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第一章


     0.

 笠原という本当の地名ではなく、何故かそこは神楽山と呼ばれていた。
 名称に相応(ふさわ)しいほどの山ではなかった。笠をそのまま巨大にさせて大地に根付かせたような、変哲のない形と高さである。
 頂の付近に高等学校があり、その途中、中腹には小さな社がある。
 古木に囲まれたその社は、昔から烏が棲む。西に羽ばたけば夕刻の空をも暗くせんばかりの群れだった。
 それに倣ったという訳ではないはずだが、そこにある学校の制服は、男女共に黒を基調としている。最近ではむしろ珍しい部類かもしれない。
 男子の学生服は当然として、女子のセーラー服は限りなく黒に近い紺。白の細いラインが二本入り、スカーフも白だ。そこまでは学校指定の通りだが、伝統的に女子は紺のハイソックスを着用する。ほとんどの女子がその伝統を守り伝えていくことになった。よくしたもので、学校の購買部でも校章の刺繍が入ったそれを買うことができた。需要があるからこそ確固とした供給もできるというものだ。
「神楽山の黒」というのは、その土地、その場所に一種の伝統美として息づいている。駅でも、商店街沿いでも、道すがら朝と夕とに目に入らぬことはない。

「…しかしまあ、うちの生徒たちは、『烏』というよりは『鳩』だな」
 その神楽山の黒を何気なく話題にした老年の教師が、茶をすすりながら言う。「勤勉、精励、文武両道も今は昔。真面目さだけが残ったような、おとなしい子ばかりになった」
 戦前からある校舎に、この教師は馴染み過ぎている印象すらあった。ずっとここで教鞭を取ってきた。定年を迎えても、非常勤講師ながら実質常勤でここに居た。死に場所すらここと決めているのではないかと影でささやかれたりする。これもまた一つの歴史、伝統のなせる事柄だろう。
 窓の外には、今日も黒に身を包んだ生徒たちが登校し、校舎に徐々に活気を与えつつあった。
「…ほう」
 授業前、朝の風景を見ていたその老教師が、面白いものを見つけたかのように顔を綻ばせた。「いるな、烏が。鳩の群の中に一羽」
 その視線の先には遠目にもはっきりと分かる、一際背の高い少年がいた。周りからも少し距離を置かれて。その様子から老人は烏を連想したのかもしれない。


 神楽山には、巨大な烏が一羽いる…らしい。

     1.

「お前さぁ、俺達が優しくしてるんでいい気になってんの?」
 『優しさ』とはほど遠い苛立ちを含めた声で、一方の一人が言う。
「いいかげんにしろよお前」さっと手が動き、少年の額を強く指で弾いた。「黙ってりゃ済むと思ったら大間違いだぜ。さっさと出せよ」
 一人きりの少年は、不安げに代る代る二人の顔を見比べていたが、しかしそれでも相手の要求に応じようとしない。だがさらに彼らの背後に一際大きな影が差すのを見て、独りぼっちの少年の表情はいよいよこわばった。
 この威圧感は、手前の少年らの比ではなかった。暗闇の中で、目だけが鋭く自分を睨みつけて煌めいているようだった。
 簡単に挫けそうだった気持ちが、突然心の内で反発へと昇華した。心の中にある何かがその目に射抜かれ、??目覚めたかのように。
 自分でさえ、自分の中にこれだけの気持ちがあるのかと不思議なほどに…少年は、この状況に呑まれるのではなく、打破することを望んだ。
「いやだ」強く、低く、囁くように言い放った。
「はぁ?」
「いやだって言ったんだ!」
「んだとこいつ…」かっとなった一人が即座に拳で反応する。
 しかしその手は、次の瞬間には動かせなくなっていた。
「お?」
 驚き、二人はようやく背後の第三者(・・・)に気づいた。
「な…なんだよ、お前」
「お前ら、恥ずかしくないか? 今時ゲーセンでカツアゲなんざ時代遅れもいいとこだぜ」
 声は陽気とも言えたが、腕を掴むその握力は尋常ではなかった。
 今まで高圧的だった少年たちも、この相手に対しては何も言えずにいる。
 そういう性質(たち)だからこそ弱い者しか相手にしないのだろうが、それにしても。この圧倒的な身長差。この剛力、そして??その制服の襟に付いた校章。それらの要素が全て重なると二人の脳裏には共通のイメージが生まれたのだった。
 神楽山の、烏(・・・・・・)。
 その無気味な名詞はいつのまにか広く彼らの間に広まっていた。
 不意にぱっと腕を放され、二人は後ずさるように距離を取る。それは危機を察知した動物の本能の動きに見えた。
「やめとけよ。でもまあ、どうしてもってんなら俺が」
「おい、行こうぜ」
「ああ」
 それだけ言い、二人とも足早に登って消えていった。呆気(あっけ)ないほどだった。
「…」
「??貸してやろうって言おうとしたのに」
 本気かどうかはともかく、常ならぬ長身の彼はそう言って肩をすくめた。そして改めて、一人残された少年を見た。
「あっ、あのっ…。あ、あ、ありがとうございます」
「お前もなんかムカつく奴だな。情けねえ面しやがって」
 ようやく重圧から解放された少年に対しても、彼はまるで容赦がなかった。あまりの言葉に驚いた様子で少年は相手を見上げる。
「ま、目の前でくだらねえこともされたくねえし。さっさと帰んな」
 彼は事もなげに言うと、軽く髪をかき上げて離れていった。
 …少年はしばし茫然としていた。受けた衝撃は、さらに大きかったのだ。
 何か、何だか、すごい人だなと思った。あの二人が逃げるようにして去っていった。やっぱり、そんなに強い人なんだろうか。怖い人なんだろうか。
 実は怖いというのは違う、という気がしていた。確かに最初に睨まれていたときは怖くてたまらなかった。だが、何故だか、そのおかげで普段出せないような勇気が出せた気がする。??あの人が睨んでいたのは自分ではなくて、自分の中の臆病さ(・・・)なのだ。
 どこに行ったのかな、と思い、少し背伸びして薄暗い店内を見渡していると、??見つけた。
 しかしどこか、違った雰囲気になっていた。

「えへへ、大漁大漁っ」
「そうかそうか。そりゃまあ、良かった」
「三四郎くんにもあげよっか?」
「…。いらない」
「久遠(くおん)はゆーふぉーキャッチャーの名人だからね。いくらでも取ってあげるよ」
 …これほど対照的な組合わせは、なかなか見ない気がする。
 あの長身の少年にぴったりとくっついて歩いてくるのは自分より年下の…中学生、いや小学生(・・・)の女の子だ。たくさんのぬいぐるみを両手に抱えていた。
「ね、一個好きなの取っていいよ」
「だからいらねえっての、別に」ため息をついてあの少年は答えていた。
「ちぇーっ。つまんないの」拗ねたような声になったが、少女はまたも陽気に転じた。「じゃあごちそうするね。わざわざつきあってもらっちゃったから」
「よし。ありがたくおごられる」
「ふふ。色気より食い気だね」
「…。このぬいぐるみに色気を感じるのはお前ぐらいだ」
 小学生の姿(なり)で言うことが時々大人びている。三四郎は思わず笑ってしまう。
 そしてようやく先刻の少年がこちらを凝視していることに気づいた。
「??なんだ、お前。まだいたのか」
「あ、あ、ええと、」
「誰、この子。知ってるの?」
 久遠から『この子』呼ばわりされるのは、それなりに衝撃(ショック)だった。
「いや、ほんの数分前に知り合ったばっかりだ。名前はカツアゲされ太郎」
「ち、違います」
「当たり前だろ。そんな名前のやつが居たら見てみたい」
 久遠が声を上げて笑った。こんなことを真顔で言ってのけるのが三四郎の面白さである。
 自分も小さく笑って、彼は去り際にこう告げた。
「じゃあな。次からはもっとうまくやれ」
 三四郎に言わせれば、ああいう輩につかまる方も間抜けだ。勝てないなら逃げればいいし、それもできないなら大声で喚(わめ)けばいい。何もできない相手に対して、好意的な同情などできる性分ではなかった。
 驚かされ続けた少年は、二人がそのまま立ち去る姿をまたも茫然と見るだけだった。


「今日はどうもありがと」  ファーストフードのトレーを挟んで二人は向かい合って座っていた。
 別に相手を思いやって安上がりに済ませた訳ではないが、結局こういう場所に落ち着いてしまう。慢性的に貧乏性の三四郎である。
「俺は見てただけだけどな」
「ううん、助かっちゃった。おかげで誰も近寄って来なかったから」
 確かに三四郎と久遠の周囲には、見えない障壁が出来ているかのようだった。
「どーしても行ってみたかったんだもん。すっごく怖いけど」
「有名なのか、あそこ」
「やな人がいっぱい集まるとこだから」
 力いっぱいに頷いて久遠は答えた。確かに柄の悪そうな場所で、何もなければ三四郎でさえ敬遠しそうな雰囲気だ。…彼の場合、怖いとか、そういう感情からではない。単に不快なのだ。
「わざわざそんな所に行かなくたってさ。あんな機械、あちこちにあるだろ」
 心なし諭すような口調で三四郎は言う。久遠は小学生どころか中学生相手にも虐められそうに見えた。
「分かってないね、三四郎くん。あそこのきゃっちゃーはアームの力も強いし獲物がいいんだから」
 偉そうに久遠は指摘する。が、不意に、何かに気づいたかのように彼女は探るような目をした。
「ははあ。心配なんだ、久遠のこと」
 その期待に、三四郎は思いきり応えてやった。
「そりゃあな。保護者としては」
「いたたた。傷つくなあ、もう」
 と、久遠は基本的に明るい。この手の性格は三四郎とよく適(あ)うらしかった。

 …
 お互い、出会った契機(きっかけ)は記憶も鮮明である。
 入学式のあった日。式が始まる直前だったろうか。不真面目に古びた校舎を眺めながら、三四郎はぶらぶらとひとり歩いていた。教えられたルートで式場まで行くのがつまらなかっただけだが、たまたま校門のあたりで教師とこの少女がもめていた。
「何度も言わせないで下さい。私、ここの学校の生徒です!」
 と言うには、確かにほとんど説得力のない姿の少女だった。声が大きかったのですぐに三四郎は気を惹かれた。立ち止まり、とりあえず様子を見る。
「学生証は」
 中年の教師はいかにも厳格そうな雰囲気を纏(まと)い、鉄製の校門を挟んで少女の前に立ちはだかっていた。
「まだもらってません」
「それじゃ、校章は」
「だから、まだもらってません!」
「制服は」
「…間に合いませんでした」
「それはおかしい。新入生でもちゃんと手に入ったはずだ」
 とっさに反論しようとして、しかしためらい、だが結局、自分で口にするのは恥ずかしいことを少女は言った。
「私。??小さいから、サイズがなかったんですっ」
 かろうじて中学校の制服を着ていたので中学生に見えたが、そうでなければどう見ても小学生にしか見えない。
 少しの沈黙の後で、その教師は言う。
「沢村君と言ったね。君は結局、自分の身分を自称しているだけだ。それを証明する手段もない者が相応しい待遇を主張しても、それは通用しない」
 まるで本当に授業中のような声だった。教えることだけが正しく、相手の意見を省みることもない。
「??あ、あの、ですけど、」
「さらに。定刻通りにこの門をくぐっていればまだ君の話は分からなくもない。だが今は何時だね」
「…すみません」
 遅刻は遅刻だから、これは強がってみても仕方がない。だがそれで納得してしまっては、やはり話が先に進まないのだ。
「確かにそれは悪いと思いますけど、それじゃ久遠はずっとここで立ちんぼですか?」
「…。確認が済むまでは」
 そう言って教師が久遠を背にして校舎に戻ろうとした時、彼は長身の生徒の影に気づいたのだった。
「何だね、君は」じろりと相手を見据えて尋ねる。
「まあ、先生。いつまでもここで虐めててもしょうがないし、ここはひとつ大目に見てやってですね。とりあえず俺が見ておきますから中に入れてやったらどうです?」
 近寄るまでにそれらしい嘘をいくつも考えていたが、何だかこの教師相手だとかえって話がこじれる気がしたのだった。芸のかけらもない率直(ストレート)な表現だった。
「クラスと名前を聞いているんだが」
 相手は動じた様子もなかった。
「H組の烏丸といいます。沢村と同じクラスです。教室に見かけなかったから少し探してまして」
 嘘だか本当だか、よく分からないような話がすらすら口を衝いて出てくる。
 じっとその教師は三四郎を眺めていたが、何を思ったのか。結局口許で小さく笑って言った。
「分かった。それではうちの生徒を自称する沢村君を式場まで連れて行くように」
 門の鍵を外して少し広げてやる。おずおずと、まるで肉食獣の檻の中に入れられる小動物のように久遠は上目遣いに二人を見上げながら、そこをくぐった。
「ありがとう、…ございます」
「お礼なら彼に言いなさい。それから担任には正直に話すこと。処分はその判断に委ねよう」
 温かみがあるのかないのか。無機質な声で彼はそう言うと、
「さあ。行きなさい。??確かに、君たちにとっては節目の式だ。ここで遅れてはつまらないからな」
 …それは理屈だけではない言葉だったが、やはり淡々とした口調で付け加えた。


「むか。まだそんなの覚えてるしー」
「ったく、俺の身にもなってみろってんだ。まさかあれ(・・)が俺の担任だったなんて」
 という結末(オチ)がつくエピソードだった。
「あーあ。知ってたら絶対にあの場には出て行かなかったんだけどなあ。おかげで俺の高校生活は最初(はな)っから生活指導主任にマークされっぱなしだ」
「えー。仲良さそうなのに」
 助けてもらった恩も忘却の彼方らしく、薄情なことを久遠は言う。…だが実際、かの教諭と三四郎の関係は、少年が自称するほど厄介なものには見えないのだ。当然ながら小言や注意は山と頂いているらしいが、相手は決して陰険ではなかった。??もちろん、陽気でもなかったが。
「でもだけどさ、それじゃあ何でわざわざ口出ししてきたの?」
 意外と言えば意外ではある。しかし三四郎の答えは単純だった。
「別にお前を助けた訳じゃないさ。俺はああいう言い方が気に入らない」
 反骨精神というか。こうだと決めつけられると、とにかく何かしらでも反発したがる所が、この少年の精神基盤には確かにある。
「かわいい久遠ちゃんを助けてあげようって、居ても立ってもいられなくなったとか。って、そういうのなし?」
「…」
「な、何よ。そんな悲しい目で見ることないでしょ」
「悲しいというより、哀れみを感じるな」
「ひっどーい。そんな、そこまで言わなくたっていいじゃない」
「冗談だよ。気にすんなって」
 相手の本気の表情に慌てて三四郎は言葉を加えた。
 …三四郎の見るところ、久遠は確かに悪くない。「かわいい」と言ってもいいと思う。しかし面と向かってそう言うのはもっとおかしな気がした。
「ま、許してあげるよ。私と三四郎くんの仲だし」
 ころりと、またしてもアンバランスに大人びた表現で久遠は言い、「??でもさあ、私のことなんかなくったって、絶対三四郎くんは何かと目立ったと思うんだけど」
「それこそ失礼な奴だな。人は見た目で判断するもんじゃないぜ」
「…」
「人を悲しい目で見るなよな」
「悲しいっていうより、哀れみを感じるね」
 きっちりとお返しをして、久遠はくすくすと笑った。
「ほら。あんなこともあったし」
「…何のことだ?」
 心の中ではあれこれ思い当たることが多すぎて、三四郎は予想しかねた。
「かぐらやまの、からす(・・・・・・・・・・)」
「何だ、それ」
 素朴に三四郎は訊ね返す。
「またまた」
「何が『またまた』なんだ」
 じいっと久遠は三四郎を見つめ、顔を離した時には不思議そうな色を浮かべていた。
「ほんとに知らないの?」
 自分の観察力には何故か絶対の自信を持っているらしい。久遠はそう訊いた。
「知らない」
 嘘をついているようには見えなかった。
「かぐらやまのからす」
「だから、何なんだそれって」
 同じ言葉を繰り返す久遠に対して、三四郎も同じ事しか返しようがない。
「うん。妖怪」
「…」
「なーんだ。三四郎くんのことだと思ってたのになー」
「俺が、妖怪。か」
 あまりの言われように腹を立てることすら忘れた。
「ああ、あのね、違うってば。もー、落ち着きなさいって」
 母親のような口調で久遠はそう言い、順序を追って話し始める。
「伝承とかで言われてるのってあるでしょ。河童とか天狗とか。それと一緒」
「ほー。お前の口からそういう蘊蓄(うんちく)が出るなんて、なんか、ものすごく意外だ」
「で、『かぐらやまのからす』な訳よ」
「…あのなあ。どんな訳なんだよ」
 久遠の話をかいつまんでみると、こうなる。


     2.

 今から数ヶ月前のことで、二年生の冬休み前ぐらいからだったろうか。帰宅途中の神楽山の生徒が集団に襲われるという事件が度々起こった。
 その手口たるや神出鬼没であり、生徒会や運動部の協力で自衛策を講じたものの、それを嘲笑うかのように事件が繰り返される。
 それが、年を過ぎてから、笠原神社で全ての結末を迎えたのだった。犯人たちはとある夜、凍死寸前の状態で地面に倒された姿で見つかった。発見が遅れれば危うかったらしい。
「??そのときの様子って、烏の羽があちこちに散らばってたんだって。でも普通烏って夜中には飛ばないでしょ? 夜中に羽ばたくのはかぐらやまのからす(・・・・・・・・・)。烏の親玉で山の主(ぬし)なんだって」
「ふーん。そんな言い伝えがあるのか」
 さほど関心がなさそうに少年が言う。
「ないよ、そんなの」
「はあ?」
「誰かが適当に広めただけ。だってそんな話、ほんとに昔からあった訳じゃないもん」
 随分詳しく知っているようだった。どうやら一人であれこれ調べていたらしい。
「烏の羽でわざわざ演出までしてるとこからすると、かなり意図的だよね」
「けど、俺は知らないぞ。んな話」
 憮然として呟く三四郎に、久遠はくすと笑った。
「考えてみたらそーだよね。がさつな三四郎くんがそんな周到(しゅーとー)なことする訳ないか」
「…。なんか、悲しい理解のされ方だな。俺」
 それでも、まるで理解されていないよりはずっとましかもしれなかった。その雰囲気や言動から、三四郎を過剰に警戒する人間は多い。ある意味で誤解というものだろう。…が、
(そんなもんだろ)と思った。
 誰だって、誰もを、思いたいようにしか思えないのだ。
 だから彼は「知らない」としか言わなかった。??久遠の問いに対して、肯定も、否定も、してはいない。


「二年D組の篠田さんが、例の事件に遭いました」
 彼はそれだけを言った。被害状況も全く知らない訳ではないが、それは公の場で話すにはひどいものだった。
 その当時の生徒会会長は、成績が優秀なことで広く知られている。責任感もそれなりに持ち合わせていた。それに伴う人望も一応、あった。
(だけど、それだけね)
 一年生の書記として、彼女は要点をノートに書き留める。その合間に全てを観察している。
 こうした活動に本気である訳ではなかった。ただ、今後のための練習ぐらいにはなるだろうと思っていた。
「これで四件目になります。警察の巡回も強化してもらっていますが、それをかいくぐっての卑劣な犯行が続いている状況です」
 生徒会長の表情には確かに怒りがある。だがそれ以上に青ざめていた。
(こういうアクシデントには、耐えられないタイプだわ)
「各クラス代表は、自分のクラスで注意を徹底するようにして下さい。下校時間が遅くなりすぎないように。一人で帰るのも危ないのでグループを作って帰ってください」
「注意だけでいいんでしょうか」
 鹿島 静香はようやく発言した。
「というと」
「相手はどういう訳か少人数で下校する生徒を狙いすまして襲って来ます。強制という訳にはいかないですか。集団下校に近い形にしては」
 しばらく沈黙が生じたが、別の一人がこう呟くように言った。
「…小学生じゃあるまいし、今さらそれはないだろ」
「それぞれに部活や倶楽部活動(クラブ)があるんだし、反対されるのがオチだと思う」
「同感、ですね。行き過ぎればかえってつまらない反撥を招きかねないし」
 一応静香の方をちらりと伺ってから、彼は続けた。「注意を徹底するに留めましょう。我々もそんな子供じゃないんだし、自分の面倒は自分で見ればいい」
「分かりました」
 試しに言ってみただけなので抵抗はしなかった。だいたい、どの生徒の発想も似たようなものだ。??そうである限り、相手の思うツボなのだが。
(しばらくは、犠牲が続くのかしらね。それとも、この中の誰かが実際に痛い目に合わなきゃ分からないのかしら)
 冷淡に静香は思考を進める。というより具体的な対策を誰も施さない以上、そう考えるしかなかった。
「しずちゃん、帰ろう」
 解散して、場が空虚になりかけた頃。同じく出席していた空(そら)が話しかける。
「…」
「ほら、もう暗くなりかけてるし」
 昨日何かあったからといって、今日はもう何もないとは限らないだろう。その行為は間違いなく卑劣だったが、それを完璧に成し得る犯人は決して馬鹿ではない。
「西玄関で、匠さんも待ってますよ」
「そうね、待たせたら悪いわね」
 その声に気づかされたように、静香の動きは機敏になった。
 …匠に対しては貸しは作っても借りは作りたくないという微妙な心理が少女の中にあった。ただなんとなく、ではあったが。
 彼女たちは中学校も同じであり、家もさほど離れていない。そのうち二人が剣道部で、一方は既に有段者だった。そこいらの男子よりははるかに頼りがいがある。
 夕方の五時といえば校舎はもっと賑やかでもいいはずだが、ここしばらくの事件のせいで帰りが早い。部活もそこそこに切り上げて皆で帰るようになっている。
 真冬である。心なしか外灯も寒々とした光を貧弱に虚空に放つだけで、かろうじて暗闇が辺りを閉ざすのを防ぐに過ぎない。
 四堂 匠はその下で白い息を震わせて待っていた。
「匠さん、ごめんっ! 遅くなっちゃって」
 空の言葉に、匠はにこにこして首を横に振った。二人の仲は初めから良かった。
「中で待ってればいいのに」
「どっちみち寒いもん。だったら明るい方がましかなって」
 分かるような、分からないような。そんな答えで匠は同じように静香にも笑った。
 高校生になり、匠は背が伸びた。均整の取れた体は柔らかさ、女性らしさを増しているように思える。
 顔つきからは「綺麗だ」と思うのだが、全体として匠は「可愛らしい」という印象に変わってしまう。多分に性格だろう。静香からすれば彼女は「甘えるのがとても上手」ということになる。??雅さんのような「お姉ちゃん」がいるせいだろうか。
 剣道部では入部する前から衆目を集め、その強さは近隣に知られていた。「密かな人気」も大したもので、神楽山のような元来落ち着いた校風でなければもっと公然ともてはやされていたかもしれない。
 手には革の竹刀入れと鞄を両手で提げていた。竹刀だけは特別な物らしく、登下校の時にはいつも手にしていた。
「じゃあ、急ぎましょ。匠さんが居れば心強いけど」
「そんなことないよ。やっぱり怖いもん」
 匠は頼りない答え方をした。そこが可愛げなのだが。
「だけど、遅くなるときは、本当に気をつけた方がいいわ」
 確信めいた言い方をする静香の方が、よほどしっかりしているように見える。それを聞いた二人は眉をひそめた。
「また、ありますか」
「相手からすれば止める要素がどこにもないじゃない。こっちはただ襲われるだけ。何もしていないも同然だし」
 傲然とさえ見える様子で答え、静香は匠にも言った。「匠さんも一人では帰らない方がいいわ。そうね、三人以上いればまず大丈夫だと思うけど」
「う、うん」
 忠告なのだが、静香の口調だと何やら逆に災厄の宣告に聞こえる。二人以下だとどうなってしまうのだろうか。と、悪いことを想像しがちになるのだった。
「…だけど、どうして三人なの?」
「今までのケースが一人か二人のときだったから。??でも私たちが襲われたら、安全なのは『四人以上』になるかもしれないわね」
「そ、そんな」
「だから、何か気になることがあったら、」
 静香は急に言葉を止めた。三人が三人ともそれぞれに表情を変えた。
 ちょうどその時、周囲に何かが動く気配を感じたのだ。既に日は落ち、辺りを伺うのも難しい。道も半ばである。他に人も見えない。
「…」
「…」
「…」
 暗がりの左右だけではない。後方からも間違いなく物音が聞こえた。??近づいて来ている!
「走るのよ!」
 静香が鋭く声を出し、それを合図に三人は駆け出した。そこまでは、この異常な状況の普通な行動と言えるかもしれない。
 だが、鹿島 静香が選んだ方向は??今来た道だった。三人同時に反転して逆に駆け登り出したのである。
「!」
 途中、確かに何者かが居た。
 しかし彼女らは三人であり、向こうは一人だった。しかも勢いも烈しく迫って来るのだ。
 衝突(・・)する直前に正体不明の人影は茂みの中に飛び込み、その姿が消えた。
「だ、誰か居たよ、ほんとに」
「気にしないで!」
 匠の声にも短く答え、静香は駆けた。少しでもここを遠く離れる必要を誰よりも察知していたし??正直な話、全力疾走で会話をする余裕など彼女にはなかった。運動能力は並か、それ以下の水準だと自認していた。
 結局元の学校にたどり着くまでには、静香の息は完全に上がっていた。匠や空は軽く息をついた程度である。
「なんか、戻って来ちゃいましたけど…これからどうします?」
 静香の背中をさすりながら、空が訊く。ある意味、ここまで情けない静香の姿を見るのは珍しい。ここに居るのが空や匠ではなかったら、もう少しは虚栄をはったかもしれなかった。
 呼吸を整えるのが手一杯で、すぐには彼女は答えられなかった。
「…、別の、道を…、下りましょう」
「だけど、そっちにだって待ち伏せされてたら」
「平気よ」
 短く答えて、少し咽(む)せる。それを無理矢理抑えるかのように強引な深呼吸をして、静香は続けた。
「あのまま先に駆けてたら何があったか分からないわ。だいたい敵(・)の傾向は分かったから、大丈夫。裏の道を使いましょう」
 初めて、彼女は相手のことを『敵』と称した。実際にこんな目に遭い、まさに彼らは彼女にとって敵になったのである。
 裏の道は道というほどのものがない。単に抜け道として生徒が通行して自然に道になったという程度だ。外灯などは当然なく、女の子三人が暗くなってから通る道では決してない。
「危ないよ?」
「先刻(さっき)の道の方がもっと危ないわよ。少なくともこっちには人が居ないわ。??だから(・・・)一番安全なのよ」

 …後になって三人で思い出しては笑える話になったのだが、このときは間違いなく必死だった。転ばないようにと言っていた静香が二回ほど滑り、運動神経抜群の匠でさえ一度となくひやひやさせられた。意外に堅実なのが空で、彼女は一度も転んだり滑ったりする様子もなく二人の後に続いた。
 フェンスの隅の穴から抜け出ると、そのあたりは住宅街になっていた。暗いのは変わらないが、ここなら大丈夫だろう。距離が多少あるが別の路線の駅にもたどり着けるはずだった。
 唯一、この事件の未遂として知られる一件である。

「…さすが、鹿島さん」
 未だに興奮覚めやらぬ匠からこの話を聞いた時、少年はそう呟いた。
 匠から電話がかかってきて、どうも長くなりそうなので「そっちに行く」と告げてから1分足らず。たちまち四堂家に到着した。そんなことができるのは二人の少年しかいなかった。そのうちの一人が御矢 政宗だった。
 「御矢」という姓は珍しいを通り越して奇特でさえある。朧気な御矢家の歴史を繙(ひもと)けば元は平安初期の武家のはしりらしい。貴族たちの警備役を任されていた時分だった。??真偽のほどは論じる以前の問題だが、みや(・・)は、宮に通じるともいう。理由(わけ)あって字を変えたなどと云々。
 当代の母子はそのようなどうでもいい話には目もくれず、読み間違えやすいこの姓を内心疎んだ。「ごや」だの「ぎょや」だのと、たいてい初対面の相手はそのように読むのだ。
 政宗もまた背が伸び、今では匠を大きく越えている。一時期はあまり変わらないほどだったことを思えば、彼女にとって少し意外な成長ぶりだった。もちろん彼女は、その方が嬉しかったが。
 顔立ちは優しくやや細めで、場合によっては頼りなく見えるときもあった。ただ、目だけは違った。眼鏡のせいかもしれないが、不自然なほどに鋭かった。
「予測の的確さ、判断の大胆さ、行動の果敢さ。あの人はそれを全部持ってる」
「…」
 できれば「無事で良かった」という一言でも言ってもらいたかった気がする。静香のことをただ感心するばかりの政宗を、彼女は複雑な心境で見ていた。
 当の少年は急に冷えた表情をして、何やら考えている。
「これで犯人たちのやり方が分かったな」
「う…ん」
 同意したというよりは単に相づちを打っただけだった。何やら訳が分からぬうちに走ったり下りたりで、当事者にしてみれば政宗の言う「やり方」など分かるはずがない。
 少年は、手振りをつけて続けた。
「連中は自分たちの集団を大きく二つに分けて学校周辺に散らばってる。手頃な獲物(・・)が通り過ぎてから一つがその後を追う。その足音に不安になって、追われる側はもっと早く先に進もうとする。…そして、前方には、さらに多い人数で待ち構える」
「??それじゃ、あのとき前に走ってたら」
 不安げな言葉に、政宗は表情を変えず頷いた。
「それこそ相手の思うつぼさ。奴らは狩猟(かり)の仕方を知ってる」
「じゃあ、しずちゃんは」
「あの人はちゃんと見抜いたんだ。だから後ろ(・・)に逃げたんだよ」
「だ、だけど、後ろにも誰か居たよ?」
「追いかけるの方には人数は要らない。きっと、後ろから来た人数なんて多寡が知れてたはずだ」
 母集団が有限なのだから、待ち構える側の人数を増やせば自ずと追いかける側の人数は少なくなる。小学生の算数だ。
「…」
 改めてその時の状況を整理されて、匠はようやく先刻(さっき)の静香の行動が分かってきた気がした。思えば、足音だけ(・・)が妙に五月蠅かった気がする。  が、それはそれとして。匠は改めて、不思議なものでも見るかのように少年を凝視した。
「?」
「ううん。すごいなあって。みやくん」
 静香の一連の言動もこうして説明されて改めて納得するが、見てもいない場面を簡単に解説する政宗はそれ以上にすごいと思った。昔から匠は政宗の話や言葉に感心させられるのだった。
「…いや」
 突然そう言われ、今度は政宗が言葉に詰まった。「そんなことより。とにかく、みんな無事で良かった」
 思えば最初にその言葉が出るべきだったのだろう。自分のことながら、そうした感情よりも新たな発見を先に置いてしまう自分の欠陥にばかばかしくなる。
 それが表情に表れたのか、匠は小さく笑った。
「あーあ。だけどそういうことなら、やっつけちゃえば良かったんだよね」
「馬鹿なこと言うなって」
 結果を見てならそう言えるが、あの場合は逃げるのが何よりも正しい行動だろう。匠は強い。それは確かだが、あくまでも然るべき場所で然るべき闘い方をしたときの話だ。今回は、それとはまるで違った。
 真面目な顔つきで少年は考え込む。
 …こうして火の粉が身近な所に降りかかっている以上、彼女の不安は決して他人事ではない。自分たちの不安の種である。
 警戒していればさほど問題はない気がする。政宗自身はそうした襲撃に遭ったことはないし、大部分の生徒がそういう立場だ。消極的だが、騒がずにいた方がかえって自然消滅する事件なのかもしれない。
 だが。??政宗は分かっていた。そういう大人びた上面だけの賢い判断を、何より自分自身が憎み、否定していることを。思考のさらに内面深くで、無抵抗な状態に対する強い反撥を腫瘍(しこり)のように感じた。
 少し大きめに少年は息をついた。自分の悪癖(・・)をそれで鎮めようとするかのように。
「逃げるのが一番利口だよ」苦笑して言った。
「そうよ、匠。あんまり変なこと言ってみやくんを困らせちゃだめよ」
 さりげなく雅の声が二人の会話に滑り込んだ。
「あ。お姉ちゃん」
「こんな所で立ってたら風邪をひくわよ? 上がってもらえばいいのに」
 真冬の凍てつく夜空が春の星座を映し出そうとしている。夜は、それなりに更けていた。
 雅を見るのは久しぶりな気がした。家も近く、学校も同じだったが、ただひとつ、学年が違った。ただそれだけのことで、疎遠になりがちだった。
 彼女はこのとき二年生で、来年には早くも最高学年になる。今年の春にようやく追いついたはずなのに、彼らの共有する時間はいよいよ足早に駆け過ぎようとしていた。
 一つ年上なだけなのに雅は落ち着いて大人びていた。端正な顔立ちは姉妹に共通した特徴であり、そして雅には、雅だけの微笑がいつも湛えられている??にこやかに笑うときの彼女は匠よりも子供に見える時があったが。
「いえ、時間が時間だし帰ります」
「そう言うと思った。はい、缶で悪いんだけど」
 そんな遠慮も、雅にとっては予想していたものだったらしい。彼女は缶ココアを渡した。半ば呆気に取られつつ政宗は受け取った。
「寝る前になっちゃうけど、暖まるから飲んでね。みやくん寒がりなんだから」
 匠には政宗は不思議なのかもしれないが、政宗にしてみれば雅が不思議な人だと思える時がある。…結局は、相手のことをどれだけ知っているかということになるのか。
「うん。雅さんも、気をつけて」
「私は大丈夫よ。ちゃんと部活も休止にしてるから」
 などと、はからずも美術部部長の肩書きを与えられていた雅は明るく答えた。…極端ではあるが権限の濫用とも言えないだろう。そもそも文化系は活動が曖昧である。
 が、ふと何かを思い出したように、彼女は眉をひそめた。
「そういえば、しろうちゃん最近どうしてるか、知ってる?」
「知らない。まあ、あいつのことだから、相変わらずだと思うけど」
 親しみと疎遠さが織り交ぜになると、こんな簡単でそっけない返事になった。
 三四郎とも廊下ですれ違う程度で、さほど出会う機会はなかった。時間が経つと共に、見えない障壁が彼らの間にも築かれてゆくかのようだ。
「そう…」
「どうかしたの?」
 雅の歯切れの悪さに政宗はやや不安になる。
「肝だめし」
「は?」
 あまりの意外な言葉に、匠と政宗は同時に声を上げていた。
「真冬の肝だめしですって。…何をしようとしてるか、分かるでしょう?」

 …

「何の用だ」
 つまらなそうに三四郎は訊いた。ここしばらく、会話らしい会話もしていない相手から不意に呼び止められれば不審にも思う。たいていの場合、良くないことを聞かされるのだから。
 そんな相手の様子を気にした様子もなく。政宗は、久しぶりに生まれた時以来の友人を見た。
 三四郎はこの時既に身長百九十センチを越える。たいていの人間となら頭一つ分、それ以上の差が生じる。自然、体格が細目に映り実際の強靱さを包み隠すようなしなやかさを身に纏っていた。我を張らずに我が道を往く性格も相変わらずだ。…が、ここ神楽山では周りと比較してどうしても粗雑に見える。制服を厭うこともなかったが、三四郎ほどに着崩した生徒はやはり他にいなかった。全てが相対的な問題なのだが、全体の中で三四郎は浮いた存在だった。
 政宗はこう切り出した。
「真冬の肝試しはどんな調子だ?」
 一瞬だけ三四郎は表情を険しくしたが、一つ息をつくと諦めたように笑った。明るく答える。
「いや、さっぱり。ここんとこ暗くなってからあたりをぶらぶらしても、なあんにも起こりゃしねえ。その割には匠の前には出たらしいな」
 匠がやはり三四郎に会いに来て、矢継ぎ早にしゃべって行ったらしい。最後に「変こと考えないでよね」と言い残して。
「そう言ったか」
 気ぜわしげな様子が目に浮かぶようで、政宗は小さく笑った。
「けどなあ」
 三四郎はあごを掻いて呟く。釈然としない様子だ
。 「匠なら返り討ちにできたんじゃないのか? って、俺は本気で思ったけどな」
 見かけは華奢だが、あの少女は剣技も格技も日々の精錬で磨きに磨き抜いている。多少の人数に囲まれたところでハンデ程度にしかならないだろう。匠の動きは三四郎でさえ抑えきれるかどうか。
「かもしれない」
 と、少年は匠本人と話した時とは違うことを言った。
「だけど匠の経歴に傷が付く。それに、他の人間が居ては行動の自由がない」
 こう言った所で匠を慰めることにはならないだろうから、本当のことを政宗は言わなかったのだ。この程度の嘘やごまかしは、許されていいと思う。
「経歴、か」
 その箇所を繰り返す。大げさな表現に一瞬だけ苦笑したが、三四郎は馬鹿にはしなかった。匠には誇らしい戦績があり、それは今も続いているのだ。「そうだな、運動部の人間が校外で乱闘騒ぎになっちゃまずいよな」
「で、傷の付く経歴に無縁の三四郎としては、どうするつもりなんだ」
「だから、肝試しだよ」
「出てきたら?」
「ま、その後はたぶん腕試しだろ」
 あっさりとそう言い切ると、三四郎は拳をごきと鳴らした。不吉なその音は、誰に向けられるものなのか。
 政宗は少し沈黙し、その様子を眺める。なにやら値踏みされているような気がして、三四郎は僅かに苛立った。
「で、お前は何を言いに来たんだ。とりあえず聞くだけ聞いてやる」
 何かを見透かすような目で政宗は相手を見上げていたが、やがて一言、こう呟いた。
「三四郎、今日は一緒に帰ろう」
「なんだと?」
 呆れたような、がっかりしたような、腹立たしいような、そんな感情が入り交じって三四郎は声を上げた。
「何でお前と一緒に帰らなきゃならねえんだよ。気持ち悪いこと言うな」
 と、失礼なことを言われても政宗は怒らなかった。口許だけで小さく微笑した。
「策がある」


(つづく)

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