第三章 真相は いつもせつなくて      1.  小雨が静寂を強くするこの日は、帰宅してカーテンを開けると出逢いが待っていた。 「今週号をください」  ……窓越しにその声と顔を見て、賢八はぼんやりと考える。  まるで高利貸しの取り立て屋だ。この少女は手に入れる寸前までは笑顔である。そしてたまたま買っていなかったりすると、態度は豹変して悪態をつき雑言を並べ立てるのだ。 「なによー。死んだサカナみたいな目で見て」 「いや。俺ってただのマンガの供給源なのかと思ったらむなしくなった」 「そ。そんなにヒクツになるこたないと思うけど?」  いつになく気弱に聞こえる反応に、晶も少し気遣った。この一週間に何があったのだろう。確か先週は― 「そうだ。賢ちゃん、あの樹どうなった?」  ガラにもなくちょっと気のある同級生の為に所在が分からなくなった樹を探そうとしている少年。先週までは賢八はそうしたシチュエーションだった。今は、―何やら無気力を全身で表現した受験生でしかない。  さらに悪い想像をして、晶はそっと続けた。 「あのひょっとして、さ」 「なんだよ」 「―フラれちゃったとか?」  一応、このあたりも少女なりに気を遣ったつもりである。自身はあまりそうした感覚に傷ついた自覚はないが、知識としてつらいものだろうと知っている。いかにも経験の乏しい少年にはダメージが残っているのだろうと想像した。 「なんだお前。珍しく心配してくれてんのか」 「そりゃあさあ、最初で最後の恋だったかもしんない訳だし」  適度に香辛料の利いた返事がかえって小気味良い。こうでなくては晶ではない。些末だがこのやりとりで賢八は少しほっとした。最近は何もかもが激変して、何を信じてよいのやら分からなくなっていた。変わらないことが、これほど安心できるものだとは今まであまり実感も乏しかった。 「樹の方は、あんまり捗ってないよ。―だからって、フラれて樹なんかどうでもよくなった、って訳じゃないからな」 「言い訳なんてどうでもいいよ。その後のこと、教えてよ」  晶は窓枠に足を掛けた。飛び移ってくるつもり―らしい。 「お前樹のことはどうでもいいって言ってたじゃんか。気まぐれだなあ」 「ま、ね。別に拘りはないけど。―いいじゃんいいじゃん、誰かに話すとまた分かるとこもあるかもしんないしさ」  小さくかけ声を出して、晶は賢八の部屋の窓枠に飛び乗った。そして―滑った。 「わっ、ほっ、おおっ、―きゃあああ!!」  悲鳴は、最終的にバランスを取り戻せなかった少女の最後の絶叫だった。茶色のセーター姿が視界から消える。  いや、その直前。賢八が晶の両足をしっかり掴み、部屋に引き入れていた。ただ万全ともいかず、晶は尻をしこたま窓枠に打ち付けることになる。 「いったーーーーーあ………たたたたた……」 「だだ大丈夫か!?」 「うう……おしり割れたかも……」 「元々割れてんだろ。ってそんなつまんない冗談やってる場合か!」 「冗談じゃないってば。それくらい痛いの! いたたたた」  腰も幾分海老反りになってしまったのでずきずきとした。少女は、四つんばいでやや背中を丸めうずくまっている。時折右手で越しのあたりをさすったり叩いたりしながら。  賢八は大きく息をついた。 「びっくりさせるな! 落ちたらどうすんだ」 「う、うん。あたしも、すっごくどきどきしてる」  落ちそうになった本人が一番怖い思いをしたのは確かだろう。それを聞くと賢八の怒りも一気に消散する。 「うん。……まあ、その程度で済んだのならよかった。―お前やっぱり重くなってるんだよ。そろそろちゃんと玄関から入るようにしたらどうだ」 「うーん。今のは猿も樹から落ちる上手の手から水漏れ弘法筆を選ばず……」 「最後のは違うだろ。―大丈夫か? 湿布持って来るか?」 「うう。痛いよ……」  痛みが徐々に出てきたのか、晶の声はだんだんと気弱になった。ただの打撲―とは思うのだが、痛みが引くまで安静が必要か。 「横になるか? 布団、敷いてやるから」 「ここで寝るの? ……。なんかいやらしい……」 「何の心配をしてるんだお前は」  賢八は、呆れた。  とりあえず安心させてやるために姉を呼んだ。別に医学の心得がある訳でもないが、賢八を閉め出してから晶の痛めた箇所を見て、湿布を貼る。  襖越しに声だけは賢八にも聞こえた。 「派手に青くなっちゃってるけど、基本的には痛めた時は安静が一番だからね。二、三日様子観て収まらないようだったら病院行こうね」 「すみません。八尋さん」  しおらしい声だ。基本的に、八尋の前では晶はおとなしい。賢八に対してはそれはもう遠慮も何もないのだが。 「それにしても羽みたいに軽やかな晶ちゃんがとうとう足を滑らせるとはねえ。歳は取りたくないもんだ」 「え。……あたしは早く歳を取りたいです。無理ですけど」 「あらま。まあ小娘卒業したいって気持ちも分かるけどねえ。別に急ぐ必要ないわよそんなの。若けりゃ若い時だけの魅力だってある訳だしさあ。瑞々しい若鮎のような身体ってのも」 「何の話をしてるんだよ姉貴っ」  こうやって晶によからぬ話を吹き込むのか。その現場を目撃―した訳ではないが、実際に耳にして賢八は声を上げた。 「あらあんた居たの? 女同士の話に聞き耳立てるなんて男としたらサイテーよ?」  ここに居るのは分かっているだろうに、殊更に八尋は言い立てた。  いつもなら晶がたたみ掛けるところだろうが、その声はない。やはり弱っているのか。 「ま、いいわ。あんた晶ちゃん襲っちゃダメよー。もう少し経ったらおぶって運ぶからね」 「誰が―」  言い返そうとした途端にすっと襖が開き、賢八は言葉を飲み込む。こちらにのみ向けられた姉の顔は真剣そのものだった。 「今は叱っちゃ駄目よ。いろいろ言いたいだろうけどさ、あんたも」  無言のまま、賢八は頷く。八尋はそれに対してにこりとすると、殊更にどたどたと階段を降りていった。ガラにもないことをしたという、照れ隠しだろうか。  部屋に入ると、晶が布団から顔だけを出して天井を見ていた。ふてくされているかに見える。 「はあ。情けないったらないな」  悔しそうに言う所を見ると、かかる粗相は自分でも許せなかったに違いない。この少女はそうした自尊心は強かったし、それに足だけの運度神経の主でもあった。  賢八は何も言わずに机に向かった。軽口が利けるのは元気な証拠だった。  元気なのだから、すぐに退屈する。 「ねえ賢ちゃん。先刻(さっき)の話の続き、聞かせて」  五分も経たないうちに晶は騒ぎ始めた。 「お前安静ってのはな、【静かに安(やす)んじる】って書くんだ。何も考えずにしばらく寝るとか」 「こんな時間に眠くなるはずないしー。こんなの、つ・ま・ん、な・い。いいじゃん話すんのなんて簡単でしょー?」  簡単ではないのだ。今の所賢八の頭の中を占めているは掲示板のことと樹のことだったが、どちらもまだ暗中模索である。特に掲示板に至ってはあの後、さらに大きな出来事があった。 「あの樹のこと、学校で何か分かったの?」 「樹? ああそうか。樹なあ、樹はええと、―そうだ、歳のいった先生に昔のことを訊いてみたらさ、」  晶なら面白がるかもしれない。賢八は木へんに春夏秋冬と四文字の漢字を書いて少女に見せた。「その先生の話だと、どうも探してる樹ってのはこの『木へんに秋』の樹らしいんだ」 「……」  少女は無言で『楸』と書かれた字を見ている。読めないのだろう。そう思って賢八は続ける。「このホニャララって樹は珍しいらしくって、だから工事の時にも伐られずに移すことになったんだってさ。移す時には神主呼んだらしいから、あの神社に訊いてみるのもいいなと思ってる。やってないけど」  調べ物は苦手ではないが、今は面倒だった。神社に至っては毎日傍らを通り過ぎるものの、普段は人が居ないのでどう話をしたらよいのかも分からない。有名な神社ならば連絡先も簡単に分かるだろうし、有名なのだから人も居そうなものなのだが。 「ひさぎ?」 「は?」  唐突な少女の呟きに、賢八はぽかんと口を開けた。 「は? じゃないでしょ。これ、『ひさぎ』って読まない?」  そう訊かれても読み方を知らなかった賢八には回答のしようがなかった。立ち上がって本棚の下の方から広辞苑を取り出し、胡座をしてページをめくる。 「ひさぎ、ねえ。よく知ってたなあ、晶」 「あんまり自信ないけど。ねえどうだった? 当たってる?」 「すぐには出てこないよ。ええと、ひざかぶひざかりひさき、ひさぎ……あれ? 違うぞ晶」 「ええっ、嘘っ!」 「きへんに命令の令、で『?(ひさぎ)』だってさ。ハズレだな。ええと『ヒサカキの異称』。…ヒサカキって何だよ」 「ちょ、もう、見せてよっ」  引き摺るように広辞苑を賢八から奪うと、晶は寝たまま広辞苑を広げようとして―腕が支えきれず、広辞苑を顔一面に多い被らせた。 「いくら何でもそれじゃ見えないだろ」 「あったり前でしょ、のんびりしてないで手伝ってよ!」  妙な体勢で賢八は少女の眼前で広辞苑を広げて持つことになった。感謝の言葉もなしに晶は熱心にページを見ている。 「あった。ほら、あるよちゃんと」 「え?」  指摘されて今度は賢八が困惑の声を上げる。 「賢ちゃんが言ってたやつの隣。きへん、秋で『楸(ひさぎ)』。『キササゲまたはアカメガシワのことという。ぬばたまのよるのふけぬればひさぎはふるきよきかわらにちどりしばなく』」 「何の呪文だそれは」  賢八がそのページを見ようとするのだが、晶がしっかりと離さずこちらに向けることができない。 「万葉集でしょ! どっかで見たなあって思ったら、国語の参考書だった」  しかしそんな端にでも載っていそうな字句を、よくも覚えているものである。ことに記憶や観察に関しては、この少女は本当に油断がならない。 「ひさぎ。ひさぎ、ひさぎって何だ?」 「重いよ。ちゃんと支えて」  考え始めた賢八の腕から力が抜けたせいで、晶が文句を言う。賢八は我に返ったが、そもそも無理な姿勢が続いて限界でもあった。 「晶、もう分かったからちょっと辞書、貸せって」 「分かってないんじゃない。もう一回読むから聞いといて。―『キササゲまたはアカメガシワのことという。』だって。じゃあキササゲはっていうとねえ、っっっきゃーーーーっっ、きゃああーーーーあ!!」  突如としてすさまじい悲鳴に転じる。力尽きた賢八の上体が寝ている晶の上に被さったのだった。 「ごめんごめん」  上体を起こした際に手が晶の柔らかい部分を掴み、それがさらに晶の声を大きくした。 「ちょっ、もうっ、どさくさに紛れて触んないでよいたたたたいたた」  身体を動かして逃れようとして、腰の痛みにまた声を上げる。 「か勝手なこと言うな! だからさっさと渡せって言ってんのに」  ガラリと襖が開く。 「ちょっとちょっと、何よ今の悲鳴。賢八あんたほんとに」  まるで計ったようなタイミングで八尋が再び登場する。何を言っても泥沼に陥りそうで、賢八は返す言葉を全て躊躇った。 「いえっ、その……ごめんなさい、何でもないです。ちょっとびっくりしちゃって」  しおらしく答えたのは晶の方だった。上掛けに顔を半分隠すように、恥ずかしげに。  それ以上突っ込む気を削がれたのか、八尋は曖昧に苦笑を見せて大人しく階下へ戻って行った。  ゆっくりと無言で賢八は振り返る。いつもならばむしろ進んで泥沼へ突き落とそうとする少女のフォローには、賢八もまた驚いていた。 「まあ、ね」自分でも普段と違うと感じたのか、晶は何度か瞬きして賢八から目を逸らせた。「―先刻(さっき)、助けてもらっちゃったのは事実だし? 八尋さんにいじめられるの、ちょっとかわいそうだなあって思って」  一応、借りを返したつもりだったらしい 「だからこれでおあいこね」 「これであいこなのか」  こちらはいわば命の恩人、かもしれないのだが……。賢八はそれ以上考えるのをやめた。別に何かを返して欲しくて身体が動いたのではなかった。彼にとっては、それが、当然だったのだ。  どたばたの間に取り返した辞書の頁に賢八は目を落とした。 【きささげ】  ノウゼンカズラ科の落葉高木。中国南部原産…(中略)…漢名、楸 【あかめがしわ】 (若葉が鮮紅色だからいう)トウダイグサ科の落葉高木。日本・中国大陸に自生、日本では二次林に多い。高さ十メートルに達する。…(後略) 「いろいろ呼び方があるんだな、樹って」  とりあえず思ったのはそれだった。魚でも生まれてから成長するまでに次から次へと名前を変えるということがあるが、同じ漢字で表していて別の樹を示すというのはどういうことなのだろう。似ているのだろうか。しかしこうして【きささげ】と【あかめがしわ】の頁を読み比べて見ても、似ても似つかぬ気がする。 「でも、その楸(ひさぎ)が探してる樹なんでしょ? どっちなんだろうね」 「どっち?」 「なんか今日の賢ちゃん、鈍い」鸚鵡返しの賢八に、晶は苛立ちを隠さない。普段ならば先の先ほどの答えが返って来そうなものなのに、やはり少年はどこか別のことを考えているかのようだ。 「【きささげ】か【あかめがしわ】なんでしょ? どっちだと思う?」  そう訊かれても、見たこともない樹だ。辞書に載っている内容を読んだ所でイメージは湧かなかった。―ただ、そのイメージという点でいくならば。 「【あかめがしわ】かなあ。春先に赤い芽を出すんだろ? 少なくともそんな樹見たことないもんな」 「そうだよねー。あたしもそう思った」  多少時間差があっても同じ結論に達したことに、少女は満足する。ただの樹よりよほど特徴がある。しかも出逢いと別れの季節である春にその変化が訪れるという。その神秘性に、同じく神秘的な恋の願掛けを託すのは、分かる気がした。根拠などなくてもよいのだ。惹かれる思いがある男女には、契機となる些末なことがひとつだけあればそれが充分に魔法になる。 「【あかめがしわ】を探したらいいのよ。きっとそれだって」 「そうは言っても簡単じゃないぞ。今は冬だし、似たような樹はいくらでもあるんだ。春先なら別かもしんないけど」 「じゃあ春まで待ったらいいじゃん」  そう、待てばいい。待てば季節は巡り、厳しい冬をくぐり抜けて―春が、やってくる。萌えいずる若葉は、鮮紅だという。そうした樹を探せばいいのだ。  だが、今の賢八にはその時間の流れは重苦しかった。耐え難いほどに。 「春は―、もう、卒業だからな。俺たち」  ぽつりと呟く。できれば、それまでに見つけたかった。そして見つけて、願いたくなる心境だったのだ。ともすれば見つけたいと思う気持ちすら打ち消してしまうほどの状況に。今賢八が抱えているのは受験の重圧どころではなくなっていた。  自分が淡く好意を抱いた少女を疑わねばならない(、、、、、、、、)。  いっそ、無関係であればどれだけ気持ちが楽だったろう。それならば、賢八はただ事実を探るべく耳を傾ければよかった。そもそも、その役目を負うこともなかっただろう。 「そっか。……でも、卒業とか、関係なくない? 卒業したら、お別れなの?」  素朴に晶は訊いた。そして少年の表情が変わらないのを見て、訊くべきではなかったのだと少し悔やんだ。傍若無人に見えて本当のTPOは心得ている。そんな八尋のスタイルが少女の理想だったが、到底及んでいない。 「いや」  それだけは、すぐに言えた。であればこんなに悩む必要もないはずだった。ただ、その後を力強く続けるだけの自信がない。確信が持てない。  その前に、質さねばならないことが、ひとつ生まれていた。  それは、彼女らからもたらされたものだった。賢八は思い出す。つい先刻も、そのことを考えていたのだった。      2.  見覚えのある顔が昼休みの教室の外に現れたのは、購買のパンで簡単な食事を済ませた直後だった。伸びをしながら何気なく周囲を見渡した時、その少女は賢八の視野に突如として現れた。  視線が、こちらを向いている。である以上、無視する訳にもいかなかった。自然さを装って立ち上がり、教室の外でその少女に目で合図をした。相手は察しも良く一人で歩き出した。少し距離を置き、少し遅れるように賢八が後をついてゆく。 「有栖川さん、だったよね。……どうか、したの?」 「あ、はい。前のことで、続きが出来てしまいました」  前のこと、というのはきっと掲示板の件だ。その日のうちに例の話題は削除されていることは賢八も確認できた。以来、あの校内ネットワーク内の掲示板には近づいていない。そもそも見るべきではなかったと、今でも思っている。―ただ、見なくなったからといって、彼の心に平穏が訪れた訳ではない。  『呪い』のようなものだ。知ってしまった以上、その記憶を消し去ることでもない限り、見なくなったからといって離れていくものではない。  これを散じる為には、もはや別の手段しかないと知っている。  しかしそれは叶わぬことだった。 「続きって、また、何か」 「それを話したいので、し―鹿島さんが櫻井先輩を呼ぶように、と」  やはり、あの少女か。そのインパクトのある個性(キャラクター)と外観は簡単に記憶から外せそうにない。何か、掴んだのだろうか。それも、賢八に関係のあることで、か。  間違いなく自分のことを優秀だと任じている彼女のことだ。相談のために賢八を呼ぶとは思えない。彼女は、誰に頼らずとも判断する能力がある。そのための情報を得たいだけだろう。―と、彼は少々意地悪く考えていた。きっと尋問される(、、、、、)のだろうと思ったのだから仕方のないことではあったが。  昼休み中の図書準備室というのは静寂に包まれていた。有栖川 空がそっと扉を開ける。  広い机に数枚のコピーを並べた静香は物憂げにそこに視線を落としていた。ドアの立てた音に顔が上がる。 「わざわざお呼び立てしてすみません。櫻井先輩」 「俺の行動に何か問題でも?」  先制したいつもりで賢八は踏み込んで返した。先手を取られては相手のペースになる。―が、 「それなら直接お話しようとは思いません。周りの人に確かめますから」  簡単に的確に切り返してくる。そしてまた表情ひとつ変えずに続けた。 「わたしは先輩に相談したいんです」 「相談?」  それは予想外だった。いや、正確には、最初に予想から外した申し出だった。 (読めない、な)  内心、軽く舌打ちする。この少女はどうやらただ生真面目で自分の正しさを疑わないタイプではない。下手に即断するとかえって判断を誤る。 「俺に、相談することなんてあるのかな」 「昨日できました。今でも、考えています。先輩がこの『相談事』をすべき人物かどうか。―ひとつ訊いていいですか」 「うん?」 「櫻井先輩と、長谷川先輩は、お付き合いしている関係なんでしょうか」  苦手な質問―である。明瞭に答えられない。本心をこんなところで明かしたくないという思いが先になる。ただ、それを表に見せれば、相手はどう反応するか。それが分からない。 「それが。君の相談に関係あるの?」 「あると思います。先輩はひとつ、長谷川先輩の為に行動しています。それがただのボランティアなのか、それ以上の感情の表れなのか、できればきちんと確認してから先を進めたいのです」 「……」 「―長谷川先輩のことがただ気の毒だったということなら、これ以上お話することはありません。」  いちいち妙に理屈っぽい。嫌がらせなのか。  そう思いながら賢八は静香の表情を見ていたが、―どうもそうではないらしい。彼女は本当に(、、、)真顔だった。なんというか、人の大切な気持ちを理屈で考え、配慮し、尊重しようとしているかのようだ。  モノの意味は分からなくとも、価値は分かる人間。  どこかの本で読んだ一説を、彼はふと思い出した。この少女は他人が大事だと思うものが何であるかをきちんと知ってはいるが、それをどう扱うべきなのかをまるで知らない。狡猾に見えて無垢なのだ。 「答えられませんか。確かに繊細(デリケート)な問題だとは思うのですけど、これ以上回りくどく言うと訳が分からないでしょうし」  本当に気遣っているのだ。ただその気の遣い方が的はずれに思えて、賢八は少し可笑しくなった。この少女に対して、初めて親しみを覚えた。 「どうか、しましたか」 「いや。―他言無用、だろうね。この話」 「もちろん」  賢八は端的に自分が長谷川 遥佳に抱いている感情を静香に伝えた。  静香は小さく息をついて頷いた。何回か目を瞬きさせて。 「率直なお返事、ありがとうございます。―最初からそう訊ねればよろしかったでしょうか」  傍らに戻った空がくすりと笑った。その空をちらりと横目で見て、静香の眉が不機嫌さを顕わにした角度を作る。ほんの一瞬のことだ。 「それでは単刀直入にいきます」  今までの淀みを振り払うかのように、静香は極めて事務的な口調と手振りを見せた。指は、机上のコピーを指し示している。 「これは?」 「先輩が消してくれと言って来られた掲示板の、投稿ログ……記録ですね。時間と、端末の識別番号が残るんです」 「記録? そんなもの、残してたのか」 「いざという時には、必要でしょうから。発言者を特定する工夫は」  確かに犯罪に関する情報……ではある。噂とはいえ、今が『いざという時』というのは賢八も同感だ。ただ、 「前に話をした時には、こんな記録のことは聞かなかったけど」 「はい。特に訊かれませんでしたから」  すまし顔で静香は返してきた。やはり、食えない少女である。しかしだんだんと賢八はこの手強さに興味を感じている。 「そうだったね。―で、今になって俺にそれを見せようという気になったのは、俺自信がこの記録に何か絡んでるとでも?」 「直接は無関係だと、わたしは思っています。関係している、と疑わしいのは先輩のお知り合いです」  一足飛びの会話にこの少女は平然と追随する。傍らの空が二人を見比べて困惑している。本来ならばもう少し段階を追うべき展開のはずだったが、静香の思わぬ反応に賢八はそれをも忘れた。 「……なんだって?」 「状況証拠だけですけど。続けさせてもらいますね。―もうひとつ、これが図書室の利用IDの利用時間記録です。こちらは利用者が自分のIDを入力します。貸出や返却情報と連動していますから。正規のシステムですね。―で、あの掲示板の投稿をしている端末識別の利用時間と、図書室の利用IDの利用時間が重なる人が居たんです。投稿時間から推測するに、HH……さんが、事件に遭ったということをあげつらう内容です」  賢八は、すぐに言葉を返せなかった。二つの記録は、それぞれだけでは掲示板の個人を特定できない。だのに、その二つを重ね合わせた結果、偶然―だ、……ろうか。特定できてしまったのだ。遥佳に対して強い悪意を投げかけている『犯人』を。   「不注意……なのか、あまりこうした機械に詳しくないか。まだ本人から話を尋(き)いていませんので分かりません」 「そいつは一体、誰なんだ」  賢八は詰め寄った。到底分かるはずもないと思っていた悪意の源泉が、思わぬ形で明らかになろうとしている。突き止めたところでどうなるのか。―幾度となく考えては打ち消してきた感情が、勢いを増して不意に賢八の中に戻ってきた。  鹿島 静香は賢八を見据えて落ち着き払った口調で告げる。 「先輩。決していい話じゃないんですよ」 「分かってるよ。いい話な訳ない」 「そのIDは、長谷川 遥佳(、、、 、、)さんのものでした」 「長谷川!?」  あまりにも意外な回答に、またしても賢八は絶句した。そんな馬鹿な話があるか。何故なら、彼女は― 「……HHって、違った―のか? はせがわさんじゃあ……」 「いえ。間違いないと思います」  淡々と答える鹿島 静香の声が、残酷に賢八を追い詰める。一体、何がどうなってこんな矛盾が生じるというのだろう。何よりも噂になることを恐れ嫌うはずの、当人が―? 「つまり。自作自演ではないか、というのがわたしたちの見解です」 「そんな馬鹿な。何でそんなこと、する必要があるんだ」  険しい表情で食って掛かる賢八を、相手は幾分悲しげな目をして見据えた。冷静な―というより、観察しているかのようだ。他人の苦悩や感情の機微を。  その冷静さが、今の賢八には腹立たしかった。 「それを確かめたいんです」  その苛立ちにお構いなく、少女は告げた。 「え?」 「状況証拠からすると、長谷川先輩の挙動不審は明らかです。あとは、確認だけなんです。わたしたちはご本人からお話を聞かせてもらおうと思っています」  確かに、そうだろう。本人から話を聞くのが一番早い。遥佳は今はごく自然に学校に通っているし、聞き出せないということはない。―しかし。 「いや。待ってくれ。……どうやって、聞くつもりだ」  心の中に生じた不快感と苛立ちは消えないまま、彼は相手の言葉に慎重に思考を進めた。考えない訳にはいかなかった。やりようによっては遥佳をこれ以上苦しめることになる。  そう訊ねられると、今度は静香がやや困惑した。 「どうやってと言われても。確認したいのはふたつのことだけですから。『あなたがやったことなのか』『なぜ、そんなことを』と」  それを聞いて賢八は何かを言いかけたが、改めて静香を見据え、視線を低く彷徨わせてから再び口を開いた。 「つまり―それを俺に訊けるか、と。そういうことか」  一足飛びに結論した賢八の言葉に、静香は眉を開いて頷く。 「こちらからはなかなか言い出しにくいことをご理解いただけて助かります。やっぱり、こういうことは他人からは訊ねにくいことですので」  俺も他人だ―と、賢八は思った。遥佳のことを知り尽くしているはずもない。知りたい、分かりたいという気持ちはあるが、実際はまだとても遠い存在に感じる。  だが、その前に。もうひとつ、賢八は確認しておきたいことがあった。 「それだけ―なのかな」 「はい?」 「言い出しにくいこと、と君は言った。でもそれは、長谷川さんに対してじゃない(、、、、、、、、、、、、、)だろ」  賢八に対して言い出しにくいことを、わざわざこの少女は必要としたのだ。それが遥佳に対する配慮だとは、彼には思えなかった。親しい間柄であればこんなことはなおさらに訊きづらい。 「……」 「俺を指名したのは、自分たちでは聞き出せない何かがあるんじゃないかと、そう―いうことじゃないのかな」 「そうです。お気づきになられた以上、隠し立てはしません。―別に隠していたい訳でもありませんから」  観念したのか、それとも最初から織り込み済みだったのか。思った以上に簡単に彼女は認めた。  話し始めると少女は淀みがなかった。 「長谷川先輩の自作自演の目的について、わたしたちはある推理をしています」 「心当たりがあるっていうのか」 「心当たりというものでもないですが。―櫻井先輩。既に充分に噂にもなっていますが、この一連の事件、校内に共犯者が居るというのはご存じですか」 「噂なら聞いてる。そうじゃないかとも思ったけど。―断定で耳にしたのは、初めてだな」  軽い衝撃を感じずには居られない。この二人は事件の真相にどこまで近いのだろう。 「無差別じゃないんです。狙いをつけた生徒の行動が一番危険な頃合い―何かの活動で遅くなったりした時を狙っています。手口は、こうです。夕闇の中、後ろからつけまわす。生徒は危険を感じます。ここ最近の事件がありますし。で、逃げるんです。それが犯人たちの狙いなんですね。―笠原神社のあたりで、もっと多くの人数が待ち構えていて、捕まえる。そんな具合です」 「ど、どうして君はそんなことまで知ってる」 「わたしたちも狙われましたから」  あくまでも落ち着いて静香は答えた。―まるで、賢八の狼狽えぶりを愉しむかのように。 「……何だって?」 「だけど何とか逃げられました。相手の思惑の逆を行ったんです。そうでなかったらここでこうしていられたかも分かりません。―だからですね、先輩」  賢八に再び向けられた視線は、強く鋭かった。脆弱な対象ならばそれだけで射抜いてしまいそうなほどに。 「わたしたちにとっても、この事件は他人事じゃないんです。絶対に赦せません」  賢八は無論犯人ではないが、まっすぐにそう言われて落ち着かなかった。無理矢理に話を元に戻してみる。 「―で、それと長谷川さんの自作自演がどう関わるんだ」 「共犯者が一番疑われない立場って、何だと思いますか」  鹿島 静香のその表現に、賢八は表情を変えた。 「本気で言ってるのか。君は!」 「少なくとも冗談ではないです。可能性は、ありますから」  平然と言ってのける。その様子に賢八はかっとしたが、声を荒げるのはかろうじて押し止めた。  つまりーこの少女はこう言っているのだ。  長谷川 遥佳はこの事件の共犯者である可能性がある、と。 「被害者は確かに一番加害者からは遠い位置にいる。疑われないのは当然だ」 「そうですね。疑いたくはないですが、自作自演はそれを装う為の狂言に見えます」  否定、できない。理詰めで考えればその擬態に意味があるはずで、それによる利益があるとすればそれは彼女の言うとおりで、被害者を装いそれを隠れ蓑にするというのはもっともらしく見える。  否定しうるとすれば賢八が縋(すが)るのはこの感情だけだ。 「だけど長谷川さんは、そんなことをする人間じゃない」  それだけは信じたかった。それを信じるに足るいくつもの言葉を交わしてきた。仕草を、表情を見てきた。それが欺瞞と虚構の産物であったとは、どうしても思えなかった。  その非論理的な抵抗に、静香は小さく口許を綻(ほころ)ばせた。まるでそれを期待していたかのように。 「だからこそ、櫻井先輩にお任せしようと思ったんです。この事件の真相、きっと長谷川先輩がどれだけ本当のことを話してくれるかにかかっていますから」 「……」  賢八が無言で再び目を伏せたのを見ながら、少女は続ける。 「長谷川先輩―櫻井先輩に対してなら、嘘は吐きませんよね」  そうだろうか。  思ったものの、口にはできなかった。口にするのが怖かった。彼自身も想う相手からの嘘は望んでいない。しかし今度の件は、事実であったとしてもお互いが嘘にしてしまいたいことだった。  何もなかったことにすればいい。それに気づいていないそぶりで過ごせばいい。  だが―この少女、鹿島 静香がこちらを見ている。その目は何もかも見透かしているかのようだ。  賢八は、それでも真相を求める人間だった。  彼女は、遥佳が賢八には嘘をつかないという事に期待したのではなく、むしろ、賢八が嘘をつけさせない点を見込んだのだろう。  彼は大きく息をついた。面白くない話の展開だった。やんわりと退路を断たれて追い込まれているようでもある。  だからといって、この状況で、ただそれだけの理由で、相手の求めを拒める訳ではなかった。何よりも賢八は事実が知りたくなった。知れば二人の不幸はより深まるのかもしれないが、しかしそれでも。彼は本当の遥佳を知りたかった。 「そのコピー、もらえるのかな」  それは静香の求めに応じる―ということだ。 「どうぞ。これ、最初から差し上げるつもりでしたので」  相変わらずすらすらと彼女は答える。全て予想通り、ということなのか。  賢八が記録の数字やIDに目を通している間に、静香は続けた。 「この件ですけど、なるべく早く済ませていただけませんか。時間が経てば経つほど次の事件の可能性が高まります」 「君は本当に疑ってるんだな。大丈夫、それはないよ」  目を合わせずに賢八はぶっきらぼうに返す。 「誰が犯人か共犯かは関係ありません。捕まってない以上、別の事件の可能性は高まるんです」  その通りだった。賢八もそれにはすぐに気づいたが、今この相手にはどうしても素直に謝罪する気になれなかった。曖昧に頷き、資料の意味を改めて咀嚼してから、その紙片越しに視線を投げかける。 「君たちもその―事件に遭った、と言ってたね」 「はい」 「その時のこと、もう少し詳しく聞かせてもらえないか」 「……」  相手の硬質な無言に拒絶の空気を感じ取ったのか、彼は付け加えた。 「長谷川さんから聞く話と突き合わせたいんだ。この事件、犯人が同じなら手口もきっと同じだろうから」  できれば聞きたくもない話だが、遥佳の話を聞く以上何度聞いても同じである。そう割り切ることにした。その上で、こうした言いづらいことを訊かれて彼女がどうするか。やや意地の悪い興味も加わって彼はそれを求めた。  静香は、憮然として鼻で息をついた。 「分かりました。ただし、絶対に他言無用でお願いします。理由はお分かりですね?」  挑むような口調に、賢八も真っ向から頷いた。―たぶん、ここで彼女の望む回答が賢八から出せなければ、それでこの件は終わりだ。そう感じた。 「犯行の手口は被害者と加害者しか知らない情報だ。犯人を特定するのにこれ以上確かなものはない」  である以上、無闇に口外すべきではなかった。これは、彼女たちにしてみれば数少ない手がかりなのだ。味わいたくもない思いをして得ることになったものだが、手元にあるものならばせいぜい有効に活用すべきだ。  相手は、その極めて実利的な回答に頷いた。 「その通りです。―正確には、犯人たちと、被害者と、共犯者。長谷川先輩の投稿は今の所そのどれかの可能性があることを示しています」  いずれにしても嫌な可能性だった。そのいずれにも当て嵌まらない可能性というのは残っていないのだろうか。そう思わずにはいられない。  身勝手な感傷である。全て起こってしまった後のことだった。賢八は目を閉じて自らに言い聞かせる。  今はただ真相を探り、これ以上の不幸を食い止めるしか、ない。 「わたしたちが巻き込まれたのは、今から二週間ほど前のことです。既に二度ほど事件は起きていて、帰りが遅くなりがちだったわたしたちはいつも二人以上で帰るようにし始めていました」  整然と静香は語り始めた。途中、傍らの有栖川 空に顔を向けて小さく頷きあいながら。  二人ともが、同じ事件に遭ったのか。そう思った。  そして賢八は、陰鬱な事件の未遂の顛末を、淡々として正確な表現で全て聞くことになった。      3. 「どしたの? 突然固まっちゃって」 「あ」  焦点が合うと、やや不機嫌さを加えて怪訝そうにこちらを見上げる晶の顔があった。  似ている、と思う。あの鹿島 静香に。言葉が明瞭で躊躇いがなく、積極的を通り越して攻撃的ですらある。その精神が表情に表れるのか、まっすぐにこちらを見据えた彼女は精悍とさえ形容し得た。 「えっと―いや、なんでもない。ちょっと、思い出した」  曖昧に返事をしながら思う。つまり、喪うものがあることを恐れない、というのだろうか。晶を見ているとそう思う。挫折らしい挫折を味わうこともなく、願えば多くのものを自ら得ることができる。賢八にも、そうした時期はあった。それがだんだんと簡単にはいかなくなって、他人のことは読み取るだけでなく察しなければならないことも知った。それが分かると、自分が正しいなら相手が悪い、ということにはならなくなる。  晶や静香を見ていると、自分よりもよほど上手く処世してはいるものの、どこか周囲を責めている気がするのだった。  晶の場合には、今まで接した時間が多大な分だけ、その傲慢さは純粋さに置換され、多少なりとも愛おしく感じる。 「なんかキモイ。目が泳いでて」  ……こんな言葉も飛び出してくるが、そういう時には無言で少女の額を指で弾いてみたりする。 「いたた」 「そうだ晶。ちょっと訊いてみていいか。お前も一応女の子な訳だし」 「むかー。喧嘩売っといて何訊こうってのよヘンタイ」 「女の子が嘘をつくのは、どんな時なんだろう」 「はあ!?」  露骨に怪訝そうな顔で返され、賢八は続けにくくなった。 「例えばだなあ、絶対に知られたくない相手に何か秘密を知られてしまった時とか、どんな嘘をつくだろ」 「そんな秘密知らないって言う」 「証拠があったら、どうする。疑う余地なしだったら?」 「んーー。証拠まで掴まれたんじゃあしょうがないね。正直に話す」 「ほんとかよお前」  ずいぶんとあっさりとした切り替えに、賢八も呆れたような声音になる。 「正直に話すんだけど、理由で嘘ついとく」 「なに?」 「しょうがないじゃん、バレちゃったんだから。だけど理由なんてどうとでも付けられるよ。そこで適当に理由つけて許してもらっちゃう」 「……」 「よく『あなたの為なのよ』って言うじゃない? お母さんなんか。相手の為に良かれと思ってやったことにしちゃうとけっこう許してもらえちゃうよね」  つまり―  行為については証拠を提示することができるが、理由については何も示すことはできない。本人にしか分からないし、ひょっとしたら本人にだって分からない場合だってあるかもしれない。  この場合、もっともらしいことを言われれば―聞いた人間は、納得してしまうか。  そして納得できれば、騙されたという負の感情も和らいで、許してしまえるか。 「お前―そんな風に考えるのか。すごいな」 「しょうがないじゃん、うまくやんなきゃいけないんだしさあ。つかなきゃいけない嘘くらいどうやったってあるってば。きっとみんなそうだよ。嘘は良くないって正直になりすぎて、うまくいかなかったら馬鹿みたい」 「なるほど、なあ」  幾分引きつった笑みを口の端に見せつつ、彼はそれしか返しようがなかった。 「それより何? 今の意味深な質問て、つまり賢ちゃんとその彼女の間でまさに起こってることだったりする?」  もの凄い勢いで直球が帰ってきた。勘の良い晶ならばなくもない話だ。 「うん、まあ、そうかもしれない」 「何よー歯切れ悪い」 「他に言いようがないだろ」  ついでにそのへんの空気も察してくれと暗に賢八は言っていた。それぐらいは晶も簡単に理解するはずだった。 「ちぇーっ。せっかく真面目に答えてあげたのに」  あれが真面目なのか、と思わず賢八は失笑する。しかし悟られまいと口許をすぐにまっすぐにした。 「確かにな。嘘も、バレなきゃ嘘じゃないんだよな」  分かっていたつもりのことだったが、晶から簡単にそう言われてしまうのが少し悲しい。賢八の口からはその感慨が漏れた。 「……そ。別にほんとのことがいつも大事って訳じゃないし」  賢八の声音から言いたいことは伝わったが、ここで自分を騙してまで賢八の気を晴らしてやれるほど晶は大人ではなかった。幾分躊躇いがちな口調で、そう言った。  先刻と一転して、しんみりと空気が沈む。雨足は、少し強まったようだ。  嘘、か。  つまりは虚構だ。しかし現実と虚構の差異というのは、実は極めて曖昧なものなのかもしれない。信じてしまえばそれが現実だ。誰かが嘘と暴き立てない限りは。  遥佳を取り巻く状況はまさに虚構が現実として受け入れられている。そして、虚構の作り手は―彼女自身である、らしい。  憶測を重ねても何も分からない。そんな想像は、賢八にとって別の現実を創り上げてしまう。遥佳のことについては、そんな揺らぎを何度も迎えている。それが賢八を不安にさせ、遥佳という『分からなくなった存在』に怯えを感じた。かつ、賢八はその怯え自体を強く否定し拒絶している。この矛盾。二律背反(アンヴィヴァレンツ)。  やはり話さなければならないか。  このまま『何もなかったことにする』のは、それほど難しいことではない。このまま遥佳と距離を少しずつ置いていけば、たぶん、出会う前と変わらない状態になる。 (違う)  賢八は小さく首を振った。そうではない。変わらない状態、ではない。  ここまでの事実を知ってしまった以上、賢八自身が変容している。シュレジェンガーの猫は遥佳のことではなかった。賢八自身のことだったのだ。  自分自身の不安定さに、賢八は耐えられそうになかった。  だから―どのような結末であれ、知りたいのだ。真相を。 「あ。そうだ、賢ちゃん」 「ん?」  賢八は振り返らず、気のなさそうな返事をする。再び机に向かい始めてから小一時間過ぎていた。いつまでも晶の相手をしている訳にもいかず、適当に雑誌や漫画をそばに置いて彼は勉強を続けている。 「笠原神社のことだったら、『憩』のマスターに訊いてみたら?」 「なんだ? どうしてあのおっさんがそこで出てくるんだ」  これまた唐突である。そして髭を蓄えた沈鬱そうな顔を思い出した。およそ近辺に顔が利く人間―とは思えない。悪人ではないとは思うのだが、話しかけるのも億劫な人物だ。 「うん。今マンガで巫女さん出てきて思い出した」  と、少女は前置きして続ける。「巫女さんの写真、あったんだよね。マスターのいっつも座ってるトコに」 「それ、別に笠原神社とは限らないんじゃないか?」  意外にも巫女マニアというやつかもしれない。……自分で言っておいてかなり想像に無理があったが。 「んー。まあ分かんないけど。でもあの写真、今思うと確かに催し物の前か後だったんだよね、きっと。集合写真みたいだったしなあ」 「だからって、笠原神社のこととは言い切れないじゃんか」 「そうだけど! なんか食いつき悪いなあ。せっかく人が情報(ネタ)提供してんのにさあ?」  あまりに煮え切らない賢八に晶が逆ギレする。本人はこれでも真面目だったのだ。  賢八は徒労感が滲み出している溜め息をついた。 「あのさあ、そんな情報じゃ俺の手間が増えるだけなんだよ。正直そこまで手が回んないって」  受験勉強もさることながら遥佳のことが常に頭の片隅にあって、それが離れない。どう訊ねるかと話の展開を幾筋も予想しつつそれに答えたりしている。頭の中で。  そんな中、不確かな情報で無愛想な憩の店主に(相手にとっては)意味不明な質問を重ねる気にはなれないのだった。確かな情報だったとしても躊躇いがある相手だ。 「じゃあ訊いてきてあげるから。ほれ」 「ほれ?」  振り返ると晶が布団から手を出して賢八につきつけている。手のひらには何も載っていない。…―つまり賢八に何か載せて欲しい訳だ。 「出来高払いだ。ほんとに役に立ちそうな情報だったら喜んで払わせてもらう」 「ふーん。いいのー? 高くなるけど」  そう凄まれると少しは心が揺らいだが、『高くなる』といっても多寡が知れていると思った。交渉次第だろうと割り切って、 「いいよ。晶が頑張ってくれるんならちゃんと払うから」 「分かった。後悔しないでよね。ひひ」  布団の縁で口許を隠しつつ晶はそう答えた。…実は絶大な自信があるのか。少し嫌な予感がするものの、中学生の少女に手玉に取られるのも面白くないので賢八は無視した。とりあえず、晶がその気になっているのだから任せておこうと思った。  ふと思い起こして賢八は椅子ごと身体の向きを変える。 「だけど時間は気をつけろよ。何が起こるか分からないんだ。今の―神楽山は」 「うん大丈夫。暗くならないうちに済ませちゃうから」  なおさら賢八は不安になった。晶は確かに芯はしっかりしている。迂闊な言動で危機を招くことはない―とは思うのだが、今回の事件は賢八にとって気味が悪いほど身近になっている。  晶が巻き込まれない保証など、どこを探してもないのだ。 「そんなに心配? だったら一緒に来てくれたらいいのに」  よほど深刻な表情をしていたのだろう。それを見て晶が冗談とも本気ともつかぬ声音で言う。 「うん―そうだなあ、そうだ、姉貴はどうかな。どうせ暇だろうから」 「八尋さんだって女じゃん。かえって危ないよ」 「まああの人が危ないのはいつものことだからなあ。いろんな意味で」 「そうよおお。あたし魔性のオンナだから」  唐突にその姉の声がして、賢八は全身をびくりと震わせた。どこから聞いていたのだろう。 「ヒマヒマってあんたも失礼ねえ。あんたが思ってるほど暇じゃないのよあたしだって。時間の融通は利くけどね」  ものは言いよう―だ。しかしこの際なのでその融通(、、)に期待したい所である。 「あ、うん。その、融通が利くって言いたかったんだよ」 「いいわよそんな取って付けたように言い訳しなくたって。―で? あたしに何をさせようっての?」  簡単に事情を説明すると、彼女は首を傾げた。 「ふうん。あたしが聞いたフォーチュン・ツリーの場所を知ってるって訳ね。その神社の巫女さんが」 「知ってるとは思うんだけどね。旧い話だし有名でもないから記録がどこまで残ってるか分からないけど」 「記録も何も、話聞いた方が早いでしょ。どうしてあんたはそうやってモノから当たろうとすんのかねえ」  呆れたように八尋は言う。  その傾向は―確かに否定できない。初対面の人間には話しかけにくかった。一から説明するのは面倒だし、そんなことを訊ねるのは相手の邪魔にしかならないのではないか。などといろいろ考えてしまう。  ただ、今回の場合はそう決めつけられるのは不本意だった。 「だってさ。もう十年以上昔の話だろ? 訊いたって覚えてるかどうかが怪しいよ。一週間前の夕飯に何食べたかなんて覚えてないじゃんか」 「ん? んーと、うーーーん」 「いや別に今思い出さなくてもいいんだって。―そんなもんなんだから、聞いたからって簡単に答えられることじゃないと思うんだ」 「ま、いいわよそのへんは。その巫女さん何処に居るの?」  さらに神楽山の喫茶店のことを話す。だんだんと面倒くさそうな顔をし始めていた八尋だったが、晶が訪ねることにした点と、最近の事件のくだりで眉のあたりに幾分真剣さが戻ってきた。 「晶ちゃんわざわざそんなことするんだ」 「ええっと、まあ」 「こいつマスターには免疫あるんだよ。不思議なことに」  あれほど人付き合いの悪い人間もそうそう居ない。しかし晶は普通に会話をする。らしい。らしい、というのは、結局賢八は二人が会話している姿を見たことがないからだった。憩の主人とのやりとりは全て伝聞調である。賢八は、一度として主人が声を発するのを聞いたことがないのだった。 「じゃあつまりあたしは晶ちゃんのお供って訳?」 「大人の見識で晶の保護者になって欲しい訳」  すかさず賢八は言い直した。その小気味よさを八尋は気に入ったらしい。 「んー。まあ神楽山でお茶すると思えば融通の範囲内ではあるわねえ。都心と逆ってのがマイナスだけど」  などと難癖をつけながらも了承した。 「でも、最近危ないんですよ。神楽山」  晶は、一応事件のことを喚起しようとする。 「だったらなおさら晶ちゃん一人って訳にはいかないでしょ。それにそういう心配はあたしの役目だから」  晶に対しては八尋は優しかった。―二人ともこれだけ素直でいてくれたら。賢八だって二人に優しくできそうな気がするのだが。 「で? 経費一切はあんた持ちなんでしょうねえ?」  ……正直、それくらいの費用は自己解決して欲しい気がした。とはいえここでごねて気持ちを削ぐのも得策ではない。  アルカイックな微笑で賢八は頷き、ひとまずこの問題を二人に委ねることにしたのだった。彼自身は、緻密に、幾重にも考えを巡らせつつ―明日のことを考えている。      4. 「あっ、久しぶり! 櫻井君」  大階段の踊り場、玄関とは反対の方向へ伸びる廊下の傍らで「さりげなく」賢八と長谷川 遥佳は再会した。 「うん」  こうして実際に顔を合わせてみると、不穏な噂や不審な掲示板の書き込みなど想像もつかない。基本的に彼女は快活で、その裏や影があることなど思わせもしないのだ。賢八が最初に淡く心惹かれるようになったのも、遥佳のこうした陽気さを傍らで感じてのことだ。 「最近ちょっと疎遠だったんじゃない? 忙しい?」  たかだか一週間ほどの空白を『疎遠』などと表現するのが独特である。ひょっとすると賢八を真似てみたのかもしれない。 「うん。―あの、さ。長谷川さん」 「なあに?」 「話があるんだ。ちょっと、いいかな」 「それなら道すがらってやつでどう?」  道すがら、という表現に賢八は一瞬微笑する。覚えたての単語をはしゃいで使っているような、そんな感じだ。 「いや」  そうした面白味ひとつひとつを、賢八はそっと封じていかなければならない。 「大事な話なんだ。場所を変えよう」  それを聞くと彼女は幾分ぎこちなく頷いた。大事な話、といっても、あまりよくない話であろうことは賢八の表情や声音から察したのかもしれない。 「そう? ……大事な、話」  二人はそのまま玄関とは別の方向の廊下を抜けて渡り廊下に出た。日差しは弱々しい。風も冷たい。冬の夕暮れ前、校舎の影が景色を色濃く変えつつあった。  肩をすぼめて別の建物の中に入る。図書館の一階にある、資料室。普段人気がほとんどない空間だった。 「ここ、あったかいね。日差しがこんなに入って」  薄いカーテン越しに斜光が大きく入り込んでいた。資料室としてはあまり適した環境ではないな、と思う。ざっと見た所退色を懸念するような資料は表に出してはいないようだったが。  ただ―冬の日差しが。風の鎖されたこの空間では、カーテンの色合いと相まって柔らかく暖かく遥佳を包み込み、鮮やかに描き出している。彼女は普段と変わらずにこやかに微笑っていた。その表情には何の曇りもない。 (嘘だな)  全身で賢八はそれを感じ取っている。そして、理屈ではなく理解した。彼女が、噂されているような苛酷な目に遭っていない。そんなことは、有り得るはずもない。そんな理不尽に蹂躙された娘が、そう日も経っていないうちから、こんな表情になれるはずもない。  だが―彼が本題に入った時、さすがにその微笑は消えた。 「そっか。―知られちゃったんだ。掲示板、見たの?」  賢八が頷く。遥佳はくるりと背を向けた。長い髪が揺れて芳香が微かに広がる。 「それを、確かめる為に?」 「いや」  そんな不毛なことを確認したいのではない。彼は即答した。 「俺が知りたいのは、本当のことだよ。掲示板の内容なんかどうでもいい」 「話せっていうの? 何があったのか。私の口から」  強い拒絶を感じる。それ以上強いれば相手の気持ちは完全に賢八から離れるだろう。  一瞬言い淀んで、彼はこう続けていた。 「は、長谷川さんっ」 「な、何?」 「俺は! ―君が、掲示板に書かれてるような目に遭ってないと思ってる」  何度か目を瞬かせて、彼女は、微妙な笑みを口許に見せた。 「……なのに、ほんとのことを知りたいっていうの?」 「だからさ。そんな目に遭ってない長谷川さんが、何でそんな噂になってるのかが知りたい」  抽象的な会話が徐々に形を得ると、自然語尾にも力が増す。そんな短い応酬が遥佳の表情を変えた。 「あの日の夜、何があったっていうんだ」 「悪いけど櫻井君。私の口からそれを言うことは絶対にないから」 「……」  遥佳は―まっすぐに賢八を見つめて、睨むようでもある。 「幻滅する? 私はこんな女なの。だから、誰から何を言われたって仕方ないと思ってる」  そしてふっと、表情が軟らかく変わっ…た。 「こんなの、都合良すぎるね。―ごめんね? 私、結構勝手なんだ。前に付き合ってた子ともそれで終わっちゃったし」  そんなことは、別にどうでもよかった。ただ、それも掲示板にはあった。同じ場所に書かれていた情報がひとつ正しかったことに、賢八は少し揺れた。 「今日、どうする? もうここで別れちゃおうか?」  うまく思考がまとまらないうちに、遥佳がそう言葉を重ねる。  気拙(まず)くなったのは確かだった。一緒に居るだけで空気が重くなる。賢八の顔色からそう察したのか、それともこれ以上の追及を避けたいのか。  別れる、という言葉がとても寂しく感じた。今日だけでなく、この先も別れたままになってしまうのではないか。そんな気がした。 「いや。危ないから、一緒に帰ろう」  気持ちの整理は付かなかったが、それを理由で遥佳と距離を置いてしまうほど賢八は子供では無くなっていた。  それが意外だったのか、遥佳もまた少しぎこちなく頷いた。彼女もまた、多少なりとも分かったつもりになっていた少年の、別の一面を見た思いだった。  ―とはいえ、その想いだけでは間というものが保たない。二人は会話もなく神楽山の細い山道を下ったが、お互いに気まずさがあった。 「そういえば、例の樹なんだけどさ」  賢八が思いついたのもとにかく『例の樹』―縁結びの樹、だった。実際の所縁結びなどどうでもよいほどに事態は暗く重いのだが、今、遥佳との間で軽めの話題を選ぶとすると、このあたりがてっとり早かった。  賢八が説明し、遥佳は随分と熱心に聞いた。やはり―縋(すが)りたいのだろうか。ふとそんなことを彼は思うのだが、一方で、そんな暗い切実さを遥佳からは感じ取ることができない。 「アカメガシワ、ねえ。何だか呪文みたい」 「漢字で書くと『赤い芽の柏』、だからね。別に変じゃなくなる」 「で、笠原神社に……」  遥佳は言葉を止めて空を見上げた。既に夕闇が空を圧し始めている。その空が伝える刻限と、自らの思惑を胸の中で量っていた。何やら考えている様子である。 「どうかした?」 「うん。―ちょっと、寄ってみる?」  丁度下りの石段の少し先に、脇から小径が結びつく場所に至ろうとしていたのだ。その小径の先は、笠原神社である。  賢八の表情が曇った。なるべく暗い表情になるまいと努めてきたが、とっさにそれを忘れた。その場所は、 「私は平気。―あのね、そんな、気遣わなくっていいから」  殊更に遥佳が明るく言う。その場所というのは、少なくとも掲示板の噂では、彼女自身が事件に遭遇した場所、だった。 「ごめん」  上手く言えない。何も言えない。彼にはやっと、それだけしか言えなかった。あまりにも芸のない言葉が口惜しかった。 「いいのよ。―優しいよね、櫻井君。私が何て言われてるのか知ってて、私だって櫻井君に全部話せてないのに、ずっとこうしてそばに居てくれるんだもん」  それしかできないのだ。賢八は相手に何を言ったらいいのか分からなかった。どう励ませばよいのか、どう忘れさせればよいのか、まるで分からなかった。きっと遥佳の気持ちすら理解していない。理解しようとすればするほど何も出来なくなる。だから、そのことには触れることも避けて、ただそばに居た。  歯がゆかった。遥佳に失望されても仕方がなかった。  くるりと背を向けると、彼女は躊躇う様子もなく神社への路を選んだ。賢八が陥った思考の迷宮はたちどころに霧散し、彼は後を追った。どういうつもりなのかは分からないが、とにかく、彼女を独りにするのが一番良くない。  そろそろ街灯だって寒々と白い明かりを点け始めるだろう。そんな風に空を見上げた時だった。  賢八は遥佳の腰にぶつかって前のめりになった。眼前の遥佳が、背を屈めて路の傍らの樹に身を寄せたのだ。 「っっ、ととっ」 「しっ、静かに」  幾分吃驚した様子で遥佳は振り返ったが、半ば賢八にのしかかられているのを気に留めず彼に注意を促す。 「え? どうしたの突然」 「ほら、前、前」  さらに遥佳は背を屈め、賢八はそのまま上体を前に伸ばした。まるで、遥佳を体育の時の跳び箱のようにして手を付いている格好になった。 「あの建物の前。誰か居るでしょ」  遥佳が賢八の重みを苦にした様子もなく囁く。…後になってみて賢八は少々情けなくなった。結局、自分は遥佳にとって「異性」でも「同性」でもなく、別の生物のように思われているのではないか。普通、そんな格好をこんな場所で許容する女子は居ない。  ともあれ―状況は、遥佳の言う通りだった。  しかも奇妙な取り合わせである。少女と、女と、男。それだけ――いや、黒い制服も見えた。あれは神楽山の黒だ。  その一群がこぢんまりとした建物の前に立っている。制服を着た少女が、戸口で身を屈めているのが見える。この神社の、関係者なのか。  残りの人物は一体……。 「何してるのかしら。あそこ、開けられるってことは神社の中の人?」 「そうだろうね」 「でもこんな時間に何の用があるのかしら」 「うーん。まあ、事情があるんだよ。きっと」  ここで遥佳がむっとして賢八を振り返った。あまりにも熱のない回答を「やる気のなさ」と受け取ったらしい。 「何だからしくないわねえ。いつもならちょっと違った見方の言葉がありそうなもんなのに」 「え? いや、まあ」 「だいたいあの奇妙な組み合わせの連中が、ただの用事で神社を開けてると思うの?」 「いや。えーと、まあ、たぶん何かを調べてるんだと思うね」 「何を調べてると思う?」 「しっ、静かに。相手に聞こえるよ」  賢八としてはここに留まることすら避けたい心境だったが、遥佳は動こうとしない。挙動不審な四人組を木陰からじっと見つめている。  しばらく考えて、賢八は嘆息と同時に結論した。この状況で遥佳が何かに疑念を抱くことは、遥佳自身を危険にする。少なくとも自分は、遥佳に対して隠し事はやめようと思った。 「あの四人はね」 「え?」 「たぶん、『アカメガシワの樹』を探してるんだ。笠原神社に縁のある人間が見つかったからこうして訪ねて来た」  遥佳は、ゆっくりと賢八を振り返り――今度は賢八を恐れるように樹に背中を張り付けた。 「どうして」と、低く呟く。「どうして、櫻井君がそんなことまで知ってるの?」 「それはね」  賢八が一歩近づくと、遥佳は上半身を木の幹から離して強ばった顔をまっすぐに賢八に向けた。  ―まるで猫の威嚇だな、と思った。  数日前に姉と会話をした「シュレディンガー」をふと思い出していた。 「あの四人のうち、三人(、、)は俺の知ってる人だ」 「……え?」  遥佳は不意に告げられたその言葉の意味を計りかねている。賢八はその傍らを通り過ぎて神社の建物―彼ら四人の背後へ歩み寄っていた。言葉を重ねるよりは、行動の方が早い。  女性が真っ先に振り返った。賢八が知っている人物のうちの一人、だ。 「あら。今帰り?」 「まあね」  そのやりとりに他の三人も賢八に気づき、それぞれに身体の向きを変えた。賢八は夕闇の中で三人の顔を一瞥する。  やはり、知らない顔はひとつだけだった。 「姉貴たちこそ。思ったよりも随分と早い到達じゃないのかな」  笠原神社。あるとすれば、この小さな社の中に『フォーチュン・ツリー』の手掛かりが―。 「まあ、ね。訊いてみたらとんとん拍子だったし。まあそんなもんでしょ」 「さ、櫻井君!」  遥佳が駆けつけて来た。「一体どういうこと? 知ってるって―」 「うん。昨日、晶―って、この娘なんだけど、それと姉貴と話をしててね」 「あたしは八尋。あなた遥佳ちゃんよね? よろしく」 「割り込むなって。―それでこの神社のことを知ってるらしい人が居るって話になってさ、とりあえず当たってもらってたんだ。でも昨日の今日でここに辿り着いたんだから」  賢八はさらに晶と八尋の奥に位置する二人を見た。一人は男性である。 「当然ながら、この人は喫茶『憩』のマスター」  大柄で、髭を蓄えてひたすらに寡黙。賢八を一瞥するとすぐに視線を建物の方へと向けた。 「そして君がアカメガシワを移す神事を執り行った巫女―」  神楽山の黒。その制服を着ている少女は、傍らの憩の主人と異なりくるりと賢八たちの方へ身体を向けた。 「違いますよ。あたしそんなトシじゃないです」 「分かってる。神事が行われたのはン十年も昔のことだ」  ただ、ちょうどこれくらいの歳の巫女だったのではないか、と、彼は思っていた。確証などない。ただ、生徒たちが運動を起こして救おうとした樹をもっともらしく儀式で行ったとなれば、そんな芝居がかったことに手を貸すのはやはり生徒だったのではないか、と。ふと、感じたのだ。 「ただここの神社のことを知っているんだから、血縁か何かはありそうだね」 「それは正解です」 「そのあたりの詳しい経緯を、知りたかったんだ」  賢八は改めてその少女を見た。何ら珍しい要素などない。髪を後ろで括っている、普通に見かけそうな神楽山の女子生徒だ。異質なのはそこではない。  彼女は、建物の中から取りだしたのであろう、古びた帳面を抱え込んでいた。  核心に近づいてきた予感のようなものを、彼は感じていた。