『山上 薫子(かおるこ)』と、その少女は快活に名乗った。 「山上家(うち)はあの神社の氏子(うじこ)なんです。神事があればお手伝いもしますし、普段は掃除や修繕の手配とか、まあ雑多なこともいろいろ」  ここで声を一段落として言う。 「めんどくさいですけどね。でもまあ、しょうがないみたいです。しょうがないって言ったらまた怒られちゃいますけど」  場所を『憩』の店内へと移し、盆に載ったカップをテーブルに並べつつ彼女は通路の向こうを気にしていた。その視線の先ではレジの傍らのカウンターに無口な主人が居座っていて、珈琲ポットを磨き上げている。聞こえているはずはない、が。彼女の怯え方と店主の静かな迫力からすると、何があっても不思議はない、気もした。 「マスター…は、お兄さん、かな」  賢八も心なしか声を小さくして訊ねた。 「ああいえ、あの人は叔父です、はい。このお店、最初は祖父の道楽だったんですけど。生徒さんに馴染まれちゃって畳みづらくなってたもんだから、叔父がそのまま継いじゃったんです」  なるほど、道楽か。改めて賢八はこの店内を見渡した。なんというか、この隠れ家的な狭さと暖色系の色合いに拘った明かりは妙に人を落ち着かせる何かがあった。この閉塞感が厭だ、という話も耳にしたことがあるが、 「状況を整理したいんだけど、どうして、姉貴や晶と君たちは一緒に神社に居たんだろ」 「何言ってんのお兄ちゃん。自分はそんなヒマないからってあたしたちに頼んだの、自分じゃない」  晶は素早く切り返した。薫子が答えるよりも的確な状況説明ではあったろう。 「いや、まあ、そうだけど。昨日の今日だったからさ、早いなあと思って」 「時間かけたってしょうがないでしょ。あたしたちがやったのって、ここに来て、マスターに神社のこと訊いただけよ? で、もごもごしゃべっててよく分かんなかったから何度か訊き返してるうちに、この、薫子ちゃんが」 「たまたま来てたあたしがそれを聞いちゃったんですよ。実際すごい大声だったし」  盗み聞きという訳でもなかった、ということか。苛立つ姉の様子が用意に脳裏に浮かんで、賢八は恥ずかしくなった。ただ、今回はそのキャラクターでもやもやとして掴めなかった神社の輪郭をはっきりさせたのだ。  感謝しなければならないのだろうか。素直にはそう思えなかったが。 「何だか申し訳ないね。ひとんちの都合だってあるだろうに根掘り葉掘り聞き出しちゃって」  賢八は薫子に謝っていた。尋ねるにしても、そんな大人げないことを姉が率先することはなかった。それはむしろ晶に対する密かな期待であったのに。完全に役割が入れ替わっている。 「いや、いいんです。だいたい別に隠すようなことでも何でもないのに、しゃべりたがらない叔父の方にもちょっと問題ありですよ。一応客商売なんですからここ」  この娘は叔父とは正反対に実によく口が動くようである。 「まあ、訊きたいのは神社そのものじゃなくて、その神事?神楽山の、縁結びの樹? を、移動させた時のことなんだけど」 「そうですねえ。そうしたことがあったらしい、というのは聞いたことあります。姉から」 「君は覚えてないの?」 「だって十何年も前の話ですよねえ? 記憶にないですよ」  薫子は指折り数えて正確な年数を言い直そうとしていたが、それが八尋には少し気に障ったらしい。彼女は幾分上擦った声で、 「まあねえ。あたしも高校通ってた頃に流行ったことのある話だしい、旧いっちゃ旧いわよねえ。はあ」  最後は溜め息になった。それを横目で一瞥して、 「じゃあその神事のこと知ってる人って、居ないのかな」  弟は冷静に訊いた。やはりこの姉弟も正反対である。 「そうですねえ。神事のことならそこそこ記憶に残ってる人は多いと思うんですよ。でも、今となっちゃ植え替えた先までしっかり覚えてる人が居るかどうか」 「そんなに分かりにくい場所に植え替えたの?」 「だって森の中に樹を植えたのよ? よく言うじゃない『木の葉を隠すのなら木の葉の中へ』って」  晶の素朴な問いに、さらに率直に薫子は返していた。「それにちゃんとした神事って訳じゃなかったし」 「…え?」  初耳だった。そんな大事なことを、ずいぶんとあっさりと彼女は言い切っていた。 「だって高校の一本の樹じゃないですか。いくら縁結びにご利益があったか知りませんけど、そういうのよくある話でしょう? わざわざ神主様を呼ぶのも何なんで、氏子が取り仕切ったんです。というか姉、ですが」 「…ちょっと待って」  今まで黙って話を聞いていた遥佳が、控えめに声を上げた。 「笠原神社って、神主が居ないの?」 「居ますけど、こんな小さなお社に付きっきりな訳ないですってば」  悪気がある訳ではなく、薫子はそう言って笑った。「だから氏子も神事を仕切ることがあるんです。やっちゃいけない訳じゃないんですよ、きちんと丸く収まってれば」 「丸く収まる?」 「まあ、頼む人からすればこれって代打ですもん。代役に祀られたり祓われたりしたってご利益(りやく)疑わしいですもんねえ。だから普通は神主様のご予定も考えて日取りを決めるんですけど」 「なるほど。そりゃま、そうだわね」  分かりやすい話に八尋が頷く。賢八は、目を伏せて考えに耽(ふけ)った。  あの樹?は、その扱いについて新校舎着工寸前まで揉めていたらしい。この際代打でも構わない、ということになったのか。 「ですからまあ、神事の仕切りは叔母がやったんじゃないかなって。そのへんはこれに書いてあるんじゃないかなって思ったので」 「それであの時、みんなそこに居たのか」 「はい。で、これからそれを読んでみるって訳です」  何だか楽しそうである。「ワクワクしますよねえ。なんて書いてあるのかあたしも知らないんで」  薫子は古びた帳面を開き―そしてしばらくそれに見入っていたが、すぐにその目には失意が現れた。 「これただの祝詞だなあ」 「のりと?」 「お祈りの言葉ですね。たぶん、この神事の時に使ったんだと思うんですけど」  そう言ってから薫子は姿勢を正し、伏し目がちに帳面を見ながら声を改めた。  コレノカムトコニマス カケマクモカシコキニ アマテラスオオミカミ   アメノイタダキヨリミマシテ   ヒイフウミイヨウイツ ヒイフウミイヨウイツ  ヒイフウミイヨウイツ ヒイフウミイヨウイツ    オンミノコト カシコミカシコミテ オウツシタテマツリ  モロモロノコヒコト ナサセタマヘトマホスコトヲ キコシメセトカシコミカシコミモウス  場が静まった。今まで騒がしいほどにおしゃべりだった薫子が豹変したかに見えた。 「んー。何か、分かるような分かんないようなでたらめのような…。叔母さん何考えてんだろ」  その薫子が一転して元の声で呟くのを見て、一同それぞれに気分を削がれたようである。 「ちょ、薫子ちゃん。今の呪文は何?」 「呪文じゃなくて祝詞(のりと)、ですってば。まあおまじないに聞こえなくもないですけど、一応これは神様へのお願いの言葉です。ざっくりと今風に言えば」  薫子はさすがに心得ているらしく、さらにすらすらと『翻訳』した。  この神床にいらっしゃる尊き方に 天照大神 あめのいただきよりみまして  一ニ三四五 一ニ三四五 一ニ三四五 一ニ三四五  尊き御身をお移し奉ります  諸事恋事 叶えてくださいますよう 謹んでお願い申し上げます 「……とまあ、普通に言えばこんな感じだと思うんですけど」 「なんか、普通よね。『御身にはお移り頂きますが、恋のこと諸々は成就させてくださいますようお願いします』。そのまんまじゃない」 「別にそのまんまじゃいけないってことないですからね」  八尋と薫子は既に意気投合しているようだった。この二人、確かに同じ波長を感じる。 「って、そりゃ四捨五入し過ぎだよ。こういう時こそ本意にない文字や文脈を当たるべきなんだ」  賢八は異議を唱えたが、それだけでは話が前には進まない。 「気になるんならはっきりそう言いなさい。分かったような分かんないようなこと言っちゃって」 「たとえばさ。アマテラスが何だって突然こんな所に出てくるの?」 「天照大御神は神様の中でも一番偉い人なので、けっこう普通に祝詞にも出てくるんですよ。家内安全のお祈りにだって登場します」 「え」  その程度の言葉、なのか。この神事は縁結びの樹を神に見立てて行われたはずなのに、別の神が現れていることが彼には気になったのだ。ただ、祝詞などというものとは普段縁遠いので、薫子に断言されると自説にも拘れなくなる。 「……それじゃあ、あの」  今度は遥佳が控え目に声を上げた。 「この『ひいふうみいよういつ』ってのはどういう意味? なんか四回も繰り返してるし」 「それはほんとの呪(まじな)いです。意味について研究してる人はたくさん居ますし、いろんな解釈があるので何とも言えません。中には天照大神がお隠れになった時に使われた、ってのもありますからやっぱり関係ない訳じゃないんですね」 「はー……」  ここまで来ると薫子の独壇場である。およそ普通の人間の知っている内容ではない。ただ、この陽気な少女がそうしたことを語るのはやはり違和感があった。 「じゃあ結局分からないんだ。その樹がどこに移されたのかは」 「どこにも書かれていないですね。もう少し記録みたいな書き方してると思ったんだけどなあ」  賢八は頭を抱えて下を向いた。  また行き詰まってしまったのだ。次は何を辿っていけばいいだろう。人にあたり、場所を調べ、記録に縋った。記録にすら記されていなかった。また別の方向から探ってみるか。しかし、次はどこを掘り下げればよいか。  弟の様子に小さく苦微笑を口許に見せて、八尋は薫子に訊いた。 「薫子ちゃんのその叔母さん、今はどうしてるの?」  賢八が顔を上げる。当然ながら、記録には記録した人間が居る。旧い話といっても何十年も前のことではない。話が聞ければそれが一番早い。 「それがですねえ」訊かれた少女は苦々しく浮かない表情(かお)をした。「大学に行って、就職したはずなんですけど、その後はなかなか帰って来ないんですよ。もう何年も会ったこともないです」 「なんだ。それじゃうちとおんなじ?」  突き刺さるような姉の視線に、賢八はわざとらしく咳払いをして言葉を止めた。「じゃあやっぱり、直接話を聞くのは難しそうなんだね。他に立ち会った人って誰なんだろう」 「んー。叔父は確かに立ち会ってたハズですけど、さっき覚えてないって言ってましたしねえ。他かあ……」  薫子は両手を頭の後ろに回して椅子を傾けた。すぐに心当たりが見つかるようではなさそうだった。考えているようで、それを面倒がっているようにも見える。 「いや、別に無理に考えなくてもいいよ。何か分かったらまた教えてよ」  賢八がそう言うと、何やら重荷から解放されたように薫子は表情を明るくした。本当に分かりやすい少女だった。 「はい! 櫻井さんて何組ですか? あたし二年E組ですから、また何かあったら訊いてください」  生徒同士で互いのクラスを教え合って、ふと時計を見上げる。それほど遅くはなっていないが、気をつけねばならない時間帯になりかけていた。 「そろそろ帰るけど、山上さんは?」 「あたしんちはすぐ近くなんで、心配しなくて平気っす。皆さんの方こそ心配です。大丈夫すか先輩、男一人で護りきれます?」 「そんな目に遭わないようにさっさと帰るんだよ。?晶、帰るぞ。何見てんだよ」  冗談に対して生真面目に返事をして、賢八は傍らの晶に声をかけた、  晶は、薫子が手放していた旧い帳面の見開きをじっと見入っていた。例の祝詞が記されている頁だ。 「んー? んん」  気のない返事で答えている。そんなに気になることでも書いてあるのかと賢八が覗き込もうとした時に晶は頭を上げた。 「いてえっ」 「痛っっっ」  晶の頭頂部と賢八の顎が互いを直撃。二人は飛び退くように距離を作ると互いに痛む箇所を必死にさすった。 「もうっ! 何でそんなに顔近づけてんのよ馬鹿! いったぁ……」 「お前がのんびりしてるからだろ! それに不用意過ぎるんだよ。もう少し周りを見て動けって」 「あーはいはい。二人とも悪い。二人とも悪い」  両脇に賢八と晶の頭を抱えるようにして八尋は席を立った。こうした仲裁は彼女の得意なやり方だった。人前であるせいもあって、二人はすぐに大人しくなった。八尋はそのままカウンターへと歩いて行った。賢八と晶は、頭を抱きかかえられたまま歩かざるを得なかった。  遥佳がその様子を見てにこりとした。それは、彼女には、とても暖かいものに思えた。  そんな些末なことが、この姉弟に心を許し始める契機(きっかけ)となった。 「なかなか面白い娘だわねえ。遥佳ちゃん」 「そうかな」  電車の外から小さく手を振る遥佳を笑顔でやり過ごしてから、八尋は賢八に感想を伝えた。  姉の『面白い』は油断がならない。賞賛なのか皮肉なのか。だから、弟は慎重になった。本意が分かるまでは曖昧に答える。そういう癖がついていた。 「だって『額にネコの話』なんか面白すぎじゃない。あんたのあの時のおデコ、やっと理解できたわ」 「やめてよ。その話は」 「あー確かに。あれ遥佳さんの仕業だったんだね」  晶もまた楽しそうにくすくすと笑った。  笑えないのは本人だけだろう。賢八はそのことを思い出すと今でも恥ずかしさのあまりに憂鬱になる。落書きをされていたのにまるで気づかず、放課後間際になるまで周囲が何故自分を笑うのか訝しく思っていたのだ。まさか高校も三年にもなって、そんな悪戯をされているとは思いもよらなかった。  理由を尋ねると実に他愛もない。 「逃げた飼い犬が戻ってきた時、喜んだものの犬の額にはマジックで『ネコ』と書いてあった。最初はおかしくて笑ったが、後でだんだん腹が立った。違うし」  同じなら良かったのか? そういう問題なのか? と突っ込む箇所がズレている所が面白いエピソードだ。実話かどうかは知らない。…しかし遥佳はそれをどこかで見聞きしたら、試したくなったという。手近な所で落書きをしても大人しそうな犬など居るはずもないので、昼休みに机に突っ伏して寝ていた賢八の額に落書きをした。  結局そのエピソードと同じ面白さは感じなかったらしい(自分で落書きしたのだから当然とも言える)。ただまあ、気づかずに寝ている様子が面白かったのでそのままにしておいたのだそうな。しかもその日は卒業写真の写真を撮るべく写真部が周辺をうろうろとしていて、知らぬまま賢八は遥佳に前髪を上げさせられて『記念撮影』していた。その時は何の意味があるのかよく分からなかった。唐突に遥佳にのし掛かられてどぎまぎした事の方が印象に残った。  アルバムには使わないでくれと懇請したものの、きっと使われるのだろう。賢八は既に諦めている。 「あ。そうそう賢ちゃん。はい」  思い出したように晶が手のひらを差し出した。半ば分かっていたが、賢八はとぼけた。 「運命線がねじれてるなあ、お前」 「とぼけるんならもう少し面白いこと言ってよ」  こうした勘の良さは晶の方がはるかに上らしい。賢八の抵抗を簡単に一蹴して、斬り込む。「払うって言ってくれたじゃん。約束は守って欲しいな」 「それならお前、俺がこう言ったことも忘れてないだろ」 「なによ」 「『出来高払い』。話は聞けたけど、結局樹がどこにあるのか分かんなかっただろ」  賢八から言わせれば、情報としての価値が乏しい以上報酬など支払えるはずもなかった。せいぜいが必要経費?喫茶店での飲食代と、この電車賃くらいだ。 「えええーーーー。そんなこと言ったらさあ、なんか、ムダ骨じゃん」 「そうだよ。商売ってのはそんなに簡単じゃないんだ。人から聞いた話をそのまんま売り物にしたって値打ちは多寡がしれてる」  小生意気な中学生に教訓を垂れても反撥しか生まない。ただ、晶はさらに抜け目がない、とも言えた。ふてくされ気味に頬を膨らませていたが、次に発せられた声は怒声ではなかった。 「じゃあさ。?賢ちゃんも考えてたんだ。そのまんま(、、、、、)じゃダメだって」 「……。お前、何か気づいたな?」 「ん? んーん、別に何でも」 「ごまかすなよ」  じろりと、賢八は少女を牽制した。少女は目を逸らした。 「そのまんまじゃダメっていうのは、別の解釈が要るってことだろう。お前、あの帳面で他に気づいたことがあるんじゃないのか」  晶は答えない。ということは的を射ているのか。となれば、今たたみかけておかなければごまかされてしまう。晶の不器用さ、器用さを、さすがに彼は知っている。 「他に、何か書いてあったのか?」 「ううん。そんなことないよ。ただ」 「ただ?」 「んー。…別に」  開き直ってとぼけているようにしか見えなかった。賢八はやや口調を荒げる。 「何だよ。どうしても話さないつもりか?」 「だあってさあ。今話しちゃったらやっぱり『そのまんま』じゃん」 「え?」 「『人から聞いた話そのまんま』じゃダメなんでしょ?」 「そういうつもりで言ったんじゃないよ。意味がない四方山(よもやま)話じゃダメなんだ。でも、たとえば別の見方があったりとか、そういうのがあるなら別だよ。また『違う話』だ」  その賢八の言い方に、晶はまた少し考え込んだ。 「ていうか。お前が何考えてんのかが気になる。これってクイズやパズルじゃないんだぞ」 「なあによ。急に人をコドモ扱いして」 「馬鹿。神楽山では、実際に事件が起きてるんだ!」  子供扱いしていたらそんな心配は逆にそれほどしていない。むしろ晶の子供っぽい抵抗に賢八はつい声を荒げた。あまり大きな声ではなかったが、この時間に都心に向かう電車の僅かな乗客がこちらを一瞥した。 「まあまあ。晶ちゃんの言うことも分かるでしょ、賢」  八尋がわざと明るい調子で宥め、賢八は押し黙る。こんな時は何を言っても通じないだろう。ただ、晶が何かを考えている。それが気になる。  ちらりと、八尋をはさんで晶の方をみやった。少女は目を閉じて何も言わなくなっていた。 「賢。あんたも随分突っ掛かるじゃないのよ」 「俺?」  不本意だといわんばかりの口調で賢八は反応した。 「そうよ。聞いてるとさ、あんたこそ何か思うところがあるんじゃないかって、そう感じるわよ」  晶が片眼を小さく明けたのを彼は見逃さなかった。?そうか。こちらから振ってみるというのも策(て)か。求めるだけでは不公平(アンフェア)に感じるのも分からないでもない。賢八はそんなつもりは毛頭なかったが、晶には、賢八が一方的に話を訊きだそうとするそのことが狡く思えたのかもしれない。  とはいえ上手くいくだろうか。彼の推論が、晶も感じ取っている違和感に通じるものがあればよいのだが……。 「俺のは、願望だ。というよりも妄想だ。だからそれを裏付ける材料が欲しかったんだ」  鼻で大きく息をつくと、賢八はそう前置きしてその内容を語り始める。 「あの祈祷文、実は暗号なんじゃないかって」 「あー。そりゃ、あんた。妄想だわ」  無味乾燥に八尋が審判を下す。 「だからそう言ってるじゃない! ……いやなんかさあ、意味があるようでないような、あってるようで間違ってるような、そんな感じの文だったからさ」 「そうは聞こえなかったけどね。薫子ちゃんの翻訳だと」 「そこさ」  賢八は即座に姉を遮った。これ以上姉の調子に合わせてはロクなことがない。「あの子―薫子さんはああした文章に慣れてるから僕らに分かりやすい風に説明してくれたんだろうと思う。意味の伝わらない部分は、端折(はしょ)ったんだ」 「ほお」  先刻までの自信のなさが消えた弟の言葉に、八尋は少し感心した。やはり何かしら根拠はあったようだ。 「なんて言ってたっけなあ? アマテラスが『あめのいただきよりみまして』イチニイサンシ、ゴ。これが四回だっけ? でもって御身を移すってやつ」 「覚えてないわよそんなの。まあそんな感じだったかしらね」 「あの数字がね。…『なんとか家の儀典書』に似てる感じがしてね」 「それは何よ」 「ホームズだよ。シャーロック・ホームズ。大昔から伝わる成人式の儀式の書の文章が、太陽の位置と樹の影が示す場所から、方角と歩数を示してたって話なんだ。暗号だったんだよ、それ」  彼は熱心なホームズ読者ではないが、宝探しのようなその挿話は印象に残っていた。それと妙に重なるのだ。  アマテラスは、要は日輪、太陽である。  そして樹が出てくる。そして、数字も出てくるのだ。  重ならないのは? 「影、だね」 「影」 「うん。影の示す場所と方位が重要なポイントだったんだ。今度の場合で考えてみると」  影が、縁結びの樹―赤芽柏(アカメガシワ)の上に来た時の影の位置と長さか。 「そう考えるとさ、あの呪文みたいな祈祷文、神木を太陽が照らしてイチニ、サンシ、ゴかける四の場所に移すってことになるのかなあとか。そういうことを考えてみた」 「ふううん。しっかしまあ、あんた。いっつも人の話聞きながらそんなこと考える訳?」  感心する、を通り越して呆れたように八尋は訊いた。 「違うよ! 思いついた。話してたらさ。でも、これは案外いいかもしれない」  頭の中でもやもやとしていたものが、説明しているうちに輪郭を帯びた。その興奮に彼の声は幾分弾んだ。 「でもさあ? 『イチニ、サンシ、ゴかける四の場所』ってどこよ」 「だから影の指し示す場所と方角へ二十歩ってとこじゃないかな」 「じゃあ『影の指し示す場所と方角』ってのが結局分かんないじゃないの」  それは―  …その通り、だ。  賢八の昂揚はすぐにしぼんだ。姉はこれでもかといわんばかりに現実を突きつける。わざとだと思うのだが、だんだんと腹が立ってくる。思いつきだろうが何だろうが、もっともらしい評論よりも考えて話す方がよほど大変なのだ。  反論しようとした時、車内に降車駅が近づいている音声が響いた。  大きく伸びをして、明るく八尋が告げる。 「ま。話としちゃ、けっこうおもしろいわよ」  …結局得られたのは、姉のそんな論評だった。晶はさほど興味も示さず、浮かない顔で姉の後ろを付いて席を離れる。  駅名を示す表示の蛍光灯が弱々しく明滅していた。      5.  影…。  ここにきて理科や数学の知識を活用するとは思ってもみなかった。ただ、それらを用いるにはいくつかの前提が必要だ。まず、時間。その儀式がいつ行われたのかが分かれば、影が指し示す方位は分かる。  もう一つは、アカメガシワの高さだ。確かホームズ譚では長さが分かっている竿とその影の長さを計算しておき、過去に存在していた樹の高さを元に『実在していない樹』の影の長さを算出した。  『実在していない樹』。  まさにアカメガシワのことだ。などと想像する。  とはいえ、ただの想像である。それを裏付けしてくれるような都合のよい事実はない。  明日、薫子に会って帳面を見させてもらおうと思った。薫子は言わなかったが、ひょっとしたら儀式の日時が記されていたかもしれない。日時が分かれば彼は持論を確かめることだってできるのだ。 「賢。開けるわよ」  言いながら八尋が賢八の部屋の襖を開けた。今更姉に『配慮』というものを求めるつもりもなく、賢八は顔を向ける。 「あの娘(こ)―よね。賢が言ってた、例の事件に遭ったっての」  賢八の顔がこわばる。彼女としてはそれで充分に回答になった。 「ふうん。……そう、なのよね。んー……」 「何。どうしてそんな思わせぶりな言い方になるの?」  訪ねて来たかと思えばいきなりそのような態度である。気にならないはずはない。 「ええ」  八尋の表情も心なしか冴えない。もっともそれは暗がりに立っているからかもしれない。賢八は机の上のスタンドだけに灯りを点けていた。これはいつものことだ。 「あの娘、事件には遭ってないんじゃない?」  珍しく躊躇った上で、それでも八尋は告げた。 「どうして」 「陰(、)がなさすぎるのよねえ。こんな言い方で通じるかどうか分からないけど」  通じない。ただ、姉は真面目に語っているようだった。となればその真意を察することはできる。つまり― (心因的な外傷(トラウマ)に起因する言動が、見受けられない……ということか)  聞きかじった程度のキーワードで賢八は解釈する。姉も同様だろう。それを口にするのを躊躇ったのは、自らが専門家ではないことを知っているからだ。解釈を学術的な論語で説明することは、周囲に対する説得力は増すかもしれないが、被害者の心情を理解する為には何ら役には立たない。むしろ第三者が賢しらげにそうしたことを論じるのは、知識と理解とを混同する忌むべき行動のように思えた。二人とも、心理療養士ではない。それを指向している訳でもない。だからこそ、 「陰がない」  という表現で遥佳の状態を共有できるのならば、それ以上の言葉は不要だった。 「まあ、なんとなく、姉貴が言いたいことは、分かるよ」  賢八はそう結論した。確かに遥佳には異性に対する極度の警戒心は感じられない。  ただ、それを伝えると、八尋は片頬にえくぼを作って返した。 「そりゃああんた、オトコじゃなくて『イヌ』なんだもの。遥佳ちゃんには受け容れやすかったんじゃないの」  例の挿話(エピソード)を基にやり込められる。賢八は露骨に厭そうな顔をした。 「まそれはそれとしてね―あたしには、あの娘が事件の被害者だなんて到底信じられない。わざとそう言ってるんじゃないかなあって、そんな気がしたのよ」  それは鹿島 静香が指摘した可能性だった。彼女も、そのような感じ方をしたのだろうか。 (だとしたら、何故なんだろう)  そんな目に遭ったと周囲に思わせることが、彼女にとってどのような利益をもたらすのか。それが賢八には分からなかった。この点についても鹿島 静香はひとつの示唆を賢八に示していたが、それについては彼は完全に否定している。ただこれは感じるというよりは信じているからであって、それだけではあの鋭い少女―静香を、納得させることなどできない。 (この際、可能性さえ示せればいい。遥佳の自作自演についての理由を)  それを検証するのは自分でなくてもいい。相手がそれなりに納得できる理由を出せれば、あの得体の知れぬ情報収集能力を持つ少女のことだから自分で調べ上げるだろう。 「ああ、それとね、賢。晶ちゃんのこと、少し気を付けなさい。あの子はあの子であんたの役に立ちたいのよ」 「そうかな。……自分の利口さを見せたいだけじゃないかって思えるけど」  それは別に構わない。晶の利発さは賢八も認めている。自分よりもよほど器用で、ただ賢いというよりも、その使い方を知っている。  それを一番よく理解している賢八に対して、殊更にひけらかそうと振る舞う。彼にはそれが少々気に障った。  それを聞くと八尋は少し間を置いて返した。 「それっておんなじことを別の見方してるだけだって、あんたは自分で気づかない訳?」 「いいよ別に。姉貴と俺じゃどうやったって見方は変わるよ。それこそ例のネコの話じゃないか」  観察することは対象に影響を与える―のである。何も量子の世界に限られたことではない。人間の心理状態なんて、そんなものばかりだ。 「じゃあ、あたしも別の言い方をするわね。―もうちょっとだけ大人になんなさい。なんてあたしが言うとあんたは馬鹿にしてかかるだろうけど。晶ちゃんは別にあんたからお金が欲しくてあんな絡み方してるんじゃないわよ。あんたがほんとに晶ちゃんのこと、心配してるんなら。まずはあの子の言うこときちんと聞いてあげなさい。意地を張るのは子供のやること。負けてあげることができるのが大人。あんた、一応晶ちゃんよりは年上なんでしょう。同じケンカの仕方をしてどうするの」  一気にまくしたてられる。しかもいちいち正論なのが意外だ。何年もまともに話をしたことはなかったが、空白の年数で、姉は姉なりに大人になっていた。 「なーんて言っても、まあ、そう簡単に聞き入れられるもんじゃないわよね。まあいいわ、晶ちゃんのことはとりあえずあたしも注意しとくから」  賢八の不安定な心理状態すら見越したように姉は切り替えた声で簡単に言って、襖を閉めた。確かにここでじゅんじゅんと説教をされても賢八の気分が不快になるばかりである。ここまで見越されたこと自体、自分自身が単純な人間のようで腹立たしい。  ―結局、俺も子供なんだな。  自嘲気味に口許が歪む。無理に背伸びをして大人ぶるつもりはなかったが、世の中の仕組みや都合に合わせて生きてゆくのであれば、そうした忍耐や寛容は不可欠なものだ。姉や晶に対する接し方も、結局それと変わらない。  年下が居れば年上が居る。賢八は年下には大人びた対応をしなければならないし、年上には気に入られる態度を多少なりとも意識せねばならないのだ。  と、理屈では分かるが、そう簡単に気持ちは割り切れるものではない。  しばらくは参考書とノートに向かって没頭しているふりをしていたが、頭はどうしても別のことを考えてしまう。最近周辺で起こっている、様々なことを。  賢八はくしゃくしゃと自分の髪の毛を掻き回した。 (嗚呼。なんかもう、いちいち面倒だ。誰か代わってくれないかなあ)  安直な現実逃避を脳裏に叫びつつ、賢八はふと気づいた。誰だって、つらいことから逃れたい。  だがそれは、何も当事者だけが感じる思いではないということを。  その翌日。神楽山高校の昼休み、図書準備室。  二人の少女が年頃の娘たちらしくおしゃべりをしていた。 「それじゃあの人、この下の準備室で長谷川先輩と?」 「はい。お話を始めたまではよかったんですが」 「しくじったのね」  率直である。少女はたいした感慨もなくそう断じると、鼻で息をついた。 「まあもう少し時間がかかるんじゃないかしら。櫻井先輩、なかなか言い出せなさそうなのは見て分かるもの」 「それでも、いいんですか?」  いつも傍らに居る少女、空(そら)は相手の緩急の機微を理解しかねる時がある。あれだけ急いでいるように櫻井先輩には思わせておいて、何故悠長なのか。 「先輩が時間をかけることが、結局は近道なんじゃないかって思えるから。繊細な問題であることはわたしにも分かるわよ。―ただ、」  珍しく静かの口許の笑みは自嘲の成分を含んだ。 「わたしが分かるのは、ここまで。その意味までは分からないわ。―知りたくもない」  空の表情が、少し曇る。この、同性から見ても魅入ってしまいそうな少女は、自ら進んでそのようなことを口にすることで、自身が『繊細な問題』を抱えることを畏れているように感じた。 「櫻井先輩が途中(プロセス)で感情に流されるのは構わないのよ。わたしはそれを理解できているから。理解している以上、間違った方向にはわたしが流させない。だけど」  彼女自身が間違ってしまっては、誰が状況を適切に制することができるのか。  言外の意志を、空は感じ取っていた。それはきっと、他人がもしも耳にするようなことがあれば、限りなく倨傲に聞こえるかもしれない。だがこの少女は、誰よりも、どんな時であっても、自分自身を何かに委ねてしまうことを嫌った。 「んー。でも、その状況ってのがそこまでも進んでない感じしましたけど」  空が状況を再現しようと言葉を並べた直後に、大げさなノックが部屋に響いた。 「は、はい??」  空の素っ頓狂な声を合図にしたかのように、幾分大きな音を立てて扉は開く。 「君たちはいつも此処で作戦でも練ってるのか。そして他人のうわさ話をする」  賢八だった。面白くもなさそうな顔で、ゆっくりと二人に歩み寄って来る。 「えっ、あっ。いやっっ、あのっ」 「噂をすれば何とやら、ですね」  落ち着き払った声で、むしろ朗らかに静香は言った。少しも悪びれた様子もない。 「今丁度先輩のことを話していた所なんです。―聞きたいですか?」 「いいよ別に。本人が聞いて気分の良くなる話じゃなさそうだから」  静香との巧みな言葉の応酬を簡単に済ませると、賢八は二人の方へ近づく。空は、身構えたように姿勢を正した。静香は、―これから楽しいことでも起こるかのように微笑んで賢八を見上げていた。 「何か、変わったことでもありましたか」 「うん。―長谷川さんに対する君たちの疑いについて、だ」  一瞬、空が怪訝そうに眉根をひそめた。  そんなはずはない。昨日の図書準備室のやりとりからすると、この人が新たな事実に至るにはまだ時間がかかると見ていた。つい先刻も空と静香はそのように結論したばかりだ。  そんな空を静香は一瞥する。まるで嗜めるようでもあった。それを見て、空は慌てて開いている本に視線を落とした。彼女は、話を拾い集めることには長けていたが、駆け引きにはまるで適(む)かない人間だった。何もかもが簡単に表情に出てしまう。 「まあ、お座り下さい。たいしたおもてなしもできませんけど」  背もたれのない木製の椅子に、賢八は座った。どう切り出そうか、と考えながら。  考える間もなく、相手の方から訊いてきた。 「それで、長谷川先輩ですけど。櫻井先輩から尋ねたら何か答えてくれましたか」 「いや」  その問いかけには、そのようにしか答えられない。ただ不思議なもので、否定的な回答した時点で、それだけで賢八は相手に負い目を感じた。  それがこの少女の話術なのか―いや、考えすぎだろう。 「それなら、何か新しい情報でも見つけましたか?」 「いや、そういう訳でも」  賢八が視線を逸らすのを見て、静香は小さく嘆息する。 「では―ただの思いつきか何かですか」 「そうなるね」  事実その通りなのだ。逆にここまで言われてしまえば、むしろ話が早い。賢八は意を決して視線を上げた。 「思いつきだけど、そういう意味では君たちの説だってただの思いつきだろう。俺も長谷川さんとやりとりをしてるうちに、ひとつ思いついた。俺としちゃこっちの方がよっぽど有り得そうな話だ」 「話をすり替える必要はありませんよ」  つまらなそうに静香は肩口の髪を指先で払った。「わたしたちは状況証拠から仮説を立てたのです。根拠の乏しい思いつきのつもりはありません」  それは、その通りだろう。賢八は自分の過ちに気づいて気恥ずかしくなった。  が、鹿島 静香は彼が思ったよりも寛容さを見せた。 「ですからまあ、先輩の思いついたことをそのまま話してください。聞きますから」  これは―敵わないな、と賢八は負けを認めた。やはり心のどこかにこの少女と張り合う気持ちがあったのだろう。彼女は、どこか別格である。少なくとも状況を理解する能力や他人を説得する話術についてはまるで及ばない。  この際、逆に静香の聡明さに期待しよう。彼はかえって気を楽にして話し始めた。 「まず事実の確認として。―掲示板に例の事件の被害者についての書き込みがあった時刻と、書き込みがあった端末が特定できていて。その端末をその時間に使っていたのが、長谷川さんだった、という訳だけど」 「はい」 「その理由として、君たちは長谷川さんが―犯人、ないしは共犯として犯人と協力関係にあるのではないか、と疑った訳だ」 「補足しますけど」  静香は沈痛な表情になって賢八を見据えた。「わたしたちも好きこのんでそれを疑っている訳ではないんですよ。長谷川先輩が悪意を持って犯人に協力しているとも思っていません。―長谷川先輩が、犯人たちから強制されている可能性を一番懸念しています」 「……なるほど。その方が確かに、ありえそうだな。でも、」 「もちろんそんなことあって欲しくありません。ですから、先輩の話も聞かせていただきます。わたしたちの仮定を先輩は否定されるんでしょう?」  彼女もまた、自分の悪しき想像を否定したがっているのだ。  賢八はひとつ大きく息をついて、自分の考えを言った。 「もうひとつ可能性がある。―それは、長谷川さんが誰かの身代わりになろうとしている場合、だ」  言って、賢八は相手の反応を窺った。それなりに爆弾となりうる仮説だと思ったからだ。  静香は、無表情で何度か目を瞬きさせただけだった。ただ数瞬の沈黙が生じたのは、明敏な静香の思考も咄嗟に判断ができなかったか。  彼女は―ゆっくりと、彼女の認識を口にした。 「実際に被害にあったのは別人で、その人をかばうために、自分が被害にあった、と広めている訳ですか」 「そう。彼女なら大いにあり得るよ」 「となると―長谷川先輩、あの日はその誰かと一緒に帰ったということになるんですね」 「それは―どうかな。そこまでは断言できないんじゃないか」  それを聞くと静香は相手の迂遠さを馬鹿にするように小さく笑った。 「あの書き込み、ちゃんとお読みになってないんですね。被害に遭った状況がそれこそ克明に書かれてるんですよ。全て創作だとしたら、長谷川先輩は小説家にもなれます」  その可能性もあるのではないか―と言いかけて、改めて遥佳の文章能力を思い浮かべて、賢八は口を閉ざした。確かに可能性はゼロではないが、最優先で検討すべきものでもなさそうだった。 「つまり……自分自身も被害者になる直前で、何かしらの理由で難を逃れたのでしょうか。一人だけ」  賢八はそこまでは考えていなかったが、改めて静香に状況を整理されるとこれはこれで陰鬱な気分になった。被害に遭っていないとしても、遭う直前まで追い込まれていたとしたら。そして、自分一人だけ助かったとしたら。それこそ彼女にとっては、いや彼女だからこそ、かえって疵として深く遺るのではないか。  自責と後悔の念が思いあまって、自分自身を被害者に見立て上げることで、罪ほろぼしをしているつもりなのか。  そんなことをした所で、本当は誰も救われないのに。 「―否定、できませんね。その可能性も」  静香は賢八の『思いつき』を認めた。またひとつ厭な選択肢が増えたということだ。 「それで―先輩、どうしましょう。その仮説、ご自分でお確かめになるつもりですか」  彼女はそれでも淡泊だ。少なくとも賢八にはそうとしか見えない。彼は持論の可能性を思うだけで他のことなど考えられなくなっていたが、彼女はその先に簡単に進んでしまっている。 「いや―うん。それについては、君たちに相談したかった」  曖昧に賢八は言い、静香は解釈をする。 「ですね―やはりこうなると長谷川先輩にも直接は訊きづらいですか。可能性としては長谷川先輩の交流関係、特に事件があった日の動向が分かれば確実、ですね。―先輩、心当たりはないんですよね?」  賢八は―頷くしかなかった。実際、遥佳の友人関係を彼は知らない。そうした話をまだしたことがなかった。改めて思えばそうしたことすら知らないのは情けなかったが、虚勢を張っても仕方がない。 「じゃあ、その線はこちらで確認してみます。結果についてはまたお知らせしますから、先輩もまた何か気づいたことがあったら教えてください」  用件が流れるように済んでしまうと、賢八はふわりとした足取りで部屋を出た。この思いつきは、「遥佳が事件の被害者である」という説を否定するにはよかったが、結局の所、遥佳には何ら救いにならなかった。彼自身を多少気楽にするだけのものだ。  結局は、自分が早く楽になりたいだけじゃないか。  賢八は自分を責めた。そんなことをしても、それこそ何も変わりはしないのに。  深い溜め息の後、賢八は自分が今出たばかりの扉に目をやった。あの二人はまた相談をしているのだろう。二人を見ていると結局はこの事件は他人事なのではないかと思わずに居られない。 「さぞ冷たい女だと思ったでしょうね」  その言葉は、自嘲気味に響いた。賢八が出て行った扉を一瞥し、静香は両手の指を顎の下に組んでそう言った。 「いえ、別にそんなこと」 「櫻井先輩が、よ。あの人、結局は長谷川先輩が本当は無事だっていう保証だけが欲しかったのね。―そんなエゴにわざわざ付き合ってはいられないわ」  賢八が口にしなかった自責の念を、静香は完全に洞察し、かつ、そんな表現で空に解説した。そして自分の淡泊さについて理由を語っていた。  ただ―そのエゴは、理解できる。彼女は理解できないのではない。理解した上で、自分には必要がないものと判断している。かといって相手のそれを否定するつもりもなかったから、どうしても反応が無機質になる。 「空ちゃん」 「はい」 「長谷川先輩の友達って、たぶんそんなには多くないと思うんだけど、確認してもらえる? 空ちゃんならすぐでしょ」  長谷川 遥佳は学内の部活動や委員会活動に参加していない。個人主義の風が強い神楽山ではさほど珍しいことではなく、その場合学内の交友関係は限られたものになる。静香の推測は、そうした学内の常識に拠ったものである為に、空にも納得が行った。  ただ、疑問はあった。 「櫻井先輩の話にお付き合いするんですか」 「先刻(さっき)するって言っちゃったじゃない。先輩の動機は別にして、考察を進める価値はあると思うわよ」  実のところ長谷川 遥佳が事件の共犯という仮説は、調べれば調べるほど無理があるような気がしていた。日頃の素行やそれまでの噂、空が地道に拾い上げてきた話を重ね合わせていくと、事件に関わること自体が偶然の要素が強い。  手口からすると、この事件は計画的である。偶発的な要素が計画的な犯罪に能動的に関与しているとは、考えにくかった。結論を出せずにいたが、静香は既にそう考えていた。 「ただ単に別の新しい要素が増えただけかもしれないけどね。だけどまあ、わたしも考えが至らなかった線だったから。気になるのよ」  考えてみれば自分たちも複数人で連れ添って帰宅しようとした時に狙われたのだ。  長谷川 遥佳がひとりで帰ったという事実はどこにも表れていない。  一緒に帰った人間が、狙われて、襲われた―というのは、むしろ可能性が高いのではないか。 「ええとですね。まあ、調べてない訳じゃないんですが」  と、空はぱらぱらとノートを繰る。それを見ると静香は上機嫌になった。 「さすがねえ。調べは付いてる、と」 「いえ、ほんとかどうかはこれから確認が必要です。そこまで押さえておく必要あるかどうか分かりませんでしたし―」 「それは後でも全然構わないわよ。で、どうなの? 長谷川先輩のお知り合いって」 「掲示板の書き込みの検索だと、MSさんとかKMさん、ですね。仲の良い友達はそこそこ多い方ですけど、お昼が一緒になるのがのはこのお二人のようです」 「同学年でそのイニシャルに該当する女子はどれくらい?」 「はい。それがですね。……」  空が口ごもったのを見て、静香は怪訝そうに首を傾げる。 「なあに? そんなに言い出しにくい名前が出てくるの?」 「ええ、ずばり。―三人とも、二年生まで同じクラスだったんですよね。三年生になって文系理系で別れたんですけど、理系だったのは長谷川先輩だけで、他のお二人は文系。文化祭の時にクラスの代表になって、それが仲が良くなった契機(きっかけ)みたいです。中庭での熱気球」 「ああ。あれ、ね。あんまり思い出したくないなあ」  静香は露骨に厭な顔をした。こうした表情を見せるのはごく親しい間柄の人間に対してのみである。空は、たぶん一番多く静香の喜怒哀楽を受け取っている。  一年ほど前の二年D組の熱気球は気球部分がビニールのゴミ袋をつなぎ合わせたもので、とても大きなものだった。大きすぎてうまく熱した空気を入れることができず、暖める為の固形燃料の火が燃え移って大変なことになりかけた。 「―って、あれって、ちょっと待って。確かあの時の代表って」  それは彼女もよく知っている人だった。M・S。―確かに、そのイニシャル。 「はい。そういう訳です」  遠回しにその名前を喚起することができた空は、神妙に頷いた。静香は、今や真顔である。むしろ険しい表情になって視線は虚空を射抜いている。  まさか、ここに来てその名前、その人物が現れてくるなんて。  静香は額に手を押し当てた。様々な意味で、この線を追求するのは今度は彼女にとって躊躇いが大きかった。  しかし。その躊躇いを、彼女は溜息ひとつで脇へと押しやっていた。 「わたしが訊くわ。直接」 「いいんですか」 「訊くしかないんだから、仕方ないじゃない。訊いて事実を明らかにするか、訊かずに事実をうやむやにするか。そういう時にわたしがどちらを選ぶかなんて、空ちゃんにだって分かってるでしょ」  遥佳に対してことの真偽を確認すべき人物を賢八と見定めたように、彼女は、その相手―M・Sに事実を確認すべき人間が彼女自身であることを決めていた。 「まあ確かにこんなことは訊きづらいけど―訊けば、あの人からは必ず回答(こたえ)が出るんですもの」  静香の呟きは、彼女自身に言い聞かせる言葉のように、空には思えた。  …  一方の賢八は、脳裏に陰湿な黒い闇を抱えながら、おぼつかない足取りで渡り廊下へ出た。  冬の日差しは、柔らかかった。むしろ弱々しくさえあり、暖かさは冷たい風に掻き消されてしまう。  ただ、その日なたの光景が、これ以上賢八を落ち込ませるのをかろうじて押し留めた。 (……)  平凡なものだ。むしろ枯れ枝ばかりの樹々などは寒々しい。しかし今はこの陽光が救いだった。つい先刻まで、彼は、漆黒の闇を夢想していた。―その中を逃げまどう、遥佳と、別の女生徒のことを。  改めて冷静に振り返ると、自分は確かに軽率だったと思う。鹿島 静香は彼が考えた状況を誰よりも現実的に整理したに過ぎない。それが現実かどうかは、まだ分からない。ただ―、やはり、遥佳は、免罪符を手に入れたくて、自らを傷つけるような中傷を与えたのだと思う。それは、彼女にとっては、確かに『誰にも言えない秘密』だ。彼女は、自らを進んで辱めているのだから。そう考える方が、一連の遥佳の行動や素振りを説明しうる気がする。 (……。どちらにしても、度を超した不幸だ)  賢八は痛ましく思った。改めて何かしてやれることはないのか、と考えた。  ただ単に。それを受容することが彼には必要なのだろうか。それができれば、自分は遥佳にとって相応しい男と言えるのだろうか。  ひとつの正解、ではあるのだろう。触れずに済めばいい過去など、これから将来(さき)にもお互い幾らでも抱えてしまう。これはその最初の一つ、かもしれない。  ただ、どうせ受け容れるのであれば。 (ほんとうのことを知りたい)  そう思う自分が居るのもまた事実だった。この繰り返しである。むしろ彼女が内面に抱える闇が深く暗いのを知れば知るほどに、彼もまたそれを知りたくなった。ただの好奇心、ではない。  それを知ることが、彼女を、本当の独りぼっちにしない唯一の方法であることを、賢八は既に確信を持って感じている。 (その点については、期待できる……かな)  鹿島 静香のことだ。誰よりも現実指向の彼女は、どのような事実であっても必要であればそれを明らかにするのに躊躇いはないだろう。―もたらされる情報についての覚悟は、しなければならないだろうが。  ぼんやりと渡り廊下に座り込んでいた賢八は、気を取り直して立ち上がった。そしてまだ昼休みが残っているのを時計で確認すると、今度は二年生の教室へ向かった。昨日知り合ったばかりの少女に、確認したいことがあった。  薫子のクラスは二階の校舎の端にあったが、そこに彼女の姿はなかった。  入り口から教室へ入ろうとする女子にそれとなく彼女のことを尋ねると、「体育館じゃないですかね」と自信のなさそうな返事が返ってくる。  体育館は、上から見ると『コ』の字をしている神楽山の校舎からすると、向かい側の端に出入り口があった。面倒なので中庭の排水溝の金網を伝って近道をし、体育館への渡り廊下へ上がり込む。廊下が汚れるのであまりほめられた近道ではないが、三年近く此処に居ればこうした愛着の抱き方もある。金網を通るのは、上靴が少しでも汚れない為の配慮でもあった。  体育館ではいくつかの集団が思い思いにボールを使ったミニゲームに興じていたが、バレーのトスを続ける輪の一人に目当ての顔があった。そのゲームが途切れた間隙を狙って声をかける。 「あっっ、……櫻井さん。どうしたんですか急に」  薫子は大げさにも見える反応をした。昨日はああ言っていたものの、本当に尋ねてくるとは思わなかったのかもしれない。 「うん。気になることがあって。―ちょっとだけ、いいかな」 「は。い。……じゃ、じゃあ、ちょっとこっちへ行きましょう」  逃げるように彼女は近くの出入り口から体育館の外へ出た。後を追いかけながらふと振り返ると、ゲームを中断したままの薫子の友人たちが思い思いの視線をこちらに投げかけている。何だか妙な案配だった。 「いやーすみません。なんかガラにもなくよそよそしくって」  周囲に人気がなくなると、昨日のように薫子は快活になった。小声ではあるが。 「いや。なんか悪いことしたね。邪魔しちゃって」 「あーいやーそのー。邪魔というか、ですね」  彼女はさらに声を小さくして、ひそひそと賢八に告げた。 「あたしも含めてあの連中、『彼氏居ない集団』なんで。そんな中、ロコツに怪しい誘い方するもんですから先輩。むしろこの後がコワイというか面倒です。まあこういうのも悪い気はしませんねえ」  賢八は素朴に笑った。かなりの安堵感も含まれている。分かりやすい、面白い少女である。鹿島 静香と対峙する時のような、 「で、何でしょう。あたしに確認したいことって?」 「ああ。例の帳面に書いてあったことなんだけどね」 「あー。それならお貸ししましょうか? コピーなり取ってもらった方がてっとり早いんじゃないでしょうか」 「それは助かる。でも、あれは貸してしまってもいいものなのかな」  一応神社に納められていたのだから、軽はずみなことはできないのではないか、と賢八は慮った。  当の薫子が、そこまで慮らなかった。 「いいんじゃないですかね。普通に記録ですから。許可が要るとしたら氏子のあたしたちで大丈夫でしょう。無断で持ち出してる訳でもないし、そんな雑に扱う訳でもないでしょう?」 「そりゃ、もちろんだよ」 「じゃあ問題ないです。叔父んとこに預けてあるんで、夕方またお店の方に来てください。用意しときますから」 (……。さては、そのままにして帰ったんだな)  預けてある、というよりは、その方が薫子らしい気がした。  そんな彼女の様子には何ら影のある要素は感じられない。―当たり前か。となると、やはりあの帳面に書かれていることは、薫子にとって何ら懸念はないということだ。 「ありがとう。―そうだ、もうひとつ。これは分かったらでいいんだけど」 「はい。何でしょう?」 「君の叔母さんがどんな本を読んでたか、覚えてないかな」 「は?」  あまりの唐突な質問に薫子は面食らったようだ。何度か目を瞬かせたが、何度か口の形が変わるだけで言葉が出てこない。 「たとえば、推理小説とか。ホームズものなんかよく読んでたとか、そういう思い出話はないかな」 「シャーロック・ホームズならお店に全集がありますよ。ああー、そういう意味なら推理小説も多いかなあ? 小さな頃あたしも背伸びして読んだことありますね。夏休み暇すぎて。今じゃトラウマっす」  少し水を向けると、たちまち薫子からは言葉が溢れ出して来た。 「トラウマ?」 「だって怖いじゃないですか。ただの怪談とか幽霊話だったらまだいいですよ。あんなの実在してる訳ないし。だけど推理小説ったらほとんど死人が出るし、みんなこれでもかってひどい死に方するし、だいたい二人以上死ぬし、しかも犯人は一番犯人らしくない人だったりするでしょう? なんか厭すぎますよ」  彼女の言葉は確かに古典的な推理小説の要素ほとんどすべてといっていい。それら全てを明瞭に否定するのを聞くと、その豪快さが面白い。賢八は笑った。 「それだけ異常な状況だから、まだ娯楽として楽しめるんだよ。現実と切り離して読めるからね。その点怪談話と変わんないよ」 「ああ、まあそうとも言えますが」 「実際の所、一番ありがちなのは『家に帰ってみたら家族の誰かが死んでる』。―なんて状況だったら、十中八九死因は事故か病死だ。他殺なら犯人は身内さ。でもそんなのまさに『お話にならない』結末じゃないか」 「うちの祖父はまさにそんな感じでしたねえ」 「え?」  賢八の表情が変わったのを見て、薫子は慌てて否定した。 「いや違いますよ、そんな事件じゃなくて、脳溢血だったんです。寝てる時にぽっくりと。老衰っていうのかもしれませんけど」 「そうだったのか……。それは悪いこと言った」 「いえいえ。たっぷり歳とって死んだんですから悪いことじゃないです。確かにそんな平凡さじゃ『山上家の一族』みたいな小説にはならないっすよねえ」    薫子との会話で賢八は幾分気が晴れた。それに、どうやら例の樹についてはもう少し思考遊びが続けられそうだった。あの古びた帳面に記されている内容を正しく咀嚼すれば、きっと、あの祈祷文に隠匿された本当の意味が分かる。―馬鹿げているが、そう夢想することで、彼の心は少し弾んだ。  午後の授業も世界史の暗記や過去問題を解く傍らで、何となくノートには三角形が書かれていた。樹の高さか、陰の長さか。どちらかでも分かるようなものがあれば、この思考遊びは実践が可能になる。どこかにそれは残されていないか。 (……そういえば)  彼は思い出した。自分は、その樹の陰ならば(、、、、、、、、)見たことがあるということを。  それに気づくと確かめるのに気が急いだ。暗記もそこそこに授業時間が終わるのを待って、廊下に飛び出すと賢八は小走りにかなり離れた別の教室へ飛び込んだ。遥佳の教室である。  心なしか、彼女は周囲から少し距離を置かれているように見えた。賢八がまっすぐに近寄ると、自ずと視線が集まる。 「長谷川さん。確か君はあの樹の写真を持ってたよね」 「あの樹の写真?」  鸚鵡(おうむ)返しに遥佳は繰り返した。彼女にとってはその写真は、そうした意味を持たない。 「あの、ご両親が写ってる写真。後ろにある樹は、例の樹なんだろ?」 「え? ……」  困惑気味に視線を彷徨わせてから、彼女は、机の上のノートに何やらシャーペンを走らせた。  『その話なら、放課後にして』  と、記されていた。  ノートと遥佳とを交互に見やると、賢八は曖昧に頷く。 「じゃあそれは後で。―センタ試験どう? もう万全?」  遥佳は全く別の話を始めた。その意図が分からぬほど賢八は鈍くないので、ごく自然に合わせた会話をする。そのうちに次の始業前になって、彼は慌ただしくその場を離れることになった。  人前ではしづらい話だったろうか。  少なくとも彼女はそう思ったようであり、賢八は少し配慮が足りなかったようだ。そのことが少し気になったが、一時間弱のその日最後の授業はたちまち終わった。  改めて遥佳の教室を窓越しに覗いて見ると、既に彼女は居なくなっていた。  不安が徐々に大きくなる。自分は何か訊いてはいけないことを訊いてしまったのか。  廊下を歩く歩調がだんだんと駆け気味に変わり始める。今なら校舎からそう遠く離れているはずはなかった。 「あ。櫻井さん!」  呼び止める声に顔を向ける。そこには数時間前に会った少女、『空』と呼ばれていたか。名字は忘れてしまった。 「―……。空、さん」 「え? いえ、『ありすがわ』です。有栖川」  間違いでもないのに彼女は訂正した。気安く名前では呼ばれたくない、ということ―だろう。 「櫻井先輩。今日の昼のお話なんですけど、これから時間あります? 鹿島さんが心当たりのある人とお話されるので、その、よかったら一緒に」  早い。いくら何でも早すぎる。そのことがまず賢八を戸惑わせた。 「心当たりって、誰なんだ」 「いえ、それはちょっと、言えないです」  空は申し訳なさそうに、しかし明瞭に拒絶した。確かにプライバシーの問題もある。これもまた訊くべきではなかったか、と賢八は自分に舌打ちする。 「―でもそれじゃ『よかったら一緒に』もないだろう。まさかスリガラスでも間に立てて音声は変えて、なんて訳にもいかないだろうし」 「そんなことはしませんよ。お話は二人にしてもらって、私たちは別の場所でそれを聞くんです。……あんまり大きな声じゃ言えませんけど」  賢八は改めて相手の少女を見た。顔に頭抜けた特徴はなく、髪は今時考えられないおさげで、眼鏡をかけ、普通の生徒よりもさらに真面目そうに見える。  しかしその実態は、事細かな情報に精通し、またそれを得る手段を無数に持っているようだ。密偵というか、二重スパイというか、黒幕というか。鹿島 静香が皇帝のように君臨する存在だとすれば、この空という少女は、まさにその華麗さの陰に寄り添い、常にその背後に立ち、必要であることを実践する。 「―あの。なんかひどく誤解させたみたいですけど、そんな風に見て欲しくないです」  賢八の視線と沈黙の意味を察して、空は付け加えた。 「鹿島さんは自分たちの話を別の誰かに聞いておいてもらいたいんですよ。―で、今度の話の言い出しっぺの先輩にも居てもらった方が話が早いだろうって」  ……なるほど。鹿島 静香としてはある意味公正を期した措置、なのかもしれない。記録する訳にもいかないような話だし、かといって、後からうやむやにさせたくもない。証人が欲しい。それは、経緯を知っていて、口が固い……というか噂話が嫌いな人間が適役だ。  その程度の信用ならば、あの少女から賢八も得られているという訳か。  しかし、その見知らぬ誰かにとっては、本来隠匿しておきたい話を誰かに聞かれているということである。確かにその証言は気になるが、結局は盗み聞きだ。進んでそれをしたいという気には賢八はなれなかった。  何より、今は遥佳のことの方が気がかりだった。 「すまない。今はちょっと急いでるんだ。その話は鹿島さんから後で聞けないかな。―どんな話になっても、もう覚悟はできてる」 「そう……ですか。分かりました。そう伝えます」  彼女は、賢八に執着しなかった。その回答も織り込み済なのだろう。二人はそのまま別れた。