6.  玄関口に急ぎ、校舎を飛び出そうとした。しかしその直前で肩を強い力で引かれて大きくバランスを崩す。 「わっ」 「ちょっ、あっ」  抱き止められるようにして彼は転倒を免れた。相手の芳香が一際、舞った。この匂いは、 「どこ行くのよ櫻井君」  ―確かに、遥佳のものだ。しかし遥佳こそ何処に居たのか。 「いつもの所で待ってたのに飛び出して行こうとするんだもん。急用でもできたの?」  その一言で彼は我に返った。玄関とは反対の方向の廊下、二人はいつもそこで『偶然』出会うのだ。遥佳はそこからまっすぐに玄関に向かう賢八に気づき、後を追いかける形になった。 「いや。―俺は、長谷川さんを探そうと思って、それで」  言葉にしても、言い訳というにはあまりにも間が抜けている。彼は続けられなくなった。彼女は、いつもと同じ場所に居た。いつもと違うのは賢八の方だった。静香の言葉や休み時間の時の遥佳の態度に、彼は一時眩惑されていた。  普通に考えて見れば、何でもないことだ。 「へんなの。まあ、いいけど」  くすりと遥佳は笑い、やや声を落として続ける。「―あの写真の話は、他の人が居る時には話さないで欲しかったから。恥ずかしいでしょ、あれ」 「そう、かな」 「何十年も前の両親の写真よ? しかも結婚前。第一そんなの持ってるなんて思われたくないわよ」  賢八には分かりにくい。第一恥ずかしいものならば自分にも見せなければよいのだ。―と、迂闊なことに彼は、その恥ずかしいものをわざわざ彼に見せた彼女の思惑を感じ損ねていた。 「まあいいんだけど。とにかく、他の人が居る時にはこの話は勘弁して」 「う、ん。ごめん」 「で、写真がどうかしたの?」 「ああ。今持ってる? もう一度、見たいんだよ」  遥佳は周囲の人気を気にしてから、鞄の中から手帳を取り出す。「――切っちゃってるから、全部は見えてないけど」  そう。普通の写真を、手帳の大きさにカットしている。そうでなくとも被写体はあくまでも二人の男女なのであって、全体など写りきっていない。  賢八が見たかったのはそれではなかった。 「あった。影だ」 「え? 何があったって?」 「いや。やっぱり写ってたよ。縁結びの樹の影!」 「はあ」  賢八が心なしか声が弾むのを、遥佳はやや気が抜けたような顔で見ている。 「しかも遠くに時計まで見えるよ。こりゃラッキーだ。これ、確か校庭の隅の時計だね。まだ動いてるっぽいなあこの頃は」  校庭の隅の方には朝礼台があり、その傍らには上端に時計が付いているポールがあるのだ。今は動かなくなっていて、常に「十時二十四分」を指し示している。  写真に目を近づけて凝視する。ルーペがあれば好都合だが、ざっと見た所、十二時半頃を指し示しているだろうか。 「ほぼ正午、か。影が短いから間違いなさそうだ。格好からすると夏か。これって何月頃に撮ったのか分かる?」 「え? えーと、裏に書いてあったかなあ」  言われるままに写真をめくると、「八月七日」とボールペンで記されていた。 「八月か。後は、影の長さだなあ……。うーん。これは二人の身長から考えるしかないか。長谷川さん、ご両親の身長分かる?」 「分かるけど、まずその理由を説明して」  遥佳の声は、硬質だった。その声音の変化に賢八は驚いて顔を上げた。  遥佳は、やや怒っていた。一人取り残されたことへの腹立たしさか。 「そ、そうだね、うん。悪かった。このまま立ち話も何だから、ちょっと、場所を変えようか」  その迫力に気圧されるように、賢八はことさらに明るく言った。  二人はそのまま図書室へと足を運んだ。二人きりになれる場所ではないが、彼の話を実地に結びつけるには此処が都合がよかったのだ。 「『マスグレイブ家の儀典書』……」 「今の所ただの憶測だけどね。だから辿れる所まで辿ってみたくなって」  例の祈祷文が何かの『暗号』になっている――という賢八の『妄想』に、遥佳は興味を持ってはくれた。ただ今の時点では、現時点での材料を見て賢八ほどの期待を抱いていない。 「分からないのは、儀式の時の樹の影の長さなんだ。でも長谷川さんが持ってた写真を使えば、それが特定できるかもしれない」 「そうかなあ。この写真で分かるのって、この時の樹の影の長さでしょ?」  遥佳の両親の身長からすれば、当時の身長もだいたい検討がつく。それを尺度とすれば、写真が撮られた当時の樹の影の長さは算出が可能だ。……しかし。 「二人の影は木陰で見えないし、他に対比させるものがないじゃない」  高さが明らかなものの影の長さを対比することで、比較対象の影を有する物体の高さも分かる。小学校の算数である。 「そうだね。昨日読み返してみたんだけど、ホームズもその方法で『失われた樹』の影の長さを計算してる。長さが分かってる棒と、あらかじめ知ってた樹の高さを比例させればいいんだからね。でも」  賢八は鞄から数学のノートを取り出し、裏表紙をめくってその白紙に直角三角形を描いた。 「影は三角形の底辺で、樹の高さは三角形の高さだ。高さを知る方法は何も相似形を比例させるやりかただけじゃない。ここの、斜辺と底辺の交差する角度」 「なあるほど。三角法、ね。タンジェント」  さすがに理系の遥佳は理解が早かった。    直角三角形の底辺をb、高さを成す辺をaとすると、斜辺と底辺の交差する角度の大きさをθとして  tanθ=a/b  が成り立つ。tanθは数学の教科書の付録に角度0〜90までの大きさが記されている表を使えば近似値が分かる。  今分かっているのは、影の長さb。算出したい高さはa。だから、  a=btanθ  な訳だ。 「だろ? 後は、角度θが分かればいいのさ。これはいわゆる『太陽の高度』だ。これを調べるには、天文年鑑があればいい」  賢八はそう言って「自然・地理」の書架から年鑑を引っ張り出した。目次を見て頁を繰ると、日別・時間別に太陽の方角・高度を算出する表がぎっしりと載っている。 「へー。緯度が分かればこういう表で分かるんだ。まあ当たり前か、毎年ほとんど変わんないんだもんね」  賢八の意外な方面の知識に、遥佳は素朴に感心している。 「星を見るの、嫌いじゃなかったからね。今はもうやってないけど」 「眺めてた頃があったんだ。中学の時?」 「小学生の頃だったよ。木星の衛星とか土星の輪っかとかちっちゃな望遠鏡で観てたね」  などと言葉を交わしつつ、賢八は八月七日の十二時頃の太陽高度を見つけ出した。「これのタンジェントだ」 「なんかさあ、不思議。どうして櫻井君文系なの?」 「え?」 「こういうの、すごく楽しそうにしてるんだもん」 「こういうのじゃテストの点、取れないからね」  賢八は極めて実利に基づく回答をした。こんな知識を持って計算ができても、数学や地学で高得点が出せる訳ではない。  その無味乾燥とした答えに、遥佳は楽しそうに笑った。 「久々に櫻井節が出たね」 「別に面白くないよ」  この顔でここまで毒のある言葉がすらりと出てくる間隙(ギャップ)が面白いのだ。とはいえ当人には決して分からぬ面白味ではある。  そんなやりとりをしているうちに計算結果は出た。検算はできないが、樹の高さとしては一般論からしてもさほど違和感のない数値である。 「うまくいきそうだ」と、賢八の表情は明るい。「これなら、あとは昨日聞いた神事の行われた日時が分かれば影の長さも方角も確実だ」 「楽しそうね、ほんと」  是とも非とも言わず、遥佳はそう答えた。皮肉ではない。正しいか間違っているかは、彼女にはどうでもいい話だ。少なくともそれが核心を突いているかは、おぼつかない。  ただ、賢八のこうした子供っぽさが、遥佳は少し嬉しかった。この人は辛辣な現実主義者なのか、ある種のロマンティストなのか。少なくとも、こんな手掛かりから推理小説の古典に即した仮説を立てるような発想は、およそ現実的ではない。彼女から言い出したこととはいえ、『なくなった樹を探す』ことをこれだけ真剣に取り組んでくれたのは賢八が初めてだった。 「この表はコピーを取って、次に行こう」 「つぎ?」 「また昨日の『憩』だよ。例の帳面を借りる約束をしたんだ」  話しながらコピー機に向かう途中で、賢八は机の仕切り板に身を潜めるように屈めている男子生徒の姿を見つけた。 「……」 「どうしたの?」  無言でその背中を凝視する賢八が、遥佳には不思議に見えた。 「いや。ちょっと、先に行ってて。もうひとつ用が残ってた」  適当なことを言って遥佳に年鑑を手渡すと、その後ろ姿を見送りながら彼はそっと机の生徒に顔を近づける。 「……」 「倉田」 「お、俺は何も見てないぞ」 「嘘つけ! だったら何でそんなに隠れようとするんだ」  やはり倉田だった。ほぼ毎日のように図書室を利用していたはずだから、今日も日課なのだろう。そして噂の組合せを目の当たりにして、声をかけることも、いや此処に自分が居ることも知られたくなかったに違いない。口うるさくはやし立てるような子供っぽさはさすがに倉田にはない。かといって普通に彼ら二人をやり過ごせるほど慣れている訳ではなかった。 「はあ。本当だったんだな。お前ら」  微妙な表現で微妙な溜め息を彼は吐いた。やはり、噂で耳にするのと実際に目にしてしまうのとでは、その現実に受ける印象差は比べようもない。 「倉田。俺はもう否定しない」 「お? ……そうか。そうなんだな」  最初好奇の目で賢八を見た倉田だったが、すぐに真顔になった。長谷川 遥佳がどのような噂になっているかを知っているし、その上で賢八が一歩大きく踏み出したのを理解した。多感な時期の彼らにとって、それは決して簡単なことではなかった。その思いが、次の言葉を紡いだ。 「頑張れよ。変な言い方だけど」 「ああ」  倉田のその言葉が重くもあり、しかし少し嬉しい。  そのまま二人は頷き合って離れる―かと思ったが、賢八は振り返った。 「だからってお前、掲示板に書くんじゃないぞ」 「書くか! 俺は読み専門だよ。危ないから」  軽く冗談めかして会話を終わらせるつもりが、また思わぬ言葉を耳にした。賢八はその言葉を繰り返す。 「危ない?」 「あの掲示板、誰が何をいつ書いたか記録してるらしいからな。最近そういう話を聞くぜ」  また噂、だ。  こうなってくると何が本当で何が間違いなのか、いよいよ分からなくなる。 「それは『聞いた』んじゃなくて『読んだ』んじゃないのか」 「ん? いいや、これは『聞いた』んだ。確かに掲示板にそんな噂を書いてあるのも読んだことがあるけどな。ちょっとしたパニックで面白かったぜ。パニックっつっても、掲示板の中だけで普段は全然変わんないんだから面白いよな」  皆、自分にとって都合のよいことしか信じないからだ。そうやって、面白そうな話が一人歩きして背ひれ尾びれが付いてゆく。それを見て、書き連ねていくのは、普段は何事もなかったかのように慎ましく学校生活を過ごしている生徒達だ。  ただの落書きかもしれないが、これほど多くの目に広く留まる落書きはそうないだろう。  何やら人間の本質を垣間見てしまったような気がして、暗然たる気持ちになる。……が。それだけではない。  ひとつ引っかかることがある。 「お前、確かに聞いたんだな? 誰だよそれは」 「ええっと。誰だったかなあ? あのひょろっとした真面目顔……。そうだ。三木だ」 「ああ、三木か」  元生徒会長の三木。賢八が最初に掲示板の委細を訪ねた相手である。結局は掲示板は生徒会が管理している以上、そうした話を知っていても不思議ではない。 「確か視聴覚室だったなあ。あの時は図書室の端末からつながるなんて知らなくてさ。そしたら三木が」 ―君もこんなくだらないものを見ているのか。 ―いずれこんなものは消えてなくなるだろうから、まあ一時のことだろう。 ―こういう根拠のない中傷を書き込む人間を全て把握しているんだよ。いずれ追求されるだろう。 ―書き込みをするのは気を付けた方がいいだろうね。 「とまあ、あんまりいい気はしなかったけどな」  再現しているうちに記憶も鮮明になったのか、倉田は腹を立てている。 「あいつらしいな。言ってることは間違いじゃないと思うけど、言い方がよくない」 「だろ? だから俺もやめる気はない訳よ」 「……。それもどうかと思うけどな」  ここで倉田はやや遠くからの視線に気づいた。遥佳が、なかなか来ない賢八の様子を窺っている。  別れの挨拶もそこそこに、彼らは別れた。 「友達だったの? あれ」  既にコピーまで済ませていた遥佳が小さく尋ねた。見るからに不審な倉田の伏せ方は、遥佳とて気づかぬはずがない。ただ、彼女は逆に「怪しい人なので近づかない方がいい」と思っていたようだ。 「同じクラスなんだ。 此処の常連みたいだよ」 「うん……」  その曖昧な反応の理由を、賢八は知っている。遥佳は此処でよく倉田を見かけていたのだろう。人気がない図書室だからこそ、頻繁に通っていれば目に付く人間は記憶に残る。それは、お互い様だ。彼女は、掲示板に自分のことを記す為に図書室の端末を使っている、はずだった。  賢八はそのことは何も言わない。今の時点で追及しても無駄だと感じている。いつになったら確かめられるのかは、彼も分からなかった。このまま、ずっと言い出せないままになるかもしれなかった。  倉田や図書室の話題にはそれ以上深入りすることなく、二人は学校を離れた。今日の賢八には帰路も明瞭な寄り道先があるのだ。 「山上さんには話はつけてあるんだ。あの旧い帳面、貸してもらったらもっといろんな仮説が出せるかもしれないし」  その逆に全く何も意味がなかった……ということもあり得るが、今はそれを考えても仕方がない。これはいわば仮想の冒険だった。時間をかけて野山を巡らなくとも、資料と想像力、それを補う理屈があるだけでいい。うまくいかなかったとしても、誰も傷つかず、失われるものも少ない。  しかし、再び訪れた喫茶『憩』で彼はまたしても意外な言葉を聞かされた。 「なくなった??」 「すみません! それがその、ちょっと手違い、いや勘違いがあったみたいで」  気前よく約束した手前、薫子は困り切っていた。  賢八と遥佳は期せずして顔を見合わせる。  彼女―薫子の話は、こうだ。  薫子は帳面をこの喫茶店に置いておいた―つもりだったのだが、主人である叔父は返しておかねばならないと当然思った。今日神社に戻したという。薫子としては先輩と約束した手前もう一度神社に取りに行ったのだが、―鍵が壊されていた。 「びっくりですよ。こんな小さな神社になんてえ罰当たりなことを! って。ひょっとしたら最近の事件と絡んでるかもしれないから怖くなって飛んで帰りました。連れ込まれたら外から分かんないですからねほんと。あ、でも一応、探したんですよ。帳面」  しかし見つからなかった。叔父に報せると彼はすぐ確認に向かったが、さほど時間も経たぬうちに戻った。鍵は、付け替えて来たらしい。警察に連絡するつもりもなかったようだ。 「で、そりゃあんまりにも不用心過ぎると思ったんで、呼んで来ようかなと思うんですよ。駅前の派出所のお巡りさん、知ってる人だし」  ただ、賢八と学校で交わした約束があったのでこうして待ち構えていた訳だ。 「申し訳ないんすけど、そんな感じでこれから交番行って来ます」  慌ただしく薫子は出て行ってしまい、カウンターのマスターはいかにも仕方のない奴だ、と言わんばかりに肩をすくめた。耳にした一連の話からも分かる通り、彼自身はあまりこの『事件』を事件とも思っていないらしい。  薫子が居なくなると少し居づらさを感じるようになり、珈琲と紅茶をそれぞれ済ませただけで二人は憩を出た。出た途端に言葉がやや活発になったのは、マスターに対する気兼ねがなくなったからだろう。 「どう思う? さっきの薫子ちゃんの話」  先に言い出したのは遥佳だった。彼女自身何か思う所がありそうな、そんな語調である。 「うん。変だね」 「変? …へん、かなあ」 「急に神社の建物の鍵が壊されて、借りようと思ってた帳面がなくなってしまうなんてのは、偶然だと思う方がムリがあるよ」 「ん。……でも、最近、変な事件がある、じゃない」  言い出しにくそうな遥佳の言葉に、賢八は彼女の問いの意図に気づいた。遥佳が気にしているのはその帳面ではない。例の、事件のことだ。  ひと呼吸置いて明るめの声を作って、彼は答えた。 「例の事件とはもちろん関係ないよ。たまたま場所が似通ってるし、犯人も捕まってないからそう思っちゃうのも仕方ないけどね。これは、別なんだ」  確信を持っている相手に、かえって、遥佳は疑問を抱いたらしい。曖昧に頷いただけで彼女は口を幾分尖らせ気味に俯いている。 「なんか納得できてないみたい、だね」 「え? ―うん、まあ、ねえ。だってそれこそ偶然とは思えないもの」  こうした引きずり方をする遥佳を見ると、やはり、例の事件―まったく関係がない訳ではないのではないか、と彼は感じた。  考え過ぎか。すぐに、それを自分で否定する。 「じゃあ説明しようか。今度の神社の一件、誰がやったのかはもう分かってるんだ」 「え?」 「山上さんが居る前では言えなかったけどね―今まで何事も起こらなかった神社に、突然、盗難やら損壊が降って湧いたのは何故かといえば、契機(きっかけ)があったからなんだ。それは例の事件なんかじゃない。たぶん、あの帳面のことだ。うちの姉貴が妙な騒ぎ方をしたせいで明るみに出してしまった、あの帳面なんだよ」 「な、なんだってー」 「……全然心が込もってないなあ、今の驚き方」 「だってそれこそトンデモ説じゃない。まだ『ノストラダムスの予言を成就させる為だったんだよ!!』とか言ってくれた方が面白い」 「俺はね。別に面白いこと言おうとしてるんじゃないよ」 「じゃあ聞くけど。そんなに大事なものだったら最初から出さなきゃいいだけの話じゃない。門外不出ナリよ! とか言っておけば部外者にはどうしようもない訳だし」 「その『ナリ』ってのがよく分かんないけど、きっとね。それはものの見方の問題だね。とある物がある人にとってはとてつもない値打ち物で、ある人にとっては、何ら価値のない―なんてことはよくあることで。今度の場合、山上さんにとってはあの帳面はただの記録帳で、別の誰かにとっては、それこそ誰の目にも触れさせたくない、盗んででも隠してしまいたい、そんな代物だったんだ」 「別の誰かって、誰?」 「マスター、だろうね。山上さんが居る前だと言いにくかったから黙ってたけど」  消去法でいけばあまり意外な人物ではない。ただ、それは薫子が語った状況を素直に聞いているだけでは同意しがたい。 「マスターだったらわざわざ鍵を壊す必要ないじゃない」 「それだと、逆に言えば、物がなくなってたら疑わしいのは山上家の誰かが一番怪しくなるよ」  ああ、と遥佳は感嘆の声をあげた。確かにそれはそうだ。鍵を使える人間は限られている。それを使えば自らに疑いの目を向けさせるようなものだ。 「じゃあ、他の誰かがやったって見せかけるために、あの人が」 「まあほんとに他の誰かがやったのかもしれないけど、今の段階ではあの人が一番疑わしいね。マスター、山上さんにも知られたくない何かがあの帳面にあるのを知っていて、だから他人の目には極力それを晒したくないんだと思う。そう考えると今度の件はとても分かりやすくなる」  遥佳は頷きながら俯いていたが、先刻(さっき)よりも目つきが真剣である。何か考え込んでいる―そして、すぐに結論に達した。別の、問いができた。 「そこまでする秘密って、何だろ?」  当然ながらそれが気になる。しかしいよいよそれは簡単ではない。 「―そこまでは、俺も分かんないよ」  考えがない訳ではなかったが、それを口にすればいよいよ気味の悪い話になってしまう。あの寡黙な主人を信頼したいという気持ちも心の中にかなりあった。賢八は自らの疑念が、その信頼を浸食するのを押し止めるのに苦労した。  ―あの帳面の記録が、アカメガシワの樹の所在を示していたとして、それを押し隠すのは、その樹を他人に知られたくないからではないか。  ―その樹にはそれほどの秘密があるとしたら、それは、  姉の濡れた唇がその言葉を紡ぐのを、賢八は目で見、耳で聞いていた。それはこうした不吉なキーワードが悪い方向へ重なった時に表出する。忘れようとしてもどうしても現れる。  ―死体が、埋まっているとかねえ。  まるで「スタンド・バイ・ミー」だ。あの映画、あの小説は仲間たちが死体の噂を確かめる為に小さな冒険に出た話だ。一方の自分たちと言えば、死体が埋まっているという噂のある、縁結びの樹を見つけようとしている。 「……この樹、ほんとに神様だったりして」  遥佳はそんな賢八の想像には気づかず、むしろかけ離れた発想をしてみせた。視線は取り出した生徒手帳の写真、幹しか分からないその樹を捉えている。 「山上家が実は代々その樹を護る必要があって、今は誰にも分からないように隠し続けてる、とか」 「それなら、移動させる前はどうして隠してなかったのさ」 「そりゃあきっと、隠さなきゃいけないってことになったからよ」  それはそうなのだろうが、その理由こそが整合性を保つ為に必要なのだ。―といったことを言おうとしたが、 (それがはっきりしない以上、俺の想像も彼女の思いつきもおんなじだな)  思い至ってやめた。樹の話は、またしても手がかりを失ってこれ以上の追求ができなくなってしまったのだ。  学校の最寄り駅のそばの交番で、薫子の後ろ姿を見つけた。年配の駐在を相手に熱心に話し込んでいる。相手は、話が途切れる度に何やら書き留めているようだったが、少し困ったような顔つきにも見えた。声を掛けるのも気が退けて、二人はそっと通り過ぎた。 「実際に事件が起こってるし、あの人、調べざるを得ないんだろうな」  電車の中でぽつりと賢八はそう言った。彼の中では今度の盗難騒ぎは偽装の結果なので、そうしたものにつきあわされる、あの人の良さそうな駐在に同情したい気持ちである。 「終わってないんだもの。当たり前だわ」  遥佳はそれだけ言うと、黙り込んでしまった。拙いことを喋ったか、と賢八は悔やむ。  しかしすぐに、その言葉がとても重要な意味を帯びていることに、気づいた。  やや躊躇って、しかしその躊躇いも通り過ぎて、わざと意地悪く訊いた。 「……まだ。続くと思ってるんだ」  遥佳は賢八の方を見なかった。何も答えようとはしなかった。彼女にしてみれば確かに答えづらい問いだった。  いつになったら終わるのだろうか。賢八はそれを思った。  犯人が逮捕でもされれば、終わるのだろうか。―今の遥佳を見ていると、それは上辺だけではないかと思える。一般的には、それは解決なのだろう。だが遥佳は自ら納得してこの事件の幕引きができるのだろうか。  遥佳が抱える漆黒の闇を取り払うのが「真相の究明」ではない、となれば。それに拘るのはただの好奇心と自己満足だろう。古傷を暴き立てて喜ぶ人間など居るはずもない。古傷、と呼ぶには早すぎる出来事であれば、なおさら。  手が、偶々(たまたま)すぐそばにあった遥佳の指に触れた。  いつもならその温もりを畏れるように手を引いてしまうのだが、このとき、賢八はそっとその指を握った。  ぴくりと遥佳は身じろぎしたが、その少し後で、賢八は遥佳の指先に力が加わるのを感じた。それとともに、温もりがより広がるのも知覚した。  二人とも、顔は合わせることはなかった。その沈黙と暖かさは、それだけで今までにはないほどの気持ちのやりとりを果たしている。  ―ただ、今は支えになりたい。  賢八の中にあった様々な憶測や懸念、躊躇い。そうしたものが徐々に消えていき、残ったのは、その強い想いだけだった。  電車も他の乗客も、二人以外には変わった様子など何一つない。その中で、無言のうちに、彼らは確かに明瞭(はっきり)と結びついた。