおかしいと思う。  誰かが、隠したがっているのだろうか。ただ目的は分からない。  ―いや。それが、 (…死体、なのかな)  どうも悪く引き摺っている。あの時間帯、あの声音で聞いたのがよくなかった。  頭を軽く振りながら図書室の扉を開ける。  やや高い天井。背の高い本棚。古びた蔵書に伴う独特の匂い。使い古した机と椅子、誰も居ない受付のカウンター。  採光窓からは、柔らかく光が降り注いでいた。冬の陽差しがちょうど心地佳い。  先客が何人か居たが、その中に賢八の知る人物があった。 「よう」 「お。櫻井。珍しい」  同じクラスの倉田だった。一年の時に同じクラスだったこともあり、ただの級友以上の親しみをお互い持っている。 「お前はいつも此処か」  相手のひとことで、賢八は倉田少年がここの常連であると読見切った(、、、、、)。賢八が図書室に来たのは確かに珍しいことだったが、それが分かるということは、彼は常に此処に居座っていることになる。 「まあな。俺んち下が居るから五月蠅いんだよ。この時期だってのにさ」  溜め息としかめ面で倉田は頷いた。兄弟が居る家庭はそんなものだろう。賢八は、弟なのでさほどその点で苦労を感じたことはない。……いやそんなことはないか。 (よく勉強できてるな、俺)  弟だか妹だか他人だかよく分からなくなる晶と、出戻りで騒々しい姉・八尋に囲まれている。  とはいえ昨日のようなことが頻繁にあれば考えざるをえないだろう。その点此処は楽園である。まさに自習には最適だ。神楽山は地域の公立校としては有数の進学校であるため、この時間でも粛々と学ぶ生徒もちらほらと居た。  しかし、最近はそれも控えめにせよとのお達しが出ていた。 「最近は全然使えないんだけどなあ。四時までだなんてさ。あと三十分もねえよ」 「だよなあ」  理由が明瞭なので、それ以上言っても始まらない。しかし言わずにいられないのもまた人間というものだった。 「なあ倉田」 「ん?」 「新聞の縮刷版みたいなのって、どのへんだろ」 「知らねえって。俺は自習専門。自慢になんないけど此処の本は三年間一度も読んだことがない」  ほぼ予想通りの答えが返ってきた。それでもつい訊いてしまうのがまた人間である。 「図書委員、居るはずだぞ? 教えてもらった方が早いって。時間ないし」 「さんきゅ、倉田。帰り一緒に帰ろうぜ」 「おう。ちょうどいいや」  学校からは「なるべく複数人で帰ること」「可能な限り早く帰ること」との指示が出ているのである。毎日続けるとなるとこれは時として苦痛なのだが、そんな煩雑さを厭うだけでは済まない事態がこの学校では起こっている。―賢八が最近あの少女と一緒になることが多いのも、そうした指示の副産物(、、、)だった。その遥佳は、今日は別の女子たちと帰ってもらった。  一緒に探そう、とは言わなかった。……少なくとも、今は。 (見つけられないものだったとしたら、安請け合いはしたくない)  という奇妙な几帳面さが理由である。返事はもう少し自分なりに確かめてからでいい、と思った。だから彼は急遽調査を開始したのである。  時間がない。ぶらぶらと本棚の間を行き来するのも嫌いではなかったが、彼は図書委員を捜した。無人のカウンターだが、その奥が準備室になっている。きっとそこだろう。軽くノックすると声が上がったので、賢八はそっと扉を内側に開けた。 「はいっ、すみません! 何のご用でしょう」  ぱたぱたと小走りに出てきたのは、小柄な二年生である。今時珍しい左右の三つ編みに丸い眼鏡。頬にはそばかすが幾分残った顔は、思いもせずに来訪を受けてやや紅潮していた。菓子でも食べていたのだろうか。  その性急な対応が逆に気になり、賢八は本能的に準備室全体を見回す。だいたい慌てることがあるとすれば、何かを隠そうとするからだ。嫌な性分だが気になったものは仕方がない。  うず高く積まれた本、電源の入ったコンピュータ、大机……。そして、その向こうに座っているもう一人別の少女。  別に隠すようなものは何もなさそうだ。「電源が入ったコンピュータ」というのが珍しかったが、画面は緑色の文字で検索情報を表示しているだけに見えた。何を慌てたのだろうか。  別の少女は、眼前の少女と対照的なまでに落ち着き払っているのがまた興味深い。仲間の図書委員だろうか。だからといっておかしなことはない。だいたい委員の仕事は二人くらいの人数でこなすのだろうし、この少女の落ち着きぶりはごくありふれた日常を示してくれている。 (―気に、しすぎかな)  またしても自分の疑い深さが馬鹿馬鹿しくなって、賢八は小さく苦笑した。 「あの、何でしょうか?」 「あのね、新聞の縮刷版みたいなのを探してるんだ。地元のやつ」 「ええっと、新聞ならこっちですね……」  いそいそと彼女は準備室を抜け出し、賢八はその後を追った。名札がちらりと見えた。二年生であることを示す赤い色のバッジと、「有栖川」という奇妙な姓が。  扉が閉まると、準備室内に残された少女はその騒々しさを呆れるかのように小さく息をつき、ゆっくりとディスプレイのそばに立った。 「『かぐらやまのからす』について」  グリーンディスプレイはそんな文字が並んでいて、傍らのノートには同じ文言と多くの記述が加わったノートが並べられている。もう少し観察する時間が長ければ、今此処では書籍の検索が行われていたのではなく、情報の登録を行っていたのだと気づいたかもしれない。  さりげない動作でディスプレイの電源を落とし、ノートを閉じるとその少女は腕を組んで考える仕草を見せた。目を、閉じられた扉に向けながら。―あの三年生は、何故地元の縮刷版などを見ようとするのだろう? 漢字二文字の名札は完全には読み取れなかったが、  自分たちのやろうとしていることとあの三年生の行動が微妙に重なるかもしれないことを、幾分彼女は懸念した。 「このへんがおっしゃる新聞ですねえ。量が量ですから時間全然足りないと思うんですけど」  後輩の少女・有栖川はのんびりとした口調で賢八に本棚の三分の一ほどの高さ、広い範囲を両手で示した。 「う。やっぱり多いね」  といいながら、目当ての年代は把握できているのでその一冊を彼は取り出した。古びて黄ばんだそれをぱらぱらと当てもなくめくる。何ページかは貼り付いていて保存も良くなさそうである。……まあ、確かにわざわざこんなものを繙く人間が居るとは賢八も思いもしない。自分の場合も相当のレアケースだろうと思った。 「あの、そんなの調べてどうするんです?」  彼女も珍しいのだろう。そう訊いてきた。 「ああ、まあね。―新校舎、建てられた時の地元のことが知りたくってね」  『縁結びの樹を探している』とは言えなかった。何をどう思われてしまうか分かったものではない。 「へえ」  少女は他に言いようがない呟きを漏らした。 「これ借りる訳にはいかないやつ……だな」  少女に訊こうとして、賢八は背表紙の「貸出禁止」の赤いシールを見つけた。 「すみません。新聞は貸出不可なんです」 「いやいいんだ。じゃあちょっと見させてもらうね。ありがとう」  ここまで付き合ってくれるだけでも生真面目な女生徒だと思った。  賢八はひとつ息をつくと縮刷版を急いでめくり始める。図書室の利用時間が繰り上げ短縮されているせいもあるが、そもそも、こんなことに多く時間を費やすのは受験生の本意ではないのだ。気になるからやらない訳にもいかなくなってしまったが、済ませられるならさっさと済ませたいというのが正直な心境だった。  有栖川少女は準備室に戻ると、早速報告(、、)をした。 「三年D組の櫻井さんですね。新聞の縮刷版は二十年前の三月をご覧になってました。探すのが早かったので当てがあったんだと思います。『新校舎を建てた頃の地元のことが知りたい』というのが目的だそうです」  すらすらと、小声ながら的確に告げていく。  報告を受ける側の少女は、小さく首を傾けた。ほんの短く。彼女が疑問を持った時の癖なのだ。 「そんな前の話、確かめてどうしようってのかしら。―まあ、それならわたしたちのこと(、、)とは関係は低そうだけど……」 「気になりますか、やっぱり」 「過去は現在(いま)にも続く訳だものね。関係ないことを調べて動き回ってるうちにわたしたちのこと(、、)に接触して来られたら。場合によっては面倒そう」 「きちんとお話すれば、分かって頂けると思うんですけど……」  やんわりと有栖川少女が進言するのを、相手の少女は即座に否定した。 「駄目よ、空(そら)ちゃん。あの人が敵(、)じゃないって見極めが付くまで駄目。これは誰にも言っちゃあ駄目」  空(そら)、というのが有栖川少女の名か、あだ名なのだろう。叱られるように止められ、彼女は幾分肩をすぼめた。 「はい。分かりました」 「というより、分かってるんでしょう。空ちゃんならそれくらい」  その少女は今度はにこりと微笑して空を持ち上げた。「―ただ、櫻井先輩がにわかに神楽山の小歴史に興味を持つようになった理由は押さえておきたいわね。『掲示板』にはあんまり面白くもない情報ばっかりなんだもの。地味ね、あの人」  率直な物言いは、聞く者によっては痛快に聞こえる。いつも慎重で、周囲を気にして発言する空には、この少女の率直さは好感が持てるのだった。 「あの掲示板に載るの、ほとんど噂話だもの」 「でも盛況じゃない。面白いわよねえ、人間て。ほんとうに」  彼女は本当に愉しそうに微笑した。屈託のない、天使のような微笑である。端正な顔立ちに艶やかでまっすぐな長い髪が揺れる。 「その噂の中に、『最近は三年E組の長谷川 遥佳と交際を始めている』ってのがあったりしたけど。―ま、何にしても櫻井先輩の調べ物はしばらくはかかりそうだから、その間にこちらもいろいろ探りを入れてみましょうか」 「時間がかかるの?」  何故そう分かるのだろうか。空は訊き返していた。 「貸出禁止の縮刷版でしょう? しかも毎日一時間とこの部屋が使えない状況なんだもの。あと二、三回はここで会える機会があると思うわよ。―だからよろしくね、空ちゃん。あなたは人から信頼されやすいタイプなんだから。親身に接してあげて、今みたいに聞き出してみて」  相手が拒否することなど思いもせぬかのように、彼女はそう注文した。  そして空は、その笑顔に惹き込まれるように。……いつも「はい」と頷いてしまうのだった。      5. 「で? 探してるもの、あったのか」 「物はあったんだけどなあ。中身はこれから、だな」  倉田の問いかけに賢八はそう答えている。  既に図書室を追い出され、学校から駅への路を二人で歩いている。ほぼずっと下り坂だ。石の階段と路が細々と延びている。  周囲の樹々に葉はなく、見るだけで寒々としている。時折、烏の鳴き声が喧しい。神楽山は近隣の烏の寝床としても有数の地になっており、笠原神社周辺には夥しい数を見ることができる。  のどかなものである。  実際、数ヶ月前まではそうだった。しかしその数ヶ月前からしばしば起こり始めた事件で様相が一変している。 「……このへん、だったってな」 「……」  倉田の呟きに賢八は無言だった。神楽山の生徒ならば訊き返すまでもないことだった。  帰宅途中の女生徒が、ここで襲われている。それが、事件だ。  詳細は誰も報せてはくれなかったが、気味の悪い噂はどうしたって耳に飛び込んでくるものだった。 「なあ。『襲われた』とか『暴行を受けた』って聞くけどさあ、それって」 「分かってるんならよせよ。確かめるまでもない」  相手の話の振り方が気に入らず、賢八は不快さを顕わにした。自分にそのことを言わせたいというのか。  ―実際のところ、真偽のほどは分からない。彼らは目撃した訳でもなく、あくまでも噂でしか聞かないからだ。ただ、事件があったこと、警察が捜査に当たっていること、帰宅時の注意、それに伴う学校での活動の制限……。具体的な説明がなくとも周知はされている。  事件があったことだけは事実なのだ。  襲われた女生徒の名前は明かされていないが、噂が浸透を始める。何日も休んでいる生徒が居れば悪意がなくともそうした噂の対象になったりもする。  嫌だな、と賢八は思った。噂は、噂でしかないのに、大多数の人間にとっては真実であるかのように受け取られてしまう。事実を知ることがなければ、噂を耳にした人間にとってはその虚像が実像となるのだ。今倉田が口にしようとしたことは、まさにその一例である。 「腹立つよな」  ぽつりと倉田少年が言う。それは賢八も同感である。犯行は、まず行為そのものが卑劣極まりなかった。それが複数回発生し、未だに犯人は捕まらず、こうして自分たちも不便を強いられている。  ―それなのに、何もできない。  羊のように逃げまどうだけなのだ。それを歯がゆいと感じるのは彼らに始まったことではなく、最近では体育会系のクラブが交代で夜間に見回りを行ったりしていると聞く。  そうした行動も分かる。傍らの少年の憤りは自身も抱えている。だが彼の行動原理は、また別の根拠に基づいていた。 「辛抱も必要さ」  賢八はなだめるように呟いた。それは、普段から自分に向けられている言葉だ。 「警察だって動いてる。こんなの、いつまでも続けられるような犯罪じゃない」 「そりゃそうだろうよ。いつまでも続いちゃたまんねえよ」 「一番腹が立ってるのは被害に遭った女の子と家族だろ? ―悲しみも」  自分たちは幸いにも(、、、、)第三者なのである。相応の対応をわきまえるべきだった。加害者のみならず、被害者が身近に居ることを忘れてはならない。 「……そっか。俺らが騒げば騒ぐほど、噂も広まるもんな」  ぽつりと、倉田は言った。事件は、一度発生すれば被害者と加害者が生まれる。その一方だけを取り立てて指弾するのは難しいのが世間というものだ。子供でもあるまいし、知っているつもりのその仕組みを今更ながら突きつけられた気がしていた。 「やめようぜ、この話題。他の話しよう」  無理矢理に賢八は明るい声を出した。そうだな、と倉田も頷いてくれた。 「そういやさ、櫻井」 「うん」 「お前、―長谷川と付き合ってんの?」  一瞬、頭の中が真っ白になった。 「―え?」 「その反応でよく分かる」にやりと、倉田は笑った。「別に隠すことねえだろー。珍しい組合せだなあ、うん」 「いや、待て、待ってくれ。そう決めつけるのはよくない」 「何なんだその他人事みたいな言い方。じゃあ違うっての?」 「いやいやいや。そうとも言ってない訳で」  いい感じに「いや」の数が増えてきたなあ、と倉田は内心思った。動揺の度合いがこれほど簡単に分かる指標はない。 「まあ、落ち着け。―倉田、どっからそんな話が急に出て来た?」  一番落ち着くべき人間が冷静さを装って訊ねている。 「そりゃお前、噂だよ噂。まさかお前誰にも何にも知られずに一緒に下校してるって信じてる訳じゃねえだろが」  さすがにそこまで夢想家ではないが、それにしたって広まり方が妙だ。連日図書室詰めでそれほど噂話も集められそうな人種ではない倉田が、ここ最近の賢八の動向を知っているのが妙だ。妙だと思うことにして、それを反撃の攻め口にした。その詰問に対して、 「そりゃあお前、世の中には便利なもんがあるんだよ」  などといわくありげに倉田は答えた。 「何だよそれ」 「ほんとに知らねえの? でもまあ、あれも口コミで広がってるだけだもんなあ……」 「教えろ倉田」 「教えたら、どうすんだよ」 「別にどうもしない。話しぶりからすると、どうせどっかに俺のことが書いてあるんだろう。他にどんなことが書いてるのか気になるじゃないか」 「お、お前、鋭いな」  この会話だけでその結論に達した賢八に対して、幾分倉田は驚いていた。 「まあいいや。ほんとに知らなさそうだから教えてやるよ。明日な」 「なんで明日なんだよ。今からでもいいぜ」 「今日はもう見られないからさ」 (校舎の中、か)  それも理解した。しかし校舎の中にそんな場所があるのだろうか。まあ、旧い校舎が残っている構造上、目立たない場所はいくらでもあるのも事実だ。  ここで賢八は見慣れた看板がだいぶ後ろに遠ざかっていることに気づいた。 「あ! ごめん、俺『憩』に寄るんだったんだ」 「マジかよ。……すげえ通り過ぎてんじゃんよ……」  時計を見るとまだ十七時前である。しかし空はだいぶ夕闇の色が濃くなり、街全体がさらなる静寂を迎えようとしている。……男の独り歩きなど襲ってくるとは思えないが―  結局、二人は連れ立ってとぼとぼと道を戻り、山の麓の喫茶店の扉を開けた。カラン、と乾いた音が鳴った。 「おっそーーい。信じらんない。人呼び出しといて何それ」  カウンタの内側からいきなりそんな声がした。傍らの倉田が左右を振り返りながら驚いている。他の誰かのことだと思ったのだろう。 「読んだんだな、言付け」  賢八は驚いていない。その声の主が誰であるか当然知っていた。 「読んだけど、何この扱いはさ。ほんっと信じらんない」  カウンタの中を覗き込むと、右頬をテーブルにくっ付けて晶がこちらを睨んでいた。いかにも待ちくたびれたという様相だった。ひらひらと賢八が記した紙片を旗のように振った。倉田がそれを手にする。 「?……『八尋の言うことには例のごとく欠陥あり。どうしても来たければ十六時までに『いこい』の中に入って待つべし』……なんだこれ」 「こんなの受け取っちゃったら来ない訳にもいかないでしょー。なのに待ちぼうけ。騙された」  晶はすっかり拗ねていた。賢八はそれを苦微笑で眺めている。 「ごめんな。でもやっぱり書いておいてよかった。一人で入りかねないからな、山の方に」  『どうしても来たければどこそこへ来い』と告げるのが、一番晶を正しく誘導しやすい。長年の経験から得た、彼なりのやり口だった。 「一人で入っちゃダメってのはどういうこと?」 「危ないんだよ、今はな。―いつまでもそこに入ってたんじゃマスターの仕事の邪魔だろ。こっち出て来いって。おごってやるから」  ここでもなだめるように賢八は話しかけ、三人はカウンター席に並んでしばし飲食することになった。店に入った以上、倉田と賢八の二人も何も飲まずに帰るというのは格好がつかなかった。  その事件を聞かせると、晶は複雑な表情で自分の肩を抱くような仕草をした。 「やだ気持ち悪い。何それ」  ……率直すぎる感想である。 「うん。だから、明るい時ならまだしも、夕方とか危ないんだよ」  不安げな表情で珍しく素直に頷き、晶はホットチョコレートを口にする。急に冷えた身体に、温もりを注ぎ込むかのように。そしてきっぱりと言った。 「学校でも言いふらしちゃうね。神楽山ヤバイって」  それはどうかとも思ったが、このへんの中学ならばふとしたことで近寄るとも限らない。事件が起こってしまう前に、それくらいは予防措置として伝わっていた方がよいのかもしれない。賢八は止めなかった。……。  なるほど。こうやっていわゆる『都市伝説』というのは発生するのだろうか。全く根拠がない訳ではないのだ。そう思うと少し感慨深くなる。実際にはそんな感慨に浸っている状況ではないのだが。  だけど、とぽつりと晶は付け加えた。 「何だか寂しいね。神楽山にそんな悪い噂が立つの」  事実だから仕方がないのだが、通っている生徒からすれば気持ちの良いはずがない。……晶は、この学校を受験するつもりだったのだろうか。今の言葉、表情からは何となくそれが窺えた。 「神楽山だけに悪いモノでも憑いてんのかなあ。厄払いでもできねえのかな、あのボロ神社」 「そんな言い方じゃお前に天罰が下るぞ」  倉田の軽口に賢八はそう遣り込めた。神社というのはそうしたご都合主義の代物ではない。 「……あ。でもなあ、こんな話があるぜ」  神社や天罰という言葉で思い出したのか、倉田はこんなことを言い出した。 「そろそろ神楽山の鎮守の神サマがかかる悪行に鉄槌を下すんだとかで」 「……」 「ほら、神楽山って、妙にカラスが多いだろ」 「……」 「……そんな目で見るなよ。そのカラスがだな、神域を冒す不埒な者共に祟りを成す……んだそうだ」  賢八は忍耐強く最後まで話を聞き、そして、論評した。 「倉田の妄想にしては随分と伝聞調だな」 「ちぇ。国語の教科書みたいに言いやがる」  渋い顔で倉田は呟くと、苦々しい思いを苦い珈琲で喉の奥に流し込んで続けた。 「これ別に俺の思い付きじゃねえって。読んだんだよ」 「その例のアレで、か」 「なあにその例のアレって」  おそらく三者がそれぞれに違ったものを想像しているに違いない。それを察して、倉田は溜め息をついて続けた。 「ほんとは実際に見てもらった方が早いんだけどな。学校の視聴覚室とか、図書室の文献検索用のコンピュータがあるだろ。そこでだな……」 「胡散臭い」 「面白そう」  手短に倉田の説明を聞いた賢八と晶は、それぞれに全く別の反応をした。お互い顔を見合わせる。 「『掲示板』って、つまりお前が読んだのはそれなんだな」  校内PCを接続するネットワーク網に設置された掲示板。それが倉田の種明かしだった。なるほどこれならば、図書室からでも好きなだけ情報を拾うことができる。妙に噂に詳しくなったのはその掲示板を読み散らかした成果なのだろう。 「何よ。三年も学校に居て全然知らないんじゃん。け―お兄ちゃん」  晶がよそ行きの表現をすると、賢八は「お兄ちゃん」になる。幼い頃からの変わらぬ呼称である「賢ちゃん」では周囲にかなりの違和感を伴うことを知っていて使い分けていた。  指弾されても、賢八は平然としている。 「知らないよ。俺、別に使う用事ないし」  強がりでなく、本心だった。せいぜい情報教育で数時間ほど使い方を授業で学んだ程度である。普段から積極的にコンピュータを活用している訳ではないし、使う必要がなかった。 「でもなー、けっこう便利なんだぜ。俺が最初に聞いたのは半年……、いやもっと前だったかなあ。一学期の期末テスト前だったな。試験範囲が事細かにでてるってさ」 「……え?」 「半信半疑だったけどマジビックリ。かなり正確なんだよ。それ以来こまめにチェックするようになったんだ。勉強のことだけじゃなくてあることないこと書いてあって面白くってさ。つい見ちまうんだよな」  最近では簡単な画像も出せるように進化しているのだという。晶は盛んに感心していたが、賢八は倉田の最初の一言に強烈な衝撃を受けていた。 (試験範囲が、事細かに、……か)  それは教師から剽窃(ひょうせつ)した試験問題が掲載されているのではないか―と、驚いたのだ。此処が進学校であることを考えれば、下手をすれば発覚して大問題になる。  それをこうも簡単に口にするというのは、 (馬鹿か)  いや。倉田といえどもそれほどの馬鹿ではない―と思う。とはいえそれほど奥が深い訳でもない。……深く考えたことがないのだけか。確かにそれほど真剣に考えなければ、軽い遊び程度の代物だろう。教師たちにバレれば即座に解体停止させられそうだが。 「なあ倉田」 「ん?」 「そういうことはあんまり他人に口外しない方がいいと思うぞ」 「何言ってんだよ! 聞きたがってたのはそっちだろうが」  賢八の言い様に倉田が本気で怒りかけたが、その掛け合いに晶が大笑いして、すぐ雰囲気が和む。こういう時に少女とはいえ異性が居合わせると、こうした効用もあるようだ。 「ところでさお兄ちゃん」 「うん」 「このメモの『八尋の言うことには例のごとく欠陥あり』って、何のこと?」 「ああそれか。そうだ、それが本題だったなあ」  言いながら、賢八は周囲を見渡した。目の前のカウンタでは無愛想な主人が黙々と珈琲カップを磨いている。隣には倉田が居る。この場で切り出して良いものかと少し躊躇った。 「誰だよ。やひろって」  怪訝そうに倉田が訊ねた。会話を中断する必要性を、咄嗟に彼は感じた。 「晶、帰ってから話す。最初からいちいち話すと面倒だしさ」 「ええーーーっ。じゃあ何であたし此処に来たのよー」 「面倒はねえだろうがよ。お前さんざん人を付き合わせておいてさ」  二方面から同時に責め立てられたが、それも覚悟の上だ。いわば身内の恥を倉田や店主にまで広める気にはなれなかった。 「ごめん! ここは俺が持つから勘弁!」  漢(おとこ)らしく明瞭に頭を下げた賢八に対して、二人はこう切り返した。 「じゃあ俺追加でおすすめケーキ。かける五」 「あたしも」 「!!」  ……漢になるには懐の広さが必要なのだろう。しかしこの一撃で今月、賢八が漢になれる回数は激減したのだった。  倉田とは電車の中で別れて、二人は連れ立って同じ家路を歩く。  端からみれば兄妹に見えなくもない。実際倉田などはずっと勘違いしたままなのではないだろうか。今更誤解を解くのも面倒なので、彼は少女に対して自然に妹のように接して、周囲には何一つ説明しないのだった。……そして晶は、たぶん、そんな状況を愉しんでいる。  駅近くの光彩と喧噪の空間を抜けて、ようやく賢八は晶に話を切り出した。これが今日の本題なのだ。 「姉貴は、樹の場所までは知らなかったろ」 「そだねー。神社のちょっと上あたり、みたいな言い方してた」 「今日は探して見るつもりだったか?」 「んーん。あたしそんなにヒマ人じゃないもん」  昨日のやりとりを考えると、あまりの落差に賢八の方が膝の力が抜けそうな反応だ。  とはいえ、これでは少女に余計な無駄足のみをさせてしまったことになる。 「ごめんな。ほんとにとんだ時間の無駄だったな」 「いいよ別に。用があった訳でもないし、ケーキごちしてもらったし」  この小柄な細い身体のどこにそんな空間があるのかと思わんばかりに晶はよく食べた。……全く遠慮もなく。 「そういやさあ、『憩』で時間つぶしてる時にマスターに訊いてみたんだけど」  あの無愛想な店主によく話しかける気になるなあ、と賢八は思った。色の濃いサングラスを掛けた、髭の濃い、がっしりとした身体つきの中年。……実はしゃべった所を彼は見たことがない。 「何か知ってたか?」 「ううん。『この店ぇ継いで二十年くらいになるけど、そんな樹のこたあ知らねえ』って」  声音を真似た晶の返事である。そういうしゃべり方をする男(ひと)なのか。  賢八は両手で髪の毛を掻き回した。呻くように独り言を言う。 「変だなあ。何だか誰が正しいことを言ってるのか全然分かんなくなってきたぞ」  どこが話の発信源なのか。そこが問題になるのかもしれない。  遥佳や姉の話を聞いた上で、彼は樹のあるはずの神楽山周辺でこそ逸話や事実は色濃く残っていると考えた。だからそんなに難しいことではないと思ったのだ。しかし肝心の神楽山周辺で、そのような樹に関する話が残っていない。 「幽霊だね。まるで」 「樹の幽霊か」  幸せを呼ぶ樹の暖かい思い出話は、いつしか奇妙な亡霊話になりそうである。  そしてまた、姉の一言が耳に残る。 (……死体、か)  探し求めて、見つかったとして。―そこには死体が埋められているなんて話は、いよいよ救いようもない結末だ。 「どう? このへんで『ナゾは全て解けたっ』って言い放つの」  くるくると二回転ほどして、晶は人差し指を突き出した。テレビの真似らしい。 「あのな。いきなり、どこをどう結論したらそうなるんだ?」 「大事なのは意外性だってば。こういう時って」  不条理という点で面白いかもしれないが、賢八は姉やこの少女と違って『面白いなら許せる』というタイプではない。  もう一度、事実を整理する必要があるだろう。あやふやな、人づてに聞いた話ではなく。自分の目と耳で確かめた内容から思考を進めるべきだ。 (喪われた風景、か)  最初にその言葉を耳にした時と同じように。賢八はそれを噛みしめた。確かに、喪われている。手がかりは、今の所思った以上に乏しかった。  ―だが、彼女は、それを探しているのだ。 (……。取り戻してみたい)  静かに、しかしいつになく強い気持ちで。賢八はそう決めていた。 「何よー。無視はないでしょ無視は」  少女は肩から賢八にぶつかって来た。 「えっ! ええ? 今の、返さなきゃなんなかったのか?」 「ふーんだ。せっつないなー」  随分と陽気に『せつない』と口にして、晶は口を尖らせている。その仕草が可笑しい。  そしてまた、少し愛らしい。  賢八は、晶の頭に軽く手を乗せて言った。 「結末(オチ)なんてまだ先さ。これからだ」  白い息が、冬の夜空に弾むように浮かんで消えた。 (二章「螺旋思考」につづく)