二章 螺旋思考      1.  授業中に他のことを考えるのはよくあることで、ふと思い立って賢八はノートの一番後ろのページに「相関図」を書き始めた。中央に、まだ見たことのない『縁結びの樹』を小さく描いた。もっとも、どんな姿をしているかも賢八には分からない。描かれたものは単純な形になった。 (……長谷川さんの両親が、この樹の前で写真を撮ってる)  何年前のことか? ―分からない。後で訊いてみよう。賢八はとりあえず「長谷川さんの両親」と書いて、樹に向かって→を書いた。  次は我が姉・櫻井 八尋(やひろ)の与太話である。 (そもそも、姉貴は実際にその樹を見た訳でもないんだ)  全て『誰かから聞いた話』だ。本人は嘘を吐いているつもりはないのだろうが、この時点で、信憑性は低い。姉の名前から伸びる→は破線で、疑問符まで付けた。一応、これが、ン年前ということになる。 (―新校舎が建てられたのは、今から二十二年前か)  これは事実だし、明瞭である。図書館下の資料室年表で確認した。この時に樹は移動したのだから、―遥佳の両親が撮影した写真は、二十二年前よりは遡らないということか。それらの情報を追記した。  そういえば。晶がこんなことを言っていた。―学校と馴染みの深い喫茶『憩』の店主は、二十年ほど前から店を切り盛りしているが、『そんな樹のことは知らない』のだそうだ。 (……地味な話だったのかなあ)  話題になったのなら、地元で此処に居た人間ならば知っていてもよさそうなものである。これでは新聞の縮刷版を調べても期待薄だ。貴重な時間を無駄にしかねない。  賢八はその拙い樹の絵周辺に丸を幾重にも書いた。書きながら考えている。―神楽山のてっぺんで行われたことが、麓で知られていないとすると、この樹のことは、学校の関係者しか認識していなかったのか。 (―違うんだ。姉貴が居た)  姉の顔を思い浮かべ、賢八はうんざりしてしかめ面で頭を掻いた。姉は、何年か後になってその『縁結びの樹』に『フォーチュン・ツリー』なる名をつけて話題にしている。これが虚構でなければ、さらに神楽山の周辺では知られておらず、さらにその広域周辺では知られているということに……なる。  ありえるだろうか。ありえなくはないだろうが、何だか無理のある話に思えた。 (このへんが混乱の元だな)  賢八は冷静に問題点を把握した。  これを解決する為には―情報を集めるしかない。できるだけ多くの、そして正確な。  しかし、 (めんどくさいなあ)  率直に、そう思う。こうして考えを巡らせて理屈をこね回すだけならまだよいのだが、足で稼いだり聞いて回るというのは性に合わない。そもそもそんな時間はなかった。  一人、まだ当てが残っている。世界史の教師、島倉である。  神楽山高校勤続二十年を越える生き字引だ。既に定年を迎えているはずだが嘱託されて教鞭を取り続けている。まさに教師になるために生まれて来たような人物といえる。  問題なのは性向も、『まさに教師に…(略)』というところだった。ことさらに生徒を苛めて悦ぶようなところはないが、質問にも論理性を求めてくるし、そこが曖昧だとたちまち説教になる。教壇に立つ人間としては優れていると認めなくてはならないが……簡単に言えば苦手な相手だった。  気が進まないが、一回話せば校内のことならばほぼ決着が着くだろう。昼食を購買のパンで簡単に済ませると、彼は職員室へ向かった。  窓際の、冬の陽差しが柔らかく降り注ぐソファに腰掛けて、食後のお茶をしんみりとすすっている姿を見つけた。 「島倉先生。質問があるのですが」 「ほう、それは感心。どこを訊きたいのかな」  目を閉じて島倉教諭は賢八の次の言葉を待ち受けている。賢八は、一気に話しづらくなった。勉強のことならば事務的に質問すればよいのだろうが、『縁結びの樹』などと口にすることすらはばかられた。 「あの先生、どうか自分の質問で気を悪くしないで欲しいのですが」 「いいから。言いなさい」 「え、『縁結びの樹』って知ってますか。昔此処にもあったらしいんですが」  島倉教諭はひょこっと片眉を上げた。 「何だね。君もまた妙なことを訊くなあ」 「すみません。世界史のことと関係なくて」 「確かに。どこを探しても関連性は見出せそうにないな」  老人の反応はそこで止まった。眠っているようにも見え、―不謹慎なようだが死んだかにも見えた。『答えようがない』、ということだろう。賢八としては話を続かせるための工夫が必要である。 「何故先生に質問したかといいますと、なにぶん二十二年も昔のことなので先生しかご記憶にないことだろうと考えたからです」 「うん。でもねえ、わたしゃそうした名前の樹は知らんよ」  ざっくりと斬り捨てられてしまった。賢八はせいぜいひきつった笑いを口許に浮かべるしかない。 「ご存知ありません、か」  この学校の出来事なら何でも記憶していると思っていた島倉に否定されると、やはりそんな樹は実在すらしなかったのか、という気になった。  発想を切り替えねばならないだろう。  訊きたいことを主体にするからこのような不毛なやりとりになる。  相手の知っていることを引き出すように尋ね直すのだ。―それで駄目なら、それまでである。 「先生、二十二年前に新校舎を建築する際のことをお聞かせください」 「どのへんのことだね」  眠たそうに島倉は尋ねる。事実眠いのかもしれない。 「新校舎建設の際に移動することになった樹があったんじゃないですか? それがどこに移されたかをご存知ありませんか」 「ふむ」  島倉はそこでまた止まってしまった。いちいち燃料が必要なのか、と思い、賢八が言葉を重ねようとすると、老人は唐突に言い出した。 「あー……。あった。確かに、あった。どこに行ったかまでは思い出せんなあ……。そうか、あれが『縁結びの樹』か」  大げさとも思える反応に、賢八の方が少し引いた。 「あの頃のわしは堅ブツでなあ。そんな不埒な樹のことなど知ろうともしなかった(、、、、、、、、、、)。しかし思えば、確かにあの頃、そうした話が生徒たちの間で流行っていたような気がする」 「はあ、なるほど」 「伐られることになった時も反対したのは生徒たちだったなあ。学生運動もひと昔前に落ち着いて、おとなしい生徒ばかりだったがあのときはずいぶん熱心だった。『生徒たちの自主性を重んじる』という校長の決断で移すことになったんだった」 「ははあ、なるほど」  そのへんの経緯はどちらかといえばどうでもよい。賢八はせいぜい愛想よく相槌を打つだけだった。むしろ、その樹がどこに移動したのか。そこの詳しい話を聞きたい。 「二十二年前というと、君らもまだ生まれておらんのだなあ。オイルショックって習ったろう。トイレの紙がなくなるかもしれん、というんで全国で買出し騒ぎが起こったんだよ」 「あの先生、それはちょっと本題から離れてませんか」 「ああそうか。その樹がどこに移ったか、だったよなあ。うーん……」  ここでまた時間がかかる。老人はとにかく時間がかかるらしい。あるいはに死に急ぐ―いやそれは言い過ぎか―性急(せっかち)になるかのいずれかだ。年を取ると周囲に気兼ねなく、あるいは気兼ねができなくなって地が表れるのだろう。賢八の考えも少々意地が悪くなっている。 「駄目だわからん。確か樹を動かすんなら神社にも訊いた方がええっちゅう話が出て―」 「神社って、下の、笠原神社ですか」 「ああ。ただ移すだけじゃなくなった。方位がどうとかで」  かろうじて先がつながった、のか。もっともあの小さな神社に記録のようなものが残っていれば、だが― 「ありがとうございます」 「なんだ。君はそれで終わりか」  島倉の言葉に、賢八はとっさに考えを巡らせた。この老教師はまだ何か知っていることがあるのだ。 「先生、先生は先刻(さっき)から『君は』とおっしゃることが多いですが」 「……」 「それってつまり、僕以外の誰かが同じようなことを尋ねてきたってことですか?」  会話の最初から、そんな気がしていたのだ。会話の中でも軽く違和感を伴っていた。この老人は、同じ質問をした誰かと自分を比べながら自分の話をしていたようだった。  賢八の問いかけに、にわかに島倉は表情を厳粛なものにした。 「櫻井君」 「は、はい」 「君が訊いたことはあの娘(こ)とほとんど同じだ。―長谷川君とね」  やはり、遥佳だったか。  ここまで予想ができた以上、意外性のある答えではない。この樹については、彼女は自分よりも少し先を歩いているのだ。生き字引ともいえる島倉を訪ねるのは当然かもしれない。 「君も―長谷川君のこと、知って手伝おうというのかね」 「え」  少し曖昧な表現である。ただ、こと細かく訊いてはいけないような気がした。今この老人には、それだけの厳しい雰囲気がある。  何か、あったのだろうか。  賢八は今まで考えたこともない部分に思いを馳せた。―遥佳。屈託のなく、少々変わった考え方をする、……賢八から見ても綺麗な娘だ。ただ、それ以外のことを、ほとんど賢八は何も知らない。家族のことも、本人のことも。実際には何も知らないに等しいのだ。 「君が受け止められるかは分からんが、ね」 「……」  意味深な言い方である。話の先が読めなくなって、少し賢八は不機嫌になった。相手を見透かせない会話は、彼を不安にさせた。 「先生。長谷川さんは、別のことを訊いてきたんですか」  話を少し元に戻して、賢八は尋ねる。 「ああ。その樹のことをね、他に知っていることは何でもいいからと」  なるほど、念が入っている。賢八はちょっと感心した。遥佳は、あの大らかな性格で、そうした細かい所まで気がつくのだ。 「で、先生は何と?」 「うん」  頷き、島倉はテーブルの上にあったメモの上に万年筆で文字を四つ書いた。  椿 榎 楸 柊  の、四文字である。その、上から三番目の文字に、丸をつけた。 「君たちが探している樹は、このへんでは珍しい樹でね。生徒たちの要望もそうした理屈をちゃんと付けてきたんだよ。単に自分たちのロマンチシズムを主張するだけじゃ大人の理屈には勝てないという訳だね。まあ高校生ならそれくらいの筋の通し方をするべきだ。校長はそのへんもかえって気に入ったんじゃないかな」  木へんに、四季が付いた漢字。それぞれが樹木の名を表している。  椿―つばき。春の花、赤い大輪の花を鮮やかに咲かせる。  榎―えのき。あまり強い印象はないが、大木を連想した。  楸―? これは何と読むのだろう? ……分からない。  柊―ひいらぎ。詳しくは知らない。しかし、欧州の劇中にこの名を時折見かけることがある。冬の樹なのだろうか。  四分の三まではすぐに読むことができたが、肝心の丸がついている「楸」が分からない。 「先生、これって珍しいんですか」 「読み方を知らないんなら、やっぱり珍しいのではないかね」  まるで試すように教師は笑った。 「そいつは別の樹の名前―同名異樹というやつがあってね。学校が樹を移すことに賛同した理由は、その樹がまさにそれで、それがこの山でも珍しいものだったからだ。市も学校からの要求を認めてくれて、予算が付いた」  なにやらややこしいことを言っているが、いくつか具体的になりそうなヒントがこの会話には転がっている。最初の、古い湖沼にでも足を捕らわれたかの歯がゆさから一変して、賢八はこの老教師の記憶の明晰さに驚きを感じ始めていた。 とんだ狸だ、と思った。 「ありがとうございます。あとは、自分で調べてみます」  賢八の答えに、島倉は満足そうに頷いた。 「そう。独立独歩が神楽山の気風だ。教えを請うのは多いに結構。しかしその先は自分の力で成し遂げなくてはな。頑張りなさい」      2. 午後の授業もそこそこに終えると、賢八は視聴覚室へ向かった。  昨日、倉田から教えてもらった『掲示板』がどんなものかを見ておきたかったのだ。聞いているだけでは相当あやしげな内容に思えたのだが、それは単に倉田の表現が貧相だったからかもしれない。―悪気はなく、素でそう思った。 (……俺のことも、書いてあったっていうしな)  このへんは正直見たいような見たくないような心境だが。  視聴覚室などは特殊な授業の時に数回世話になる程度の教室で、うらぶれているものだと思い込んでいた。しかし相当数の生徒が思い思いにコンピュータに向かっており、倉田の言っていることが嘘でもないことが窺えた。  空いていた一台の前に座って電源を入れる。  真っ黒の画面に白い文字。最近では視覚的な効果で操作できるソフトも導入が本格的に始まっていたが、学校のそれは時代遅れの代物だった。とても冷淡で、無愛想なのっぺらぼうだ。  倉田に教えてもらったとおりに文字を入力してリターンキーを押すと、今度はメニュー画面が現れる。少しだけ、人が馴染み易い形になった。  いくつもメニューが分かれている。学校行事、テスト、勉強、部活動、催し、うわさ、等々。  いくつか読みながら、ほとんどの投稿に署名がないことにすぐ気づいた。 (匿名の掲示板か……)  署名があってもあだ名のような呼称だから、生徒一人一人を利用者が特定するのは難しそうである。それとも、慣れれば別の読み解き方でもあるのか。  匿名というのは、いわゆる「社会」そのものだと賢八は思う。街に出れば歩道を歩くすぐそばの人の名前を知らない。知る必要もない。道でぶつかったり話し掛けられたりすることがない限りは、より大きなルール―法律や常識に従っていれば、まず困ることにならない。  その社会の縮図が、この掲示板の中にはあった。良くも悪くも「社会」が濃縮されて表出していた。  ひどいものはやはり「うわさ」の掲示板である。「個人名を含んだ書き込みは管理者が削除する」と注意書きがあったが、「個人が特定できそうな情報」はそのままに無責任に書き連ねられている。当て字を使っていたりでさながら暗号文の羅列だ。AがBとつきあっている、Cとも? Dの試験結果はカンニング、根拠はあれやこれやと云々。Eを糾弾する会、Fをこっそりと観察する会、etcetc……。  賢八は気分が悪くなった。陰湿で、陰険で、邪悪にさえ思えた。書かれる人間の気持ちを考えないのだろうか。―考える必要がないのだ。何を言っても誰からも糾弾されない。善人ぶる必要がないのだから、本当の善人以外は実の顔が露骨に表れる。  人間がここまで厚顔で傲慢になれるという典型的な証左である。 (こんなものをあいつは見てるのか)  平気だとしたら、倉田の人格すら疑わしくなってしまう。自分の周囲が内心これだけひどいことを考え、密かに連帯し、行動しているのかと思うと恐怖さえ感じるようになる。  暗い気持ちで賢八はその邪悪な書き込みを眺めていた。交際報告という掲示板の些末な一書き込みだ。これだけ厖大な投稿数を見ていると、自分のことなどちっぽけなものでしかない。かえって、安心できてしまった。  ただ、別のことが簡単に書き込まれていた。 『HHはTWと付き合ってたんじゃなかったっけ』 『例の件で(以下略』 『HH…。気の毒』 (…例の件? ……気の毒?)  HHが「長谷川 遥佳」であることは分かる。TWは知らない。自分ではない。  ―遥佳が自分以外の人間と交際があったという点に関しては、さほど驚きはなかった。むしろ自分が相当に奥手であって、程度の差こそあれ大抵は誰かしらと何らかの関係を結んでいて当たり前だと思う。この投稿にしたところで、そもそも真偽のほどは分からない。複数回一緒に帰るようになっただけで自分のように『交際報告』されてしまうのだから怪しいものだ。わざわざそれを本人に訊こうとも思わなかった。ただ、「例の件」「気の毒」という言葉はひっかかった。  遥佳は、何か不幸に見舞われていたのだろうか。普段自分と話す時には全くそんなことを微塵にも感じさせない。昔のことなのだろうか。  不幸を知りたいだなんて、どうかしている。  首を振って賢八はその思いから逃れようとした。自分自身の暗い部分にまで垣間見えたような気がしてしまったのだ。それも、突然現れたものではあるまい。  今まで気づこうとしていなかった自分に。  ほとんど発作的に、賢八の手はファンクションキーを押していた。画面が「うわさ」ジャンルのメニューに戻る。これ以上見てはいけない。無理矢理にでもそう思うことにした。  その際に、別のキーワードが目に付いたのである。 (かぐらやまの、からす。……)  聞いたことがある。昨日、倉田が話していた妄想だ。本人は掲示板で見たと言っていたが、これのことか。  ちらりと時計を見て、賢八は溜め息と共にその掲示板を開いた。どうでもいい話だと思ったが、倉田の説明があまりにもいい加減だったのでかえって欠落した情報に興味が湧いたのだった。    ……  ちょっとした怪談だった。  神楽山は烏の寝床としても近隣有数の土地だったが、そこに主(ぬし)が居る。  それが、夜な夜な出没するようになったというのである。これだけならば倉田同様に妄言だが、複数人とおぼしき目撃情報が掲載されている。三メートルほどもあろう姿が、夜道を音もなく通り過ぎるのだとか。 (烏が夜に出歩くってのか)  あれは昼行性の鳥のはずだ。鳥目という言葉がある通り、たいていの鳥は夜は活動を停めるのである。しかしまあ、だからこそ怪異だとも言える。  烏の主が目撃されるようになったのがこの数日前からで、そのせいかこの掲示板は多少にぎやかである。 (……集団暴行に『からすの主』か。何だか荒れてるなあ。最近)  そんな学校では決してなかったし、今だって校内は変わらない。旧い校舎は夏はクソ暑く冬は寒い。天井が妙に高く窓枠は重厚な鉄製だった。小さな板ガラスがその枠に収まっているのだが、左右に開く構造ではなく押し出すようにして開くのである。いくつもの窓は錆び付いているか、あるいは雑な塗装が可動部に入り込んで固まっていて非常に開けづらい。  そんなぼろ校舎だが、だからこそ他の建物にはない愛着もあった。  その学校の近辺は、確かに荒み始めているようである。だが今度の事件に関して言えば、怨恨か、あるいは劇しい憧憬か。そうしたものが動機であるように思える。―対象をわざわざこんな山の上に建つ学校に求めるというのは、この手の犯罪としてはどうなのだろう。もっと楽なやり方だってあるはずだった。  それともうひとつ、忌むべきことだがほぼ確実であろう推測が働く。 (この事件、校内に協力者が居る)  そして、そうした趣旨の発言がまた掲示板には書き込みされていた。どれも根拠に乏しいからほとんど誹謗中傷と変わらない。改めて噂の掲示板を眺めて、賢八はすぐに嫌になった。思うだけならいい。そんなものは誰にも分からないし、誰にも止めようもない。でも、こういうことは形にしてはいけない。いつそれが一人歩きを始めるかも分からないのだから― 「被害者は誰だ?」  という表題の、掲示板を見つけた。 (……)  これこそ、あまりにも露骨である。こんなものが削除もされずにいるのか。既に存在そのものが陰険で愚劣だ。一体何を考えているのだろう。 (HH。例の件。気の毒)  この字句(フレーズ)が、目の前の掲示板の表題と頭の中で結びついて不安感をもたらす。  まさか、そんなことが。  ありえるはずがない。賢八は無理に笑おうとして、失敗した。  しばらく考え、……そして、彼は―  その掲示板を開いた。その動作は指の痙攣にも似ていた。衝動的に、身体が動くかのように。まるで自分の意志からも反するような所作を、自分の身体がすることもあるのだということを、賢八は身を以て知った。  白い文字が黒い画面に並び、不穏で根拠に乏しい情報の羅列が始まる。案の定、人間の負の部分のオンパレードだ。単純な、だからこそ罪深い好奇心。私怨。歪んだ性欲の発露。それらをただ愉しみ煽るだけの主張や意見。もっとも開いてはいけない世界。見てはいけない空間だった。まるで、 (パンドラの箱だ)  その言葉が思い浮かんだ。開けてはいけないと言われたその箱からは、開けてしまった途端にこの世のありとあらゆる災厄が溢れ出したという。確か、最後に残ったのは―  少なくとも、賢八に残されていたのは最悪の結果だけだった。 『HHは確か事件があった翌日から一週間休んでる』  その裏付けが出欠簿から取れているという投稿まであった。なんて連中だ。 『少なくとも、被害にあった一人がHHなのは間違いない』  それが、賢八が最後に読んだ一文だった。  それ以降読んだものは何一つ記憶に残ってはいない。そこから何時抜け出して、どうやって家に帰り着いたかすら後になっても思い出せなかった。      3.  知ってはいけないことが世の中にはある、らしい。  所詮は推論だ。事実ではあるまい。嘘かもしれない。嘘だと思いたかった。  しかし、それがただの逃避でしかないと冷たく見放す自分が居る。  真相は、彼にとっては本人に訊くぐらいしか知る手段はないだろう。 (訊けるか)  自分自身に怒鳴りつけたい気持ちになった。ありえない。本当であればどうするというのだ。違ったとしても冗談では済ませられない。  そんな苦悩の中で、あらぬ妄想まで脳裏に浮かんでくる。―あの遥佳が、男たちに暴行を受けている光景だ。考えたくもないのに、ありえないと否定しているのに。本能に近い男性部分が、密かに興奮を覚えている。  とてつもない自己嫌悪に見舞われた。自己愛というものを軽視していた自分が、まだこれほど自分を嫌いになれるのかと内心驚く。  全部、格好(ポーズ)だけだったのかもしれない。いろいろなことを割り切ったつもりで、ちっとも割り切れていない。自分自身への期待も、諦めている部分も、明瞭であったはずなのに、その実自分自身の利益や快楽に怖いくらいに貪欲だ。これが櫻井 賢八という人間なのだ。  ぞんざいなノックがして、小さく自室の扉が開いた。 「寝てるの? 賢八、ご飯……」  明かりひとつ付いていない部屋に姉の声が入り込んで来る。  話したくない、と思った。ここまで自分自身の気持ちの整理がつかない状態で、姉と話したくない。  暗闇に目が慣れてきたのか、窓のそばで小さく身体を丸めて座っている賢八の後ろ姿には気づいたようである。  少し、沈黙が続いた。少しだけその沈黙に姉の気遣いを感じた。  そのまま扉がそっと閉じられて、「もう寝てるよ。賢八」という姉の遠ざかる声が薄い壁越しに聞こえた。  賢八は安堵の息をつく。こういう肝心な部分で、姉は外さないタイプだったことを思い出した。少し口惜しいが、今は姉の厚意に感謝しておこうと思った。  再び暗闇を見つめる。ただの壁だが、音のない闇の中ではそれがずっと遠くにあるかにも思えるし、狭苦しく閉じこめられているようにも思える。奇妙な圧迫感と開放感。不安定な自分を落ち着かせるには、この暗闇が必要だった。その暗闇と、いつもの姉の声で、彼は幾分普段の自分を取り戻すことができた。  遥佳が事件の被害者かどうかは、―分かからない。昔から遥佳のことを知っている訳でもなく、親しく話すようになったのはまさに、時期的にはその事件の後からだ。だからそれ以前の遥佳を知らない。ひょっとしたらもっと別の遥佳であって、事件を境にして何かが変わったのかもしれない。 (……だから、なのか)  どうして『縁結びの樹』などを話題にしたのか、賢八には分からなかった。しかし今なら、分かるような気がする。  そんな、由来も根拠も薄弱な樹にさえ、縋(すが)りたい出来事があったから……なのか。  やや上目遣いにはにかむ笑顔や、軽快な挙措が思い浮かんだ。―そんな事件のあった後で、人は、そんなにも普通に振る舞えるのだろうか。  外傷がなければ、理屈では可能だ。だが精神(こころ)に負った傷は相当に深いはずだった。そして、それを知っている周囲の視線や気遣いが殊更に苦痛のはずだ。  何も知らずに居た賢八と居る方が気楽だったのかもしれない。  そう考えていけば、何故急にこうした出逢いがあったのかも、分かってしまうような気がするのだ。ただの推測や噂にしては、きっちりと隙間なく填(はま)ってしまう。  島倉教諭が言っていた言葉も思い出された。 『君が受け止められるかは分からんが、ね』  確か、こう言っていた。  その時には何のことを話していたのか分からなかったが、これもまた、例の噂が事実だとすれば理解できてしまう。  ―それが事実だったとして、賢八は、遥佳を受け止められるのか。受け容れられるのか。  異性と付き合うといった経験がほとんどなかった彼には、改めて自身に突きつけた問いは重かった。  扉が開いた。今度もゆっくりと、だ。  先刻との違いは、扉は開いただけでなく、小さな隙間から滑り込むように人が入って来たことだった。  振り向かずに居ると、突然、両目を手のひらで塞がれた。温かかった。 「だーれだ?」  ……馬鹿馬鹿しくて話にならない。 「姉貴。そんな裏声使ったってこんなことするのはこの家には姉貴しか居ないよ」 「また可愛くないこと言うわねえこの子ったら。せっかく人が心配してるってのに」  その割にはあまり気分を害した様子もなく、八尋は賢八の傍らに座り直した。 「落ち込む時のあんたは分かりやすい。最近はなかったけどね。―何があったのよ」  とても口に出せる内容ではなかった。誰にも言えない。言ってしまうのが怖い。言えば、ぼんやりとした憶測や推測や想像が、全て本当のことになりそうで怖い。  それすらも見透かしたように。八尋は言った。 「まあ、あんたがことさらに暗くなるんだから、言えないことなんだろうね。―だけどね、賢八。だいたい物事ってのは、一人で抱え込むとかえってよくない方向に転がっちゃうもんなんだよ」  意外である。意外なほどまともだ。少なくとも今の賢八には救いの言葉である。思わず縋りたくなるほどの。 「今のあんたはこの部屋と同じで真っ暗闇なんだろうね、きっと。……こんな時、明かりはねえ、誰かが見つけてくれるもんなんだよ」  自分で見つけられるものではないのだろうか。あるいは、自分自身が明かりになることはできないのだろうか。賢八は、できればそうありたかった。誰も傷つけずに、誰にも知られずに、解決できる方法はないのか。 「ダメだよ賢八」 「え?」 「今のあんたがどんなに考えたって、転がり落ちるだけだよ」  本当に、まるで見透かしたように姉は言葉を重ねる。賢八は、だんだんと腹が立ってきた。一体姉は何を知っているというのか。何も知らないくせにどこまでも知ったようなことを言う。向きになって言い返そうとした時、 「必死であればあるほど、転がり落ちるもんなんだよ。落ちたあたしが言うんだから」  耳元で囁かれて、賢八はどきりとした。姉ではなく暗闇自体が囁いたように聞こえた。 「これでもあんたよりは少し長く生きてる。話してごらん。聞いてやるから」  これもまた、暗闇の声だ。きっと姉の声ではない。夏の海のような、揺れる温もりのある闇だ。寄せては返す波のように、絶妙の間と囁きで賢八に話しかけてくる。  そのまま飛び込んで、包まれたくなった。―どうせ中に入れば、そこは思ったよりも冷たくて、ずっとそうしていては引き込まれて、命まで落とすに決まっているのに。  賢八は、しかし彼らしく一歩踏みとどまった。 「姉貴。これはほんとに他言無用だよ。俺のことじゃないんだから」 「……。あんたもなかなか頑張るわね。まあいいわ、今回は約束する」  少年は暗闇の中で、自分の思惑を全て音にした。小さい声だったが、暗闇の中ではよく響いた。姉はずっと無言で、信じられないことに軽口ひとつ言わずに聞いてくれた。内容が内容だけに、真摯に受け取ってくれたのかもしれない。 「俺が分からないのは、さ。姉貴」 「……」 「女の子って、仮にそんな目に遭ったとして、そんな風に振る舞えるもんなのかな。俺はどうしたらいいのかな。どうすれば一番いいんだろう、って。……それが分からなくなった」 「難しいね。一番いい方法なんていうのは」  それはそうだろう。だから彼は暗闇の中に居るのだ。ただ、真面目に聞いてくれる相手が居るのは、思った以上に心強かった。話したことで、随分楽になった部分がある。背負っていたものが、言葉と共に自分から抜け出たような感覚だ。 「でもあたしは女だから、その子がそういうふりをするのは分かる気がする。できるよ、死んだり大けがした訳じゃないんだから。ただ、」  姉はほんの少し間を置いた。何かに思い当たったかのように。 「ただ?」 「そんなに頑張れるんなら、事件があった翌日から頑張るかな、あたしなら。時間かかっちゃ、こんな風に疑われちゃう訳だし」  ―なるほど、言われてみれば、そうだ。  何もなかったかのように振る舞いたいのならば、そうすべきなのだ。もっともそんなに簡単に割り切ることができなかったのかもしれない。姉の見解はひとつの示唆とはなったが、それでも確証は得られなかった。 「で、賢八。あんたは何がしたいの」 「え?」 「事実を確かめたいの? その子を護りたいの?」  ―それも明瞭(はっきり)しなかった。  心理的な衝撃は確かに大きかった。だがそれは、彼にとって遥佳が既にそれだけの存在であることを意味する。そんな事件が事実だったら、どうなのか。  穢れたものとして彼女を否定するのか。自分には関係のないことだと決め込むか。  そうではないとするなら、先程の自問になる。  遥佳を受け止められるのか。受け容れられるのか。  堂々巡りだった。  それを断ち切るかのように、正直な気持ちを彼は口にする。 「長谷川さんのこと、きちんと受け止めたい。だけどその為には、……ほんとのことが知りたい」 「別にほんとのこと知らなくたって、できるよ。だって、知って、その通りだとしたって、遠ざけるつもりはないんでしょ?」  分からない。そんな保証はない。そんな経験がない。だから、躊躇っている。  そう告げると、姉は小さく笑ったらしい。顔は暗くてよく見えなかった。 「別に保証なんかしなくていいのよ。そうじゃなくたってね、男と女の関係なんて最初から最後まで一緒じゃない。途中で壊れちゃうことだって―いくらでもある」  ほんの少し淀んだその箇所に、賢八は姉の経験を感じた。 「好きな人のことならほんとの事知っておきたいっていうのも分かる。―だけど、男からそうした話は尋ねるもんじゃないね。―何だっけ、あの、ネコ」 「ネコ?」  唐突に猫の話が出てきて、賢八は鸚鵡(おうむ)返しに訊いた。 「ほら、科学か何かでさあ、箱に毒薬と猫が一緒に入ってて、外からだとその猫が生きてるか死んでるか分かんないってやつ、あれ」 「シュレジンガーの猫」 「ああ、それ? つまりそんな感じよ」  なんだかよく分からないが、何となく言いたいことも分かる。  シュレジンガーは最近見聞きすることもある名前だ。その猫の話は、量子力学で語られる確率の概念をモデル化したものだ。青酸カリ入りの箱に閉じこめられた猫は、量子力学の考え方を当て嵌めると「半分生きていて、半分死んでいる」―一見奇妙な状態なのだ、という。  今回のことも、確かにそれに似ている―といえば似ている。  猫は遥佳だ。その事件が起こったか、起こらなかったか、このままでは賢八には分からない。  姉がシュレジンガーを引き合いに出すのは意外だったが、しかし賢八には得心が行った。賢八は、この件に関しては積極的に働きかけてはいけないのだ。 「大丈夫よ。本当に好きな相手になら、どんなことだって話したくなる。いつになるかは分かんないけどね」 「そんなもん、かな」 「少なくともあたしならそう。いきなりはとても言えないだろうけどね、その人がほんとうに好きになったら、―痛みや傷だって、分かち合いたくなる。知られたくないことまで、教えたくなる」  八尋は、断言した。それはもはや性別や年齢とは関係のない、強烈な同一化への欲求だ。相手と一つになる手段は、相手の全てを受け容れるだけではない。自分自身を相手に受け容れさせたいという欲求、受け容れて欲しいという願い。しかし、 「そうすることで、今までの関係も全部なくなっちゃうとしても。そんな瞬間が来る」  その思いは……、―ある意味、共感できる。否定できない。今日、彼自身がそうだったのではないか。  あの掲示板に目を通した瞬間。見たくない、見てはいけない。心の中の大部分はその思いが占めていたのだ。しかし、あの瞬間だけ、指が。言うことを利かなかった。  結局はそれが本当の本心(、、、、、)なのだろう。浅ましいのかもしれない。しかし、彼は、どうしても知りたかったのだ。 (ただの好奇心じゃなく)  賢八は知ることで、彼女を受け容れたかった。 「猫が欲しいんなら、とりあえず箱ごともらっちゃいなさい。生きていようが死んでいようが猫は猫」 「やめてよ、その言い方」  ことは生死の問題ではないのだから、その表現は極端すぎる。遥佳は、真偽はともかくとして、少なくとも噂など気にした様子もなく振る舞っている。その気持ちを大事にしたい。そんな彼女ならば、何があろうとも支えたいと思う。受け容れたいと思う。 (……俺に出来るかは、分からないけど)  可能かどうかはこの際問題ではない。彼はそうしたかった。だからそう決めた。 「彼女がこのことを自分から口にするまでは、絶対、訊かない」  低く、賢八は独り言を言った。 「賢八。漢(おとこ)の顔になったねえ」 「何言ってんのさ。見えてないくせに」  この暗闇である。気配や息づかいは分かるが、顔までは見えない。 「そこはそれ。『心の目』ってやつよ」  調子の良いことを八尋は言った。いつも通りのことであり、そのことが賢八をかえって安心させた。      4.  翌朝、やや寝不足ながらも朝日がカーテンから漏れ差す部屋で賢八は気持ちを奮い立たせた。  やることはいくらでもあった。……むしろ、行動すればするほど選択肢も行動も広がっている気がする。  一方で、そんなにも時間はかけられない、という思いもある。決意の割には構えが中途だが、専念することは許されないのが賢八の状況である。  もう一度、整理する必要があった。今度は通学途中の道すがら考えた。  『樹』に関しては、今の時点で手掛かりはふたつある。  島倉教諭から耳にすることができた情報として、笠原神社と、……『きへんに秋』の漢字。  神社に関しては神主に話が訊ければよいのだが。あの古びた神社に巫女や神主が現れるのは、正月しか記憶にない。一昨年、たまたま初詣に笠原神社を選んで訪れた時には確かに居た気がする。どうやって探せばよいのか。……よくよく考えると神社の連絡先など調べる方法すら分からなかった。案外、面倒かもしれない。  きへんに秋、はどうだろうか。  正直なところ未だに読み方が分からないのだが、とりあえず授業の合間にでも漢和辞典を引こうと思った。読みが分かれば調べようはいくらでもあるし、こちらはさほど難しくはないように思えた。ただ、 (調べて、何が分かるのか)  という素朴な疑問はある。「ある種の特殊性」をあの教師は語っていたが、あるいはそれを切り口に何か検索でもできるだろうか。手掛かりとしては弱そうだが、こちらの方が取りかかりはしやすい。 (水は低きに流れる、か)  自分の安直さに大仰な感慨をわざわざ付け加えて、手間のかかることを後回しにすることに決めた。  ……もうひとつ懸念が増えていた。あの『掲示板』である。  普段ならばああしたものは見なかったことにしてやり過ごすところだが、今回はむしろそうしてはならないと感じている。知らなかったのならば、それでもよかった。でも知ってしまった以上、何かしなければならない。でなければ遥佳への背信になる。  確かに実名で記されている訳ではない。しかし、クラスとイニシャルが分かれば書かれているのが誰のことなのかは容易に特定できる。利用規約―が、本当に有効かどうかも怪しいものだが―にも反している状況だ。  幸い掲示板には管理人が記されていた。ほんの僅かに残った良心というところか。ただ、それを見た時にもちょっと首を傾げたくなった。およそ似つかわしくない名前だったのだ。  「生徒会」  と、そこには記されていた。 (やる気があるのかないのか分かんない連中だからな)  そもそも本当に管理しているのか疑問だが、とりあえず苦情をぶつけてみようとは思った。そうは言っても「生徒会」だけでは誰に話したらよいのか分からない。  同じ学年の連中はそうした学校活動からは既に離れているが、経験者のつては辿れる。 (樹よりもこっちが、先かな)  いかがわしい噂の温床を片付ける方を先にすべきだろう。樹に関しては時間がかかっても誰も困らない。  昼休みに賢八は理数クラスの三木という生徒を訪ねた。生徒会つながりとしては賢八の人脈で強力な部類だと思ったのだ。元・生徒会会長、である。 「あの掲示板か」  三木は、痩せていてひょろりとしていた。シンプルなデザインの眼鏡の奥の目が鋭く、黙っているとひたすらに理知的な印象がある。  その三木が、露骨に嫌な顔をする。そしてその雰囲気そのままに、てきぱきと答え始めた。 「僕の所に来られても困る。そもそも僕はあれをなくしてしまうべきだと思ってるんだ」 「だよな。お前がまっとうな思考の持ち主なのが確認できて安心した」 「痛烈だな」  三木は僅かに口許を歪めた。皮肉だと思ったのだろう。賢八にそのつもりはなかった。 「願わくはそのまっとうな思考で生徒会を動かして欲しかった。お前が会長だったうちにさ」 「動かそうとしたんだ。あれはそもそも不正規(イレギュラー)なんだから。僕らよりもずっと前の代の誰かがプログラムを設置して、ごく少数の人間が使ってただけだったんだよ。トイレの落書きみたいなもんさ。落書きなんだから消すのが道理だ」  三木はまくし立てて指で眼鏡を押し上げた。  その由来は初耳である。しかし、そんなところだろう、と思った。匿名である時点で書き込まれた内容など信憑性は皆無に等しい。むしろ風紀に悪影響しか及ぼさない。 「その割には健在で、しかも流行ってるじゃんか。迂闊にも俺は最近知ったばっかりだけど、あんまりな内容の数々に呆れかえったぜ」 「同感だね。まったく同感だ」  賢八は改めて相手の顔を凝視する。 「何だい? 君に見つめられるのは正直ぞっとしないな」 「同感だってんなら、どうして消さなかったんだよ」  そうした提案もできたはずだ。しかも会長だったのだから主導権を握ることだってできただろうに、と思う。それをせずに頷いてだけいるのが賢八には珍妙に思えた。 「僕が何もしていないと思ってるのか。言ったさ。提案したし、議事にもした。だけど駄目だったんだ」 「だめ? なんでこんな当たり前のことが駄目になるんだ」 「当たり前のことを当たり前でなくしてしまった人間が居てね」  何を言っているのか分からない。問いかけようとした時、今度は三木が先に言った。 「曰く、『こうした掲示板にこそ校内の本当の姿が見える。要は管理上の問題なのだから、むしろ生徒会が管理することで正しい運用をすればよい』―とね。ああ、僕が言うとたぶん説得力がないね。だがあの時の彼女の弁は見事だったよ。僕でさえそれもいいかもしれない、と、思わされた」  どうやらその『彼女』というのが、その会議を主導した人物らしい。ということは実質上の管理者だろう。生徒会というのは管理と統率に関しては、責任感や意欲に満ちた一握りの人間と、成り行きで選出されざるを得なかった無気力な人間の集団である。 「つまり―、その彼女を何とかしろってことなんだな。お前でも動かせなかった相手を」 「相変わらず君は察しがよくて助かる。そうしてもらえればあの汚く忌々しい掲示板だってなんとかなるよ」  賢八は頷いた。―頷いたものの、まだ少し釈然としない。何だか三木に便利遣いされているだけのような気がしなくもなかった。 「なあ。それだけ問題があると思うのなら、これはもう生徒自治以上の問題じゃないのか」  基本的には校内の規則運用に関しては、神楽山は生徒たちに一任されている。だからこのように生徒会での意志決定は尊重されるのだ。あるいは、ただ単に無関心なだけか。かつての学生闘争の頃合いには、理想も主義もあったのだろう。しかし現在では世間の政治さながらに惰性でこの伝統が保たれている。  自治水準の問題を越える場合は、教師たちへ介入を求めることも可能だった。  それを聞くと三木は露骨に嫌な顔をした。 「何を言ってるんだ。僕は生徒会長だったんだぞ。皆の意見の集約ができなかったからって、先生たちに泣きつくなんてできる訳がない」  要するに自分のプライドと多少の保身が理由なのだ。実際、教師らの「介入」を進んで招くことは神楽山の生徒にとって軽蔑の対象として扱われがちである。 (これ以上、三木を絡ませるのは無理、か)  既に学校活動からは引退した三木を引っ張り出すのは難しいようだ。本人が乗り気でない上にこの様子では人望も薄かったに違いない。進学校の神楽山の中でも指折りの成績の主なのだが……。 「まあいいや。じゃ、教えてくれよ。その『彼女』ってのは一体誰なんだ」  三木は眼鏡の中央を中指で押し上げた。 「その筋ならかなりの有名人だがやっぱり君は知らないか。結局そうした無関心さこそが、彼女が力を付けた理由でもあるんだがなあ」  一言多い男である。しかし言い合っては余計な手間が増えるだけなので賢八はせいぜい苦笑いで合わせただけだった。 「二年D組の鹿島 静香だ。―でも気をつけるんだよ、彼女には不思議な力を感じる」 「ちから?」  次から次へと奇妙な言葉を耳にする最近である。行方不明の樹のお化け、姿なき暴漢たちに神楽山の烏の主(ぬし)、―今度は超能力者(エスパー)か?  三木は溜め息のように大きく息をついた。 「そう言ってしまうと妙な感じになるか。違うよ、君が露骨に嫌がったようないかがわしい能力じゃない。なんというかな―、そうだね、何かと圧倒される。こういう人間が居るのかと考えさせられるよ」 「……」 「だからまあ、気をつけろとしか言えないんだがね」 「二年D組の鹿島 静香さん、ね。分かった。彼女に掛け合ってみよう」  要領を得ない話には付き合わずに、賢八は最後に感謝を告げて三木から離れた。多少不安ではあるが、まずは会ってみなければ始まらない。いかつく手厳しい少女だったらと、少しうんざり気味ではあったが―   「わたしが鹿島 静香です」  賢八が二年生の教室で呼び出した少女は、背筋が伸びて姿勢のよい少女だった。姿勢だけではない。顔は賢八の正面を向き、不審がる様子すらない。明瞭に名乗り、口許が微かに笑みを作った。  第一印象は―絵に描いたような美少女、である。と、素朴に思った。話に聞いて思い浮かべたようないかつさ(、、、、)とは完全に無縁である。形のよい眉、二重(ふたえ)の明るい瞳、すらりとした鼻梁、柔らかく朱の差した唇。背中まで伸びたまっすぐな黒髪は艶やかで、頭にはその滑らかさが成す光輪の輪郭がある。  一年下の学年に、これほどの少女が居ることを賢八はまるで知らなかった。 「ええと、櫻井さん―ですよね。何のご用でしょう」  その言葉で賢八は僅かに目を細めた。―いや。知っている(、、、、、、、、)。この少女が自分の名を呼んだのは、出会ったことがあるからだ。  そう思い始めるとこの顔は記憶にある。鮮明ではなかった。確かあれは、窓からの光が背後から差していて、輪郭(シルエット)しか印象にないが、あの髪の光輪は―  鹿島 静香は幾分時間がかかる相手に小さく微笑みかけた。 「二日ほど前に、ちょっとだけお会いしましたよね。図書準備室で」 「それだ。やっぱりあれが君か」  思わず人差し指で静香を示す。幾分滑稽な仕草になった。 「しばらくは図書室通いかと思いましたけど、もうご用はお済みなんですか?」  賢八の指を手のひらで軽く押し返しながら、少女の表情は変わらない。この声、この表情。―なるほど。何かを求めるには、求める側に少し勇気が必要な雰囲気を、彼女は確かに持っている。 「う、ん。ちょっと他のことが急になってね。―君に話したいのは、それだ」 「短く済むお話でしたら、これからでも大丈夫ですけど」  短く済むかは、彼女次第ではないかと賢八は思う。しかしもの分かりは良さそうな印象がある。大丈夫だろう、と賢八は思った。 「君さえ頷いてくれれば、すぐだね」 「それなら大丈夫ですね」  静香は、あっさりと肯定した。なかなか、不敵―である。 「場所を変えましょう」彼女は教室を僅かに一瞥して続ける。「先輩、何だか深刻そうですから」  その申し出は渡りに船で、確かに賢八が暗に望んでいたことだったが、あっさりと見透かされているようで、少し複雑な気分になった。三木がこの少女のことを 『気を付けろ』  と表現したのが、何となく分かる。理由は説明できないが、あまりにも―出来すぎていて、嘘っぽい。その裏に何か別の顔があるような気がしてきた。  二人が教室の側を離れた後、教室の中ではいそいそと立ち上がり、二人とは別の方向へ小走りに飛び出した少女の姿があったことを、賢八は知らない。 「お話は分かりました。生徒会としてはそうした誹謗中傷に通じる情報は掲示板にふさわしくないと考えます。すぐに削除します」  彼女は、本当に話が早かった。  ―早すぎる。何しろ賢八が二、三個の言葉を並べただけでこの反応を示した。何だか、似ている。  賢八は隣家の幼馴染みの少女を思った。それにしてもここまで早いということはない。 「あ、り、がとう」  賢八としては他に言葉がなかった。あれやこれやと理屈や不平でも並べられるのかと思ったが、予想外の素早さである。 「……ところで、いつぐらいに消すのかな」 「この昼休み中にでも。お話が済んで時間がありましたら、すぐ取りかかりますから」  明瞭である。賢八としては何も言うことはない。―が、今度はこの少女の方から付け加えられた。 「でも先輩、たとえ放課後にまだ掲示板が残っていても、生徒会の怠慢とは思わないで下さいね」 「どういうこと? それ」  静香は吐息して答える。 「つまり、消した後から同じような話題で掲示板を立ち上げる輩が、たくさん居るということです。最近はあの事件に関することは押さえようもないくらいに」  それは―軽い衝撃だった。  多少の好奇心や欲望、嫉妬が噂や憶測を煽り立てるのは分かっているつもりでいた。人間とはそうした生き物だ。しかし、今静香が説明したような事態は賢八の想像を超えていた。結局のところ、 「匿名ってのは、ここまで人間を浅ましくするんだな」  吐き捨てるように賢八は呟く。いつも教室で見慣れた面々が、そうした行為に耽っている姿は想像もつかない。しかしそれが 「それが人間、ですね。わたしは別に驚きません」  静香は控えめに言った。  その淡々とした様子が気に入らなかった。賢八は刺のある言葉を投げかけた。 「君らの怠慢とは言わない。でも実質、生徒会はもうあれを管理できてないんじゃないのか? あの掲示板は害悪でしかない。さっさと無くしてしまうべきだ」 「害悪。害悪というのは何が害悪なのでしょう」 「何って、あれを見てくだらない憶測を煽ったり、実際に読んで傷つく人間だって居るんだ」 「確かにくだらない憶測です。くだらないのだから、傷つく必要はないと思います」  なるほど、道理である。一呼吸置いて賢八は表現を変えた。 「事実をことさらに誇張して、過剰な迫害や扇情につながる」 「それは掲示板が問題なのではありません。そのような行為に至った人間を罰すべきです」 「だから。『そのような行為』の契機(きっかけ)になるとは考えないのか」 「それこそ過剰な想像だと思いますよ、先輩。あの掲示板が一体いつから存在しているのかご存じですか? わたしたちが入学する前から、あの薄汚い掲示板は校内の端末で息づいているんです。伝え聞く話ですけど」  賢八の目が険しさを増しているのを見ながら、宥(なだ)めるように彼女は続けた。 「わたしは別に先輩と言い争いをしたい訳ではないんです。―それじゃ、たとえここで掲示板を生徒会の判断で閉鎖したとして、どうなると思いますか」  どうなるか。―少なくとも、汚物容れのような掲示板が存在しないのならば、心に平穏が訪れるかもしれない。 「違います。今の状況なら、次の掲示板が立ちます。より見つけにくく、匿名性の高いものが。それは生徒会の目からも隠されて、もっと陰湿に、あるいは過激な方向に暴走しかねません」  それこそ極論だろう―と言いたかった。しかし、あの掲示板を見てしまった以上、絶対の自信は持ち得ない。むしろあれが人間の本性の一部だとしたら、あまりにも救いがなさすぎる。鹿島 静香の未来予想図の方がよほど的確に思えた。 「管理の要諦は拒絶や根絶ではなく相手を制御下に置くことです。現状で全て上手くいっていると言うつもりはありませんが、だからこそあの掲示板は良くも悪くも機能していると言えます」  ものは言いよう―という言葉が、賢八の頭の中で輪郭を帯びると、まさにこの少女の顔になった。淀まず、動じず、狼狽えない。なるほど、難物である。こうした人間を翻意させるのは至難の業といえるだろう。  材料が、ない。  それを感じている。交渉をするにも彼女が食いつくような餌がなかった。その為にはもう少しこの少女のことを知らなくてはならないのだろう。あるいは、彼女の想定外の部分を攻め口にするしかない。きっと今の問答は全て彼女の想定内なのだ。 「もうあまりお昼休みも残ってませんから、この話はこれくらいにして。その掲示板の削除をしませんと」  言葉遣いは丁寧だが、今の賢八には勝ち誇られているかに聞こえる。 「君は―、言ったな。『現状で全て上手くいっていると言うつもりはない』と」 「? ……そうですね、そう言いました。それが何か」 「何が(、、)上手くいっているんだ?」  この問いは、静香の予想外だったらしい。恐ろしく早かった会話の回転が一瞬停止した。 「……管理できている部分もある、ということです。わたしたちが」  しらじらしく彼女は返した。どうとでも受け取れる言葉だ。その一瞬の逡巡の中に、賢八はひとつ理解した。彼女は、あの数々の掲示板を使って何かをしようとしている。それ(、、)は上手くいっているのだ。 「いったい君は何をしようとしてる」 「え? 何、と言いますと」  そうした訊ね方だとそう返されるだけである。もう少し、具体的にする必要がある。賢八はもう一度考えた。  キーワードは「管理」と「機能」……だ。便所の落書き程度にしか思えないあの掲示板に、彼女はこの二つの言葉で自らの接し方(アプローチ)を示した。  管理はあまり上手くいっておらず、機能はしている。ということか。  では機能とは何か。敢えて自分の感じた不快感を「機能」に置き換えてみる。  欲求不満のはけ口か。好奇心の充足か。普段知り得ない情報のソースか。  ……情報。確かに不快で陰湿な内容ばかりだが、あれらも情報だ。そもそも掲示板というのは情報を展開するためにあるのだ。  そして思い至った。他者に主導権を握ることを許さないこの少女が、他人の罵詈雑言に満ちた掲示板の現状に機能を見出すとしたら―それは情報を得る為ではなく、情報を広める為ではないかと。 「掲示板は確かに便利な部分もある。匿名の書き込みには誰も知らないような事実もあったりもするからね」 「誰も知らないのですから本当か嘘かを確かめようもありません。そんなの、あてにならないただの噂と変わりませんよ」 「噂だって皆が信じれば真実にすり替わってしまうさ。そうなったとしたって、誰も確かめようもないんだから」  まさに自分が、そうだった。―今だって、本当は揺れている。遥佳に降りかかった奇禍を疑って、恐れて、それを確かめられないままでいた。  そこまで思考を進めて、ふと思い至った。  他者に主導権を握ることを許さないこの少女が、他人の罵詈雑言に満ちた掲示板の現状に機能を見出すとしたら―それは情報を得る為ではなく、情報を広める為ではないかと。 「―君は、そうした情報を流す(、、)為にあれを使おうとしてるのか?」 「わたしは校内の運営に不透明な部分を残すのは適切ではない、と思っています。だから管理と称して生徒会預かりにしたのです」 「……」  事務的にさえ思える回答だった。しかし賢八に対してまっすぐに向けられた視線には、ある種の熱意があった。責任感が強く、それ故に意見が異なる相手とは衝突しがちな傾向を思わせる。 「何にしても―生徒会は責任を果たすつもりです。ご不満がおありでしたらまたすぐにお知らせ下さい。今日報せて頂いたことはすぐに対応いたします」  彼女は一礼すると賢八の脇を通り抜けて立ち去った。残り香は何かの花の香りに似ていた。 (ひとまず、これでいいのか。な)  少なくとも嘘はつかれていないと思った。である以上、彼女は約束を守るだろう。少し、様子を見てみようと思った。  賢八は大きく息をついて窓を見上げた。空は明るく青く輝いていた。しかし自分はといえば、どんどんと思考の深みに嵌(はま)っていくようである。砂時計を連想した。時が進むにつれ、流砂の流れは止まらず、速まり、底に穿った穴へと吸い込まれていくような。まるでそんな感じだ。  そして―賢八と別れた鹿島 静香の背後には、ひたひたと近寄る足音があった。 「あの、」 「空ちゃん。悪いけど、櫻井先輩が言ってた掲示板の話題(トピック)はすぐ削除して」  振り返ることなく静香は言う。足音と声が「有栖川 空」のものであることは、彼女にとって確認するまでもないことだった。 「はい、それはもちろん」 「難しいわねえ。みんな言いたい放題で。これをどうコントロールするかはもっといろいろ試してみる必要があるわね」  静香は、嘆息した。この程度の不平不満を耳にすることは彼女には何でもないことだったが、適切な対処が打てずにいるのも事実だ。姿なきものの声、普段は沈黙を守る多数派の本当の主張。それらが掲示板という特殊な表現の場で顕わになってゆく。 「あの、どうして言わなかったんです?」 「何を?」 「記録(ログ)。取るようにしたじゃないですか。個人の特定まではできないけど、書き込んだ端末と時間は分かるようにしてるのに」  そのコードを書いた本人が控えめに主張する。  静香が賢八に語った通り、掲示板の機能自体は何代か前の生徒がひそかに設置し、限られた仲間内で使っていたらしい。その生徒らが卒業した後も削除されることなく使われてきたのも事実だ。―が、生徒会がその運営に関与する事を決めた際、密かに更新情報を取得するように機能を追加していた。 「第二次大戦の時、」  静香はマニアックな逸話(エピソード)を披露する。 「イギリスは自分の都市が爆撃されることを事前に暗号解読で知ってたのに、わざと警戒しなかったことだってあるのよ。暗号を解読されてると悟られたら、相手が暗号を替えてしまうだろうから」  そこまで言えば、空に対しては充分である。監視されていることを知ってしまったら、あの掲示板も投稿を警戒されてしまうだろう。匿名であることが、重要なのだ。だからこそ人は安心して妄想や雑言、密告をする。取捨選択が大事だが、下世話な情報の源(ソース)としてはあれは格好なのだ。ただ、いざという時の為に、書き込んだ人間を特定する術だけは隠し持っておいた方がいい。それが鹿島 静香の判断だった。 「櫻井先輩―思ったよりも勘が良さそうだから。今わたしたちがやってることには触れないようにしないとね」  相手に伝えるように、また、自分に言い聞かせるように。静香は付け加えた。 「でもあの人、とてもその、関係があるとは思えないんですけど」 「かもね」  機敏である。空の遠慮がちな意見に、彼女はてきぱきと反応する。歩く速度は少しも落とすことなく、相手を振り返ることもなく。まっすぐに前を見据えている。 「だけどまあ、秘密にしておいた方が無難は無難だし。そうだ空ちゃん、あの掲示板の話題、消すだけじゃなくて書き込んだ端末一覧を後で見せてちょうだい」 「はあ。何か怪しい所でも?」 「怪しいに決まってるじゃない。ひとさまの不幸を暴いてひけらかそうとするなんて。櫻居先輩じゃなくたって腹は立つわよ」  それは十二分に卑劣なことだと思うが、しかし、だからといってそれだけでは罪とも言い難い。あの櫻居という人は書き込まれた女生徒と関わりがあるからそれを指弾した。しかし、静香にとってはそれもまた他人事でしかないはずだ。 「理由? わたしが知っておきたいからよ」  当然だと言わんばかりに鹿島 静香は返答し、空は何度目かの絶句をした。 「まあ。―敢えて言うなら、その悪意ある誹謗が、犯人との関係を窺わせる要素が強いから、ってところかしら。証拠はないわね。だけどもし相手を特定できれば、人を付けて挙動を確認することもできるわ」 「その場合、ログのこと、公表することになりませんか」 「ん。―そうはならないわよ。きっとね」  そこにも何か思惑があるらしい。理由までを語らないのは、冷笑的思考の静香から見ても口にしたくないことだからか。  わざと声音を明るくして、静香は続けた。 「まあ、空ちゃんがあまり好きじゃない作業だってのは分かってるわよ。さっさと片づけてしまう為にもね。気になった所は確認しておきたいの」  好きではない作業と適いている作業は別だけど。―と、内心彼女は思っている。この空という少女は緻密さにかけては遙かに遠く及ばない。時に病的かと思えるほど作業には念が入っていた。自分が手がけるよりも効率的に的確な答えが返ってくるので、つい頼み込むことが多くなる。  空は―は、はい、と幾分どもりながら頷いた。いつもすさまじい迅(はや)さで先を進む静香に対しては、必死にならなければ置いてゆかれてしまう。  彼女は、静香に置いてゆかれるのが何より嫌だった。ほんの少し、半歩ほど遅れて一緒に歩くのが良かった。そうした立場、そうした存在に固執した。そうでなければこの類希な、美しく才気溢れる少女が空だけに見せる表情や声が見られなくなる。聞けなくなる。  だから頼まれ事は諸事念が入った。そういうことなのだが、それぞれはそうした思惑など気にすることもなかった。  空は窓の外を見上げた。賢八が見上げたのと同じ色、同じ青だった。そして抱えているぼんやりとした不安もまた、彼に似たものだったかもしれない。心なしかその青は、やや重かった。