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第三章

道 標(みちしるべ)

     1.

 「剣道は礼に始まり礼に終わる」という。
 匠は完璧な立ち居振る舞いでそれをこなす。しかしひとつだけ、他の人間とは違う動作があった。
 立礼の直前、胸の前で十字を切るのである。初めてそれを見る師範や部活の顧問は、まずそれを咎(とが)める。
「『神前の礼』です」
 口数寡く、匠は答える。そんな答えに面白くなさそうに眉をしかめる人間もいる。さまざまな反応が帰ってくるが、さすがにそれだけで失格ということにもならず、試合は行われる。そして、ほぼ確実に、匠は勝利した。
 中学2年、市大会で優勝。県大会の決勝で惜しくも敗退。
 匠にとっては天敵ともいえるこの相手は、去年は2回戦で匠と対峙し、やはり匠に勝っていた。二度戦い、二度敗れた。匠の心境は察して余りある。
「勝敗は時の運。結果を悔やむな。さらに精進せよ」
 報告を受けた兆老人は明快に言った。
 その頃から、匠は真剣を触るようになっている。
 中学生の匠にはあまりに重い代物ではあったが、練習の合間に竹刀を真剣に持ち替えて振るった。――正確には、「振るう」というより「振り回されている」感じではあったが…。

「いや、あれはあれでよい」兆老人は庭から道場を見やりつつ言った。話し相手は政宗である。
 日曜日の早朝にたまたま目が覚め、暇がてら威勢のよい声のする四堂家を訪れたのであった。
「わしの見るところ、匠が負けるのはためらいがあるからだ。迷いを生み、それが後手に回らせる。…匠は、常に相手に襲いかかってこそ本領を発揮する。待つのが苦手な子じゃからな」
 兆老人の論評を、政宗は正しいと思って聞いていた。確かに匠は、佳くも悪くも不器用だと思う。
「あの真剣の重さでは、一太刀一太刀、迷うことなどとてもできぬ。迷いを捨てて振り抜くしかない。また、振り抜くうちに自ずと迷いも消えるものだ。…あれを使いこなせるようになれば、」老人は目を細めて孫をみつめていた。「匠はまず、誰にも負けまい」
 政宗も匠の姿を見つめている。――そういえば最近、匠を見かけたことがなかったように思えた。部活で朝は早く、夕方は遅いとなればそれも当たり前かもしれなかったが。
(…)
 少しは変わった所もあるのだろうか。それを確かめるかのように、政宗の目は匠の動きを追っていた。
 やがて、老人が終了を告げた。
 礼を済ませ、匠はしずしずと二人の方にやってきた。
「そう急くな。力は少しずつ養わねばならぬ。急いで得たものは失うのも早いのだぞ」
 あまりに熱心すぎる匠に対して、老人は常に戒める。
「はい」
「と、毎度毎度、返事だけではないか」じろりと見やり、すぐに兆は苦笑いした。「政宗」
「はい?」
「たまにはこの子の相手をしてやってくれ」
「はあ」少年はあいまいに返事をする。
「おじいちゃんっ」匠の反応はより率直だった。訳が分からないことを言うな、と言わんばかりの慌てぶりである。
「いや、それでは邪魔者は去るとしよう」
 高らかに笑うと、兆は家に入った。
「元気そうだな、じいさま」
 その様子を見つめながら、感心するように政宗はつぶやく。
 かなりの高齢のはずなのに、ときとして壮年の若々しさすら覚えることがある。――気持ちが若いせいだろうか、などと大人びて思ってみたりする。
「…うん。それはうれしいけど」
 匠は縁側に座り込んだ。
 汗ばんだ全身から、女の子の香りがして少年を不意に戸惑わせた。
(…なんか、)
 匠は人気がある、と聞いたことはあった。政宗にはどうでもいいことのように思えたのだが、こうして見ると確かに――
「おじいちゃんとどんな話してたの?」
「別にたいしたことじゃないよ」
 まるでうろたえた所を見せないのが、この少年であった。
「今日は、ずいぶん早いのね」政宗の、休みの日の朝は遅いのを匠は知っている。からかうように言う。
「昨日、いつの間にか寝てたみたいでさ」寝癖をおさえつけながら政宗は答える。
 あまりにありきたりな会話。それぞれに、それぞれの成長は続いているが、二人の距離も位置も、まるで変わってはいないようだった。
「いっつも夜更かしだもんね、みやくん。――何してるの?」
 小学生のときから、完璧なまでの早寝早起きの匠らしい質問ではあった。
「何って…まぁ、いろいろだけど」
「ラジオとかテレビとか?」
 そういう話を、クラスで聞くことはあるのだろう。おそらく、全然話題にはついてゆけないのだろうが…。
「テレビは部屋にないし。ラジオは聴くときもあるけど…まぁ、本を読んだり、かな」
 …これを聞いてみる限り、政宗の『過ごし方』も普通とは言い難い気がする。
「お姉ちゃんはさ、よく絵を描いてるけど」
 なぜかここで雅のことが出てきた。「みやくんだって、描くでしょ」
「何で、そう思った?」
 ややトーンの落ちた口調は、それが少年にとってはあまり触れられたくない話であることを示していた。が、相手は気付いた様子もない。
「だって、どんなことでも練習しなきゃうまくなれないから」
 鍛錬がすべてを克服すると、匠は信じきっている様子だった。
「そりゃ…描く時だってあるけど、雅さんとは比較にならないって」
「そうかなぁ。とっても上手なのに」
 というより、匠から見れば政宗という少年はなんでも上手くできた。その一つ一つに、匠はいつでも感心させられてきたのだ。
 この点について一番不理解なのは、本人であるらしい。
「そう言われれば嬉しいけど」ほめてくれた少女に対しては小さく笑ったが、結局、どこか寂しげに政宗はつぶやいた。「分かるんだ。遠く及ばないってことも」
「そんな、」
「描くのは、あんまり…好きじゃないんだ」
 ぽつり、と付け加えられると、匠は何も言えなくなってしまう。
 せっかくの珍しい朝が気まずくなってしまった。大急ぎであれこれと考えて、
「えっと…、みやくん、今日、ひま?」
 …結局、口にできたのはそんな言葉だった。
「匠の方がずっと忙しそうだけど」
 確か、日曜日には町の剣道会かなにかの練習があるはずだった。
「ううん、去年で終わったから、日曜日は遊べるの」と、うれしそうに話すのは、やはり年頃の女の子らしいしぐさだ。
「終わった?」
「今年で3年生でしょ? だから」
 中学2年生までを対象にした練習会だったらしい。納得し、また、それは自分たちのことを考えるに充分な一言だった。
「来年で、もう卒業なんだな」
「うん。そう思ったら、あっという間だね。きっと」
「今年は受験か…」
 そういう風に考えが進むのも、政宗らしいのかもしれないが。
「お姉ちゃんも、ずっと勉強ばっかり」
「え?」
「受験だもん」
 正月も明けて、確かに受験生にとっては大事な時期であろう。…しかし、
「雅さんなら、好きな絵で進学できるじゃないか」当然の疑問を政宗は口にした。
 何度も展覧会で高い評価を得ている雅なら、問題なく美術科の課題なんてクリアできるはずだった。と、政宗はそう思っている。
「勉強してるもの」どう言われても、匠は事実を繰り返すだけしかない。
「…そりゃ、雅さんなら、勉強だってできる人だし」
 考えていた政宗は、一つ思い出して表情をこわばらせた。
「みやくん?」そのわずかな変化に敏感に気づき、匠は声をかける。
「あの約束、か」
「約束…。あ」
 彼女も思い出し、政宗を見上げた。「みんなで一緒にって、あの話?」
 ほんの少し昔の話しのはずなのに、ずいぶんと昔の話のように思えた。匠が泣いていて、政宗がなぐさめ、三四郎がからかっていた。あの頃は深い考えもなく、ほとんど思い付きで約束しただけだった…
「なんか、責任を感じるな」低い声で、政宗は自らを断じた。
「そんな――」
「雅さんなら、きっと覚えてるさ。だけどそんなこと、あのときは考えもしなかった」
 そして覚えている限り、守ろうとするだろう。雅はそういう少女だった。――それぐらい気づいて当たり前のことだったのに。
「みやくん、お姉ちゃんはそんな単純じゃないってば」
「けど」
「それにね、あの約束…私は今でも間違ってないと思う」
「いや。――やっぱり、みんな、同じではいられないんだから」
 既にそれぞれがそれぞれの道を進みはじめたような気がしている。それなのに、ただ、小さい頃の、簡単な思い付きの約束のためにわざわざ雅が遠回りするとしたら。
 それは政宗にとって堪え難かった。――言い出したのは、自分だったということもある。
「同じでいられないとしても」ぽつりと匠は言った。「少しでも長く、私は一緒にいたいと思うから」
「…」
 不思議な沈黙の時間が不意に訪れ、政宗もそれに倣った。
「みやくん」
「うん」
「…」
 そのまま、匠も黙り込んでしまう。何度か口を開きかけているところを見ると、言いたいことがあるのだろう。しかし言えず、ただ、だんだん頬が紅くなっていくのが見ていて分かった。
 深呼吸をする。口が開き、今度こそ音が発せられると感じた瞬間、…政宗は先に言っていた。
「分かった。言わなくていい」と、口早に。
 匠が見上げる。意外にも、政宗もこころなしか顔が紅くなっているように見えた。
「分かったから。…一緒に」少年はそれだけを、言った。
 匠は黙ってうなずいた。
 今は――これで、充分なのだと思う。
「私、…着替えてくる」
 軽やかに立ち上がり、ぱたぱたと駆け足で匠は消えてしまった。
 取り残された少年は、ほっとしたような、しかし途方に暮れているような、そんな様子であった。
「政宗くん」
「はいっ」
 唐突に別の場所から呼び掛けられ、思わず返事まで威勢のよいものとなる。
「朝ごはん、食べていきますか? だんな様がそうおっしゃってます」
「…アンナさん」
 いつも通りのメイド服姿のアンナが、そこにはいた。
「ふふ、政宗くんは女の子が苦手ですか」
 もちろん、これはアンナ自身の言葉だろう。言い返しようもなく、政宗はすねたようなそぶりを見せた。学校ではまず見ることのない表情かもしれない。
「ひどいな、見てたの?」
「はい。あなたたちのことは、ずっと」
「…」
 そう言ってくれる人が居るということは、きっと、とても幸せなことなのだろう。
「政宗くん」
「はい」
「いつかはちゃんとしないと、だめですよ」
 からかわれているのか、本気なのか。その判断すらできずにいる。そのあたり、まだまだ、政宗はお子様だった。


     2.

 一応障子越しに声をかけて、しかし返事を待たずに戸を開けて、匠は中に入り込んだ。
「お姉ちゃん、ちょっと訊いていい?」
「何?」雅は、机に向かい合ったままで応じた。
 純和風の部屋に、女の子らしい内装が広がっていた。少し不思議な感じがする部屋だった。
「お姉ちゃんが行きたい学校って、その…みんなで行けるところなの?」
「それは、大丈夫…と、思うけど」
 と答えて、雅は椅子の向きを妹に向けた。顔には少しいたずらっぽい笑みがあった。
「匠も覚えてたんだ。もうみんな、忘れちゃったのかと思ってた」
「ううん、ほんとのこと言うと、覚えてはいたけど忘れてたって感じ」匠は言葉も、行動も正直である。少々恥ずかしげに、「思い出させてくれたのはみやくん」と付け加えた。
「匠が一番熱心だったのにね」雅はからかうように言う。
 それについては、匠は何も言いようがない。
「…それで、あの約束、お姉ちゃんの自由をなくしてるんじゃないかなって」と、他のことを、控え目に言ってみた。
「それは違うわ」笑って、しかし雅ははっきりと否定した。
「わたしはね、みんなで一緒に行きたいって思う学校があるから頑張ってるの。あなたたちのせいでも、あの約束のせいでもないわ。自分が、行きたいから」
 穏やかな言葉の中にも強い意志を感じ取り、匠は一瞬圧倒された。
「だいたい、みんな、これから自分がどうなるかなんて全然分からないでしょ?」
「…うん」
 好きなことが一つ、ようやく見つかったからといって、それだけをやっていればいい訳ではない。大人になってみれば、まるで違った自分に気づくということもあるかもしれない。
「だから、そのときそのときに、精いっぱい頑張ることが大事なの。今しか、できないことなんだから」
 雅らしい言葉である。…が、本人は自分で照れくさくなったらしく、舌を出して付け加えた。
「なーんて偉そうに言っても、まずは私がちゃんと行けるかどうかが問題なんだけどね。――という訳で、こうして頑張ってるつもり」
 考えてみればこの約束は、逆に後から来る三人の選択肢を狭めかねない。
 言葉には表わさないが、年長の雅としては責任も感じているのだろう。お互いの状況や立場の違いが、匠にもなんとなく分かってきた。この約束は、決められた瞬間から単なる言葉遊びではなくなっていたのだ。
 だけど、と思う。
「お姉ちゃんは心配ないでしょ。…一番だめなのは、しろーじゃない」当然のように匠は言った。
 姉が成績で困っているという話は、本人からも周りからも今まで聞いたことがない。学年が違うのであまり詳しい話は聞かないが、学校でも両手の指で数える中には充分入っているのではないだろうか。…それよりも。
 今となってみれば、三四郎が雅や政宗と同じ学校に行くということが可能なのかどうか、本当に疑わしい。少なくとも公表されるテストの点数などからは、その差は致命的なように思えるのだ…が。
「さあ、しろうちゃんは賢い子だから何とでもなるって思うけど」
 信じられないことを雅はさらりと言った。
「賢い?」間違いと思われる箇所を、匠は繰り返す。
「だけどもちろん、頑張らないと駄目よね」
 雅は相変わらずである。なんだか、結果まですべて知っているかのように思える語り方だ。
「…まぁ、そっちの方は私たちで何とかするね」今の姉に余計な心配はさせたくないので、匠はそう言ってやる。
「あ。そうだ、お姉ちゃん。学校の名前、まだ教えてもらってないよ」

「…『かぐらやま』、か」
 話を聞き、三四郎はつぶやいた。
 翌日の学校。雅を除いたいつもの三人が集まっていた。――今となっては、『いつもの』というのが完全に過去のものになってしまったような気がするが。
「知ってるよね」匠は表情が硬い。
 かぐらやま――神楽山。その不思議な名の由来は単純で、学校の建つその場所を昔からそう呼ぶからであった。確かに小さな山の麓になるのだが、その山の地理的呼称は『笠原』という。一般にはそれが『神楽山』と呼ばれており、静かな町並みの象徴となっている。
 戦前から続く名門と言われた学校で、公立とはいえ近県にもそう類のない進学校である。――だけではなく、学校全体で「文武両道」をめざしているのだろうか。クラブ活動でも時に全国レベルの実力を示して『古豪』扱いだった。
「俺が神楽山に入るなんて、想像すらできないけどな」
 あっさりと三四郎は認めてしまった。
「それじゃだめなの」やはり、と内心思いつつも匠は釘を刺すことにした。「しろー、まだ一年あるから。頑張ろ」
「本気で言ってんのか?」いよいよ三四郎も驚いてみせる。「俺が誰だか、分かってて言ってるんだろうな」
「当たり前じゃない」
「お前らが行くにはちょうどいいじゃないか。俺は、いいから」
 三四郎の本音である。神楽山なら政宗にとって不足もなく、匠にもまあ申し分はないはずだった。しかし、――俺にはどう考えても似合いそうにない。
「約束したじゃない」だんだん、匠の口調は強さを増した。
「そうだったっけな」
 実のところ、忘れた訳ではない。ただ、その記憶自体が無意味だった。
「けど、言い訳みたいになるが、俺にとっては納得づめの約束じゃなかったんだぜ、あれは」
 それは匠も分かっている。しかしそれでも、こう言わざるをえなかった。怒ったように――
「男らしくないわ、しろー」
「…」
「高校まではみんな一緒の学校に行くって言ったんだもの。ね?」
「あれは、お前が泣いたからだ」
「――そうよ。そうだけど、」
「だいたい神楽山に行って、俺に何か得があるのか?」
「…」
「お前は、政宗や雅さんと同じ学校に行けるんだからそれでいいだろうけど」
「しろーは、私たちと一緒じゃ、いやなの?」
 そんなことない。
 ――と、昔なら簡単に答えられた問いだが、今となっては、難しいように三四郎には思えた。
「…まぁ、俺をつきあわせる必要は、もうないだろ」
 と、それでも、はっきりと言うのは避けた。
 匠は効果的な反論が思いつかなかった。
 そもそも、三四郎が本当に神楽山などに行けるのかどうか、まるで確信が持てずにいるのだ。説得するにしても、どうしても迫力を欠いた。
「みやくん、みやくんも何とか言ってよ」ついに匠は政宗に役目を投げ渡した。
 今まで無言だった政宗は、やはりしばらく無言でいた。考えるように、相手の意志を見透かすかのように、じっと三四郎を見ていた。
 ややあって、
「三四郎」と切り出した。
「…ああ」
「雅さんは、自分の好きな絵で進学することもできたんだ」
 三四郎は無言のまま。
「だけどそうしなかった。――なぜだと思う?」
「それが約束、か」
 少し考え、ぽつりとつぶやくように三四郎は答えた。
「きっかけはこの際、問題にならない。ただ、今はもうそれだけの重みがある」
 たとえ発端が遊び半分で、真剣さに欠けたものであったとしても。
「…あとは、お前がその重みをどういう風に受け止めるか」
 政宗の言い方を、匠は『うまい』と思った。これを避けるようでは、三四郎は三四郎ではない。
 (さすがにしろーの動かし方、よく知ってる)と、そういう感心のしかたをした。
 無言でうなずき、三四郎は背中を向ける。
「俺は、ここまでしか言わない」重ねて、静かに背中に投げかけられる声。
「――政宗」
 その場を離れようとした三四郎は、思い出したように肩越しに振り返って言う。
「?」
「俺に、やれるのか、な」

 大柄な体をややうつむきかげんにして、発せられた少年の問いかけ。
 それに対して、相手の少年の答えは不思議なくらいに明快だった。短く。
「違う。お前だから。――できるんだ」

 その声、その言葉に驚き、匠は思わず政宗を見やった。
 ほんの微か、笑っていた。ただそれだけなのに、その表情が、とても大切なもののような気がした。自分の間違いに少女は気づいた。そして少し恥ずかしくなった。…今の言葉、今までの言葉は、すべてこの少年のほんとうの気持ちなのだ。
「ふん。買いかぶるなよ」三四郎は苦笑して、平然と歩いて消えた。

 しばらくしてから、政宗は隣の匠に静かに告げた。
「三四郎は、約束は守るよ」
「うん。そうだったね」
「雅さんとの約束なら、当たり前だろ?」
 ――そうじゃなくて、みやくんの期待に応えないはずないと思う。
 口にすることはせず、そして、そっと匠は思うのだ。…この二人の間に居ることができて、良かった、と。

 …
 三月。またもこの季節は訪れた。
 卒業式。ひと足先に雅だけが三人と別々の学校に行く。それもまた、いつものこと。
 今度の卒業は別れの多い卒業。試験の結果や技量の差で仲良しが離れ離れになったりもする。少年少女らがほんの少し体験する人生の厳しさ、かもしれない。

「みんな、先に行って待ってるからね」
 三年前と同じ台詞を、雅は言った。
 あの時は、匠がただ泣いて悲しんでいた。
 今は違う。――残る三人とも、離れ離れになることなど考えてもいなかったから。
 雅は志望通りに神楽山高校に合格して、この4月から通学する。相変わらずの笑顔は、近ごろさらに輝きを増しているかのようだ。四堂家の姉妹は、間違いなく二人ともが美形の資質に恵まれていた。ときとして、旧くから少女らを知る二人の少年たちですら、とまどってしまうほどに…
「…来年」
 静かに、政宗が言った。「神楽山で」
 それは、まるで既定の事実を告げるかのような口調。
「待っててね、お姉ちゃん」匠が後を付け加える。
 三四郎は無言で、やや傍観気味にその様子を見ているように見えた…が。
「しろうちゃん?」雅は呼びかけてみる。
「ああ。…『かぐらやま』、ねぇ」
 鼻の頭を指でかきながら、三四郎はつぶやく。「――女の子の制服は、あんまりかわいくなかったっけ」
 それが、三四郎流の宣誓だった。


     3.

「御矢君。がんばりましょうね」
「…」
 そのまま月が変わり、四月になり、クラスは変わらずともクラス役員の交代はある。――だが、そんなことは、実際に行われるまで考えもしていなかった。
 当の本人が、委員長に選ばれていた。
(…何だか、はめられてる気がする)
 と思った。すべて手順が決められているかのようだった。黒板に政宗の名前が上がり、投票になり、自分の得票数が優勢になってゆく。本人の意思とまったく乖離した状況が「作られていた」。
 それだけならまだ、単なる思い過ごしと思ったかもしれない。
 しかし、副委員長の名として「鹿島 静香」の名前が出たときに、勘のよい政宗には察しがついてしまった…
 今、政宗に話しかけたのは、その静香である。
「本当、もっと早くこうなってればよかったのかも」
「俺は、なりたくなかったんだけどな。別に」
 めんどうなことしか降りかかってこない役目である。それでも何度か経験した――してしまった、こともあるが、『よかった』と思えたことは一度としてない。
「なるべき人がなったのよ。これがクラスの意思なんだから」
 その『クラスの意思』を皆に吹き込んだ人間がいるのではないだろうか。しかもその人間は、今しゃべっているこの少女なのではないか、と政宗は思っている。
 とはいえ、別に静香に対して腹を立てる気にはなれなかった。…しかし、
「鹿島さんが委員長の方がいいかもしれない」その手際の良さから、皮肉半分で政宗は言ってみる。
「それはだめ」
 いつもながら明快、即座に返事があった。
「どうして?」
 まさか『自分は黒幕でいたいから』なんて言うのだろうか。などと思っていると、
「こういうことは、男の人を立ててあげないと」真顔で、静香はそう返した。
「…ふうん」
「わたしがこう言うの、そんなに変?」即座に、かつ不満げな声が上がった。
「誰もそんなこと言ってない」
「――そうね。そういうことにしときましょう」
 緊張感、何やら探り合いまで含んだ会話。しかし、政宗は不思議とそれを抵抗なく受け入れていた。要するに『呼吸が合っている』ということなのだろうか。
 …そして、一回目の学年会議。H組代表として、政宗は三四郎の姿を見かけることになる。
 ほとんど陰謀じみているように思えた。どうやら、二人して『副委員長』に試されているらしい。推測が、さらに確信に近づいた。
「なんだお前。こういうの、嫌いじゃなかったっけか」あまり思わしくない幼なじみの顔を見かけて、三四郎はからかうように話しかけてきた。
「そういうお前はどうなんだ」
「さあな。よく分かんねえけど、とりあえず座っとくだけさ」
 …なるほど、それが三四郎らしい。皮肉ではなく政宗は思った。
 些細な疑問や不審など一切気にせず、状況をそのまま受け入れてしまえるのが三四郎の度量というものだ。…根が単純なだけなのかもしれないが。何かと心配性の政宗にはどこかうらやましい所だった。
「まぁ中学最後の、記念にはなるだろ」
 そう付け加えて、三四郎はあくびをした。

「…こら、起きろ。烏丸」
 ぴくり、と三四郎は体を動かした。が、それだけである。
「ほんっとに、平和なやつだな。せっかく起こしてやってんのに」
「…別に頼んでない」
「と。何だよ、起きてんじゃねーか」
「今…起きた」
 とはいえ、半分寝ているような声だ。
「それにしたって、お前ぐらいだよな。この時期に教室で寝てるなんてさ。まるでマンガだ」
 面白そうに声が笑った。
「栗山…か」
「ちぇ。今ごろ気づいたのかよ」
 夕方、夏近くである。放課後だいぶ経っているはずだが、まだ陽射しは残っていた。
 三四郎の前の座席に、相手は座り込んだ。
「とりあえずお前を見てると、安心するよな。みんな受験、受験で忙しがってるのに」
「後悔するぜ」
「説得力ねーんだよ」
「勉強は、してる」
「寝てるじゃねーか。毎日、欠かさず、ご丁寧に」
 事実、三四郎は毎日寝ていた。教師らもいい加減にさじを投げてしまっていて、何も言おうとしなかった。
「…けどさ、高校には行くんだろ? もう少し真面目にやれよな」
「だから、勉強してるって」
「ふん、何の勉強だか」
 まるで信じてくれない。
「それにしたって、ほんともったいない。頭はともかくそれだけ体に恵まれてるってのに」
 三四郎は今や身長180センチを大きく越えていた。しかも今なお成長中である。これで部活も何もしていないというのは――
「犯罪だ」断罪する。
「そこまで言うかよ」さすがに、あまりいい顔はしない三四郎である。
「俺なんか、ぜんぜん大きくなれずじまいさ」
「ああ、それは言えてるな。ぜんぶが未発達だから、お前は」
「ひでえ」
「でもまぁ、あれだけ跳びはねられるのもその軽さならではだな」
「烏丸も、バレーなんかじゃなくてバスケやってりゃよかったんだよ。嫌な先輩もいなかったと思うけど」
「それは、女子の話だろう?」
 三四郎が話している相手は、確かに、一応セーラー服を着ていた。

「『栗山 翆』。やせっぽちで、出るところも出てないしへこむところがへこんでもない」
「な、何だよ突然。そりゃ思うのは勝手だけどさ、口には出すなよ、口には」
「それにしても、ここまで体の成長のない女も珍しいと思うぜ」
「…面と向かってそこまで言われると、不思議と怒る気力も失せるな」
 こういう言いあいができるぐらいに仲は良かった。この小柄な体だが、バスケでは俊敏な動きとジャンプ力で高得点をたたき出していた。言葉も動きも性格も、とにかく軽快なのが好感が持てる。
 日に焼けて、髪を思いきり短くしている。言葉遣いも甚だまずい。
「俺と烏丸はまあ、せいぜいおんなじ学校かな」翆は疑いも抱かず、決めてかかっていた。
「結果で見せてやるよ」何を言ってもばかにされそうなので、三四郎は短く答える。

「お前が俺よりもいい学校に行けたら、そうだな、何でも言うこと聞いてやるよ」
「なめられたもんだ」
「へええ。ほおお。よく言うじゃん」好戦的な性格らしく、翆はにやりと笑った。「よおし。お前が俺と同じか、それ以下の高校だったら俺の言うことは何でも聞けよ」
 典型的な「売り言葉に買い言葉」状態である。しかも自分で勝手に売り買いしている…。
「好きにしろ」三四郎は言い、「――しかし、それにしても」
「なんだよ。マジな顔して」
「上とか下とかって、何なんだろうな、まったく」
「『偏差値』ってやつだろ? まぁいいんじゃねえの。あれだって、確かに人の値打ちのうちさ」
「割り切ってるんだな」三四郎は、少し感心した。
「けどさ、あれで全部って訳じゃないし」
「それもそうだ」
(…それなら、雅の待つ神楽山には何があるのかな)
 話しながら、三四郎は少し考えた。雅はなぜ、神楽山を選んだのか。何があると思って神楽山にしたのだろう。彼女が偏差値だのといった『数字』で学校を選んだとは、何となく三四郎には考えられなかった。
(分からないな)
 今の三四郎の率直な感想だった。今度本人に訊いてみてもいいかもしれない。どのような答えであれ、きっと考えの参考にはなるはずだから。
 神楽山には何があるのか。
(とりあえず、雅が、いるよな)
 それは、明白な事実。
「――何だよ、黙りこくって」翆が怒ったように言っていた。
「あ?」
「寝るなら家に帰ってからにしろよ」
「そうだ、俺はただ単に寝てた訳じゃなかったんだ」今さら、思い出したように三四郎は言った。
「はあ?」
 不思議そうな顔をした翆が上げた声の直後に、
「あ…烏丸さん」
 がらりと戸が開いて、別の女子が入ってきた。
「あれ? 『アリス』じゃん」
 翆がそう呼んだ生徒は、ちっとも『アリス』というイメージではない。髪は短めで翆に似ているが、全体から感じられる雰囲気は「おっとり」である。顔つきといい、少し大きめの眼鏡といい、おとなしくてただ真面目そうな印象を受ける。
「あの、終わりました、烏丸さん」彼女はおずおずと三四郎に告げた。
「何かやってたの?」と翆。
「あのね、体育祭準備の話なの。栗山さん」
「…今から?」
「どうせみんなめんどくさがって、何もかも遅れるだろうが」あくび混じりに三四郎が引き継いだ。「――てなことで、計画ぐらいは早め早めに立てておく、という訳だ」
「そういやお前、偉そうに委員長なんてやってたっけ」一応、感心したように翆は言いかけた――が、「で。それでなんでお前は寝てたんだよ」
「だって、有栖川が一人で考えるっていうからさ」
「大変だね有栖(ありす)。こんなやつと一緒で副委員だと」
「一人でやる方がうまくいくんだよ。なあ有栖川」
「は、はい」
「まぁ、そんなことだろうと思ったけど」翆は鼻で笑った。
「でも、烏丸さん、私の苦手な会議とかは全部ちゃんと出てくれますから」
「ああ、あれは座ってるだけだし」
 出された助け舟を、三四郎は自分で沈めてしまった。
「…。あの、それで、終わったので…わたし、帰ります」彼女は告げる。
「あ、送ってく。待ってたんだよ、お前のこと」三四郎は立ち上がった。
「え…」
「寝てただけじゃねえかお前。調子のいいやつだな」
 翆は容赦がなかった。
「待ってたら、寝ちまったんだった」
「そんないい加減なやつが、よくも送ってくなんて言えたもんだ」彼女はため息をつき、「ま、いいや。こいつじゃ安心できないからさ、俺も送ってくよ有栖」と、言った。
 まだ暗くなってないし、一人で帰れます。
 とは、二人のやりとりを見ていたら言えなくなってしまった。これだけ遠慮のない会話ができる男女、というのはうらやましくさえ思えた。彼女――『有栖川 空』はこの点、二人を見習いたい気持ちでいた。

 …
 作業は同じでも、このように賑やかな教室もあれば、妙に静かな教室もある。
「御矢君はどこの高校に行くの?」
 その静寂を破り、いきなり訊ねてきたのは静香の方だった。――もっとも、この人の言うことはいつも突然だ。と、政宗は思ったりする。
 この時期、何かと話題が進路の話になるのは、担任との最初の面談が行われているからだろう。成績と本人の志望とを比較して、場合によっては「成績」か「志望」かを修正せよということになる。
「神楽山」
 短く政宗は答える。既に決まっていることなので淀みもためらいもない。
「国立とか、私立じゃないのね」
 そう訊いてくるのは、静香自身の選択肢にはそれらが含まれているからだろう。
「国立は遠いし、私立は金がかかる」
「…お金」
 その名詞は、静香にはひっかかる言葉だったらしい。
「まぁ、それはどうでもいいかもしれないけど、ほんとのとこ、そこまで実力がない」
「『行きたい』って本気で思ってるの?」
「…。そうでもない、けど」
 他の進路など、本気で検討したこともなかった。そのせいか静香の斬り付けるような問い掛けにも、あいまいにしか答えられない。
「要するに、行く気がないから実力もつかないのよ」
 率直なまでに静香は指摘してみせた。
「かもしれない。だけど、俺が決めたことだから」
 政宗は、やや控えめに反論する。「鹿島さんにそう言われるのはいい気がしない」
「…そうね。ごめんなさい」
(もったいない)小さく静香はつぶやいた。
「え?」
「何でもないわ。それにしても、神楽山には何があるのかしら」
「…」
「悪い学校じゃないとは思うけど。御矢君が神楽山を選んだ理由って何?」
「…」
「――何よ。答えられないの?」
「答えられないことだってある」
「御矢君は、わたしの質問にはいつもちゃんと答えてくれるのに」
 ずいぶんと勝手なもの言いだな、と思う。
 しかし、なぜか、静香がそう話すのはとても『似合っている』ように、政宗には思えた。――声の質なのだろうか、それとも端正な容姿のせいなのか。匠のように長い髪を頭のリボンで一度まとめ、背中に流している。姿勢がいいのでいつも滝のようにまっすぐに流れ落ちている気がした。
(やっぱり、珍しい人だ)
 漠然と思いながら、言葉を慎重に選んで政宗は答えた。
「これは、たぶん鹿島さんを満足させる答えじゃないから」
「…」
「だから、答えたくないし、他に答えようがない」
「…ふうん。そうなの」
 それ以上は、他の人間にしゃべることではないと感じた。四人だけの問題のはずだ。
 静香も、それ以上追求しなかった。訊く側にもためらいを感じさせる、言葉の重みというか、拒絶の意志が宿っていた。
「で、鹿島さんは、どうなの?」今度は政宗が訊いた。純粋に興味があったというより、質問の矛先をかわすつもりだった。
「わたしはね、…ま、考え中ってとこね」
「国立か私立で、とか」
 彼女の学力ならば、どちらを目指すにしてもさほど問題はないような気がする。
「そうね、そのつもり。――だけど」
「だけど?」
「だから、――御矢君はどう考えてるのかなって思ったんじゃない」
「俺の考えが、鹿島さんの役に立つかは分からないけど」
 これはいくら何でも、少々皮肉を含みすぎた言い方だったかもしれない。
 ――じゃあいいわよ。もう聞かないから。
 政宗は相手の反応まで予想した。しかし外れた。
「いいのよ。聞きたいんだから」
 ほんの一瞬だけ、静香の反応は滞っただけだった。
「…そう」
 『鹿島さん』という人は政宗にとって難しい相手だった。しかし展開がこうなってしまった以上、何かしら話さない訳にもいかない。
「結局、自分がどうあるべきか、何がしたいか、で決めるしかないんじゃないかな」
 言いながら、
 では、自分はどうなんだ。
 と、一瞬だけ考えが途切れた。
「それにしたって、良いとことか悪いとこがあるんじゃない?」
「良い悪いにだって、いろいろあるよ。…服とか靴と一緒で、自分に適ってなかったら、どんなに見た目が良くたってつらいと思う」
 このたとえを聞くと、ますます静香は複雑な表情をした。が、それは、
(やっぱり、お洋服も自分で選ばないとだめね)
 思わず本題とはまるでかけ離れたことを考えてしまっていたからだった。
「…でも」政宗は改めて静香を見た。
「?」
「たぶん鹿島さんは、どこに行っても鹿島さんだから」
「な、何よそれ」
「周りがどうであろうと、自分らしくいられる人だと思う」
「…」
「だから、どこであろうと、あまり関係ないような気がする。――後は、自分がそこに居ていいのかどうかでしかなくて」
「着心地かしらね、御矢君の言い方だと」静香は小さく笑った。
 少ししゃべりすぎてしまったかもしれない。相手のその言い方に、かえって政宗は警戒した。またも「発火」してしまいそうな気がした…
「御矢君」いつも反応が機敏な彼女にしてみれば、これはかなり鈍重であった。ようやく次の言葉をつぶやく。
「なに?」
「他人(ひと)のことはよく見えるのね、やっぱり」
 それを訊いて政宗は何か言おうとしたが――
「とっても参考になったわ。ありがとう御矢君」
 …いつもの調子で、彼女は会話を終わらせてしまった。これが『鹿島さん』であった。


     4.

 秋の始まった頃の実力テスト。
 三四郎は帰ってきた結果の紙を一目だけ見て、鼻で笑うと握りつぶして捨ててしまった。教室じゅうの人間が見ている前で、である。
 担任の教師は、ため息しかつかなかった。何人かの目線は気遣わし気ではあったが、ほとんどは嫌なものでも見ているような、どこか憐れみさえ感じさせる目だ。
「烏丸っ」
 放課後、さっさと帰ろうとする三四郎の目の前に、勢いよく現れたセーラー服が一人。

「何だよ、栗山」
「さっきの態度は気に入らねえ。お前はそれでいいかもしれないけど、他の連中にはあれだって大事なんだぞ。目の前で大事なもんぐしゃぐしゃにされて、誰が喜ぶんだよっ」翆は一気にまくし立てた。
「すいぶん、騒がしいな」思わず口に出して、三四郎はつぶやいてしまう。
 ネコのように、翆はふーっっとうなり声を上げた。
「いや、お前が正しい。確かにな、悪かったよ」
「真面目に答えろっ」
「充分、真面目だ」
 相手が自分の非をすんなり認めてしまっている。しかし怒りの方はなぜかおさまらず、翆は荒い息で手を握りしめたり放したりを無言で繰り返した。
「だけど、はっきり言って俺には意味がない。かけらもない」淡々と三四郎は話す。
「…!」
「とりあえず受けてはみたけど、まぁ思った通りだったからな。一目見て、それで充分だった」
「やる気があるのか、お前」翆はまだまだ怖い顔をしていた。
「お前が信じようとしないだけだろうが」
 そう言われてしまうと、少々反論に苦しむ。
「…信じられるかよ。だってお前寝てばっかりだし」
「それじゃいつ寝ろってんだよ」言いながら、三四郎は大きくあくびをした。
「夜寝るんだろ、馬鹿! もう勝手にしろ!」
 言いたいだけ言うと、現れた時と同じく翆は去っていった。
「…ちぇっ」
「栗山さん、心配してるんじゃないですか」
 振り返れば、そこには有栖川 空がいた。会話をするにはすこし距離がありすぎるような気がしたが、これこそがクラスと三四郎の距離、ともいえるかもしれない。
「ああ。それぐらいは、俺にだって分かるさ」
「それなら――」
「三カ月先かな」ぶつぶつと三四郎は言っている。
「え?」
「だめか。ぎりぎりなんだよ」
「あの、何の話でしょうか」けげんそうに、空は訊ねた。
「なあ有栖川。結局、俺は何を言っても信じてもらえそうにない。結果を出すしかないだろ」
 三四郎は表現こそ投げやりだったが、論理的に聞こえた。それが空には少し意外だった。
「ところが今の俺にはその結果を出すのに力が足りない。馬鹿に特効薬はない。時間をかけるしかないだろうが」
「…あの、ひょっとして」
「何だよ」
「寝ないで、勉強…やってるんですか?」
「そんなことないさ。昼間寝倒してるからな」
 呆気にとられている空を置いて、三四郎は廊下を歩きだした。

「人事を尽くして天命を待つ」
"Heaven helps those who help themselves."
「…『天は自ら助くるものを助く』」
 兆老人が最初の言葉を話し、アンナが流暢に諺をしゃべる。
 それを訳したのは三四郎であった。
 冬、再び訪れる。とある日曜、風はなし。
 庭に面した縁側で、中央に老人がどっかとあぐらをかき、その隣に三四郎が同じようにあぐらをかいていた。アンナは庭に立ち、風の吹き残した枯れ葉を箒で集めていた。
「三四郎くん、勉強の成果が出てます」からかっているのか、本気でいっているのか。アンナはそう言って笑った。
「三四郎。努力というものは尊い。しかし、悲しい哉。必ずしも報われるとも限らんものだ」
「はい」
「悔いだけは、残すなよ」
「そのつもりだけどね。もちろん」
 と、くだけた調子で言いながらも三四郎の表情はどこか硬い。
(ほんとに届くのかな)
 昨日の夜、いろいろと計算はしてみたものの、どうも合否ラインぎりぎり、あるいはそれ以下という所までしか到達しそうにないように思えた。――それでもここまでたどり着いたのは大したもので、年末の模擬試験を採点した教師たちは、誰もが答案の名前と採点結果とを、何度も何度も確認し直した。
 三四郎にしてみれば、ようやくテストを受ける所まで力が蓄えられてきただけに過ぎない。教師らの反応が大きく変わるのを見て、かえってうっとおしく思えた。要するにこいつらは数字しか見ていないのではないか。そう暴露しているようなものだ。
「ふん、まぁあいつらのことはどうでもいいさ」あっさりと三四郎はそれらのことを視野から外した。他に考えることはいくらでもある。
 今の三四郎には、まだ神楽山は遠いのである。時間との戦いということになりそうだったが、そう思うとかえって別のことに時間を使いたくなった。
 こうして、兆老人と共にある時間を選んだのは、この人が三四郎にとって「師」とする存在だったからだろう。こうして二人並んでいると、確かに老匠と若弟子のようにも見えた。
「ならば、もう、わしとしては言うこともない。ただひたすらに励め、三四郎」兆老人は笑った。
 三四郎が欲しかったのは、言葉ではなかった。こうして好きな人たちと過ごせる時間だった。
 アンナがマッチを取り出して、かき集めた枯れ葉に火を点ける。
 懐かしむほどの過去を積み重ねている訳ではないのに、なぜだか、その光景は少年の心の中の風景と重なった。
(たき火か…)
 そのとき、この庭には四人の子供たちがいた。その中の一人は自分だった。
 考えてみれば不思議なものだ。昔は、何もなくてもいつの間にか四人になっていたのに。今ではそれぞれにさえ、たまに会う程度でしかない…
「なんだか、疲れてるみたいです。三四郎くん」
 ぼんやりと、静かにゆらめく炎を見つめている三四郎に、アンナは言う。
「…かもね。ま、慣れないことやってるからなぁ」
 三四郎はいつもこんな調子だった。しかしそれにしても、その「慣れないこと」をここまで集中して続けることができるのだ。老人もアンナも、口には出さないが共通の認識があった。――この少年の、類稀なる資質の高さについては。
「おはよ、しろうちゃん」
 何となく三四郎が期待していたことだが、ここでようやく雅が姿を現した。
「ああ、おはよう。雅、…さん」
「どう、ちゃんと頑張ってる? やればできるんだから、しろうちゃんは」
 不思議なもので、この一年の年齢差が、社会の枠組みの中で大きな差を生んでいた。高校生になってからの雅は明らかに少年より大人びているように思えた。
「しろー、来てたんだ」
 匠もやって来た。パジャマに外出用のジャンパーを羽織っているのは、明らかに寝起きの様(さま)だ。さすがの匠も今は早寝早起きという訳にはいかないんだな、と三四郎は思った。
「どうかしたの? なんか、珍しいんじゃない。しろーが家に来るの」
「ふん。匠は、俺じゃなくて別のやつが来てた方が嬉しいんだろ」
 毎度のパターンなので、匠は怒るというよりも、呆れた。
「誰もそんなこと言ってないでしょ。なーんか、ムキになるのよねしろーは」
「何に、だよ」いつもと違う反応に、少年の方が受け手になってしまっている。
「私の言うことに、よ。今のなんか、しろーに訊いただけなのに。何でみやくんが出てくるの?」
「ほー。俺は別に政宗のことなんて一言も言ってないぜ」かかった、とばかりに三四郎はにやりとする。
 しかし匠の次の一撃で、完全に逆襲されてしまった。
「子供ね、しろーは」と、一言。
「がぁあん」
 大げさに、心の痛手を声に出して三四郎は畳に仰向けに倒れた。
「今のは匠の勝ちね、しろうちゃん」雅はくすくす笑っている。
「…まいった。もう、この手はだめかな」三四郎も吹き出し、「よっ」と掛け声と共に一瞬で立ち上がった。がっしり、というよりもすらりとした長身だった。
「また、背が伸びたのか」少々呆れるように兆老人が言う。
「かもしれない。最近、ちゃんと測ってないからなんとも」
「あ、気をつけないと――」
「いてっ!」
 アンナの声も間に合わず、鴨居に頭をぶつけてしまっていた。
「…『かっこ良くなったよね』って言おうとしたけど」うずくまる三四郎を冷たく見下ろして、匠はつぶやいた。「やっぱり、『面白い人』よね。しろーは」
「いててて、家でもついついやっちまうんだ」
「頭悪くなるよ」
「そうなったら、いよいよ神頼みかな」
「だめよ」
 即座に声があったので、皆が一斉にその方向を見てしまっていた。


     5.

「それは、だめ」
 頑なにそう言うのは、雅だった。
 その口調はどこか冷淡にすら感じて、雅が自然に帯びている色彩が瞬時に色褪せてしまったかのように思えた。
 沈痛な面持ちでそれを見つめているのは四堂家の人々だった。三四郎だけが、訳が分からず呆気にとられて急変した雅を見ている。――少なくとも、雅が本気で(・・・)そう言っているのだけは分かった。しかしそれがなぜなのかが分からない。
「どうしたんだよ、雅…さん」
「どうかしてるのはしろうちゃんのほうだわ」
「?」
「神さまなんていないのに」
 真顔で、雅がこう断言すると、本当に怖い気がした。口調は穏やかなのに、感じる印象はとてつもなく寒い。…そう。怖いというより、寒かった。
「…なんで、そうやって決めつけるんだよ」
 実のところ、ああ言いはしたものの三四郎も神が存在するなどと信じていない。しかし、このとき、思わずそう訊いていた。雅の頑なさにかえって惹きつけられたように…
「だって…いないもの」
「だけど、それって、人それぞれじゃないのか」
「…」
「それでも、雅には、神様は…いないんだ」
 三四郎の声が低くなっていった。――薄々感じていた。このままでは、『触れてはいけないものに触れてしまうことになる』と。
「いないわ」雅は繰り返した。
 答えがこれだけである限り、三四郎としても次の一言を言わずにはいられない。
「なぜ?」と。ただそれだけ。
「いないことだけは、はっきりと知ってるもの」
「…」
 『神の不在を確信した』というのはあまり聞かない。そんなものを確信することなどない。信じる者にとって神は存在するのだろうし、信じていない者にとって居ないのは当たり前だ。普通は、『確信する』必要がない。
「本当に神さまが居るのなら、」
(あ…)
 またも眼前の光景が三四郎の心の中の風景と重なった。それはほんの一瞬のことだったが。
 庭に佇んでいる。
 髪の長い、幼いころの雅。
「…お父さんもお母さんも死なずに済んだはずだから…」


 三四郎が知っているのは、四堂姉妹二人の両親は事故に遭って亡くなったということだけだった。だいぶ前に、雅から聞いたことがある。
 だから「そうなのだ」と思っていた。ただそれだけだった。
 しかし改めて知った。
 雅が未だに、それを引きずっているということ。
「しかし、お前たちは無事だった」
 老人の言葉がさらに三四郎の知らない事実を暗示する。
(もしかして…。同じ、事故に…?)と、三四郎は少なからず衝撃を受けた。
「もし、私たちだけ(・・)が助かったのが神さまのおかげなら、それってとても不公平で残酷だと思う」
 心の痍(きず)をさらすとき、人はかえって無感覚になれるのだろうか。
「そんな神さまなら、私は、いらない」
 だから、雅には、神さまがいない。

「もしお前たちまでいなくなってしまっていたら」いつになく、低い口調で兆老人がつぶやいた。「…わしはすべてを呪った」
 今度は、雅と匠がその声に凍ってしまった。老人の声音は、二人の少女に対する妄執すら感じ取れそうな陰湿さがこもった。
 三四郎はただとまどっている。ついさっきまでの平穏さはどこにいってしまったのか。
雅といい兆老人といい、どこか違った。おかしかった。三四郎にとって、今の二人は『正しくなかった』。…それを、理解できずにいる。
「雅さん」間髪を置かずに発せられたアンナの声が皆を救ったように思える。
「…はい」
「お二人がこうしてご無事でなかったら、ここにはなにもありません」
「…」
 兆老人もアンナもいない。四堂の家も、この庭も、なにより、二人がいない。
 まだ幼い頃、ここは格好の空き地で、それがなくなることを三四郎は恨んでいた。しかしそれが逆になったら、どれだけ三四郎は悔やむだろうか?
 今となっては「ここに何もない」ことなど耐えられそうになかった。
「雅さんは、その方がよかったですか?」
「だめだ」
 と、小さい声だが即答してしまったのはこの少年だった。言ってから自分で気づき、ばつの悪そうな顔で周りを見渡した。「いや…ごめん。何でもない」
 しかし、それで雅がくすりと笑った。何も言わずにいたが、それだけでいつもの雅に戻ったように見えた。
 そして、彼女はつぶやいた。誰に告げるでもなく。
「私…、アンナさんの言いたいことも、おじいさまの気持ちも、よく分かる。――だけど、私にも、どうしても忘れられない記憶があります」
 それだけは覚えていて欲しい。と、暗にそう告げているように、周りの人間は思った。
「ごめんね、しろうちゃん」
「え…」
 突然、雅に謝られてしまい、かえって少年は困惑した。
「しろうちゃんには全然関係ない話だもんね」
「そんな風に言うなよ」即座に口を突いて出た言葉が少々苛立ちを含む。
「…だけど、」
「――いや、いいんだ、別に。確かにね、踏み込みすぎてたみたいだな」
 雅のとまどいを見て、三四郎もようやくいつもの自分を回復させたらしい。顔に大きく笑いを作り、陽性の声で返した。
「で、ね。話がぜんぜん違っちゃってたけど、しろうちゃん。やっぱり自分が頑張らないといけないんだからね」
 神さまがどうこうとかよりは、そちらの方がよっぽど有意義で教訓に満ちた言葉だった。
「そんなの分かってるよ。けど、その先はどうなんだろうって」
 三四郎の言い方は常に単純なのだが、含む言葉の意味はときに大きく、重い。それを知っているのは政宗や雅ぐらいかもしれないが…
「ん…」雅は少し考えて、「それは、自分のことをどれだけ信じられるかってことだと思う」そう答えた。
 なるほどな、と三四郎は思った。いろいろ聞いてみると、人によってけっこうばらばらだ。
 アンナさんや兆老人は、後は『天に任せる』と言った。
 雅は、『自分をどれだけ信じられるか』だと言う。
(…俺は、自分を信じられるだろうか)
 つまり「やれる」「できる」と、言い切れることだろう。三四郎なりにそう理解した。
(少なくとも、天に任せるよりはあてになりそうな気がするな)
 と、思った。
「そうだな、簡単だと思えば簡単になるもんだよな」
 三四郎の口から出てきたのは、いかにも三四郎らしいおおざっぱな言い方だった。しかしこれはこれで、ひとつの真理である気がする。
「まぁ、あれやこれやと悩むのも大いに結構なことだて」三四郎の様子にかえって満足気に、老人は言った。
「…アンナさん」たき火の方を覗きこみ、雅はおもむろに言い出した。
「はい?」
「なんだか、燃やしてるだけっていうのも、もったいない気がするんだけど」
「この枯れ葉の量だと、他のものは焼けませんよ、雅さん」
 雅の考えなどお見通しらしかった。少女は、何も言えなくなってしまう。
「お姉ちゃんはいいよね。食べても太んないし」
「匠。食べるのは、いいの。食べ過ぎるのがよくないのよ」
 などと言い合ってはいるが、二人とも、そんな事を気にする必要は全くなさそうな体形ではあった。
(…わからない)
 こうして再び戻ってきた時間を味わいながら、三四郎は今度は自分以外のことについて考えをさまよわせていた。

 人の、死。
『ここにはなにもないわ』
 この言葉が、三四郎の記憶には残っている。それはとても旧い残滓(ざんし)。
 確か、初めて四堂家の人々と出会ったときに耳にした言葉だ。
 そして、たぶん、匠ではない。雅のつぶやき。
 …今でも、そんな風に思っているのだろうか?
「分からないな」
「なんだよ、引き受けておいてそれはないだろ」
 三四郎は我に帰った。
 目の前には、何やら難解な数式を組み立てては挫折した数々の履歴が遺されたノートがある。筆圧の弱い、いかにも女の子が書いたというような繊細な文字が並んでいる。
「あ…悪い。全然、違うことを考えてた」
「…」憮然として、栗山 翆は『無言』を返した。
 そこは学校の教室で、今は自習時間だった。――そういえばこいつは何か問題を持ってきたんだったな。三四郎は翆のノートと、その隣の参考書とを交互に見ながら状況を思いだした。
「分かんないなら他のやつに聞くからいいよ。烏丸が一番とっつきやすいからさ、訊いただけだし」
「そういう悲しいことを言うなよ」
 と言いつつ、ちっとも悲しげではない三四郎は、シャーペンを回しつつ問題を見始めた。
「お前、ほんとに考えてるのか」さっきは相手のことを考えて沈黙していた翆だったが、今度は容赦ない。…そもそも、これはものを頼む態度ではない気もするが。今さらそれをどうこう言う間柄でもなかった。
「なあ、栗山」
「何だよ」
「人の死ってのは、そんなに忘れられないものなのか」
 あまりに突然な質問に、相手は、何も言えなくなってしまった。
「いや、もちろん、つらいさ。痛いし、苦しいし、寂しいよ。けど、痛みは…自然に和らいでいくもんだろ?」
「そりゃ…そうだろうけどさ。色々あるんじゃないのかな」
 相手に引き込まれるように、翆も真剣に答える。
「いろいろ」三四郎はただその箇所を繰り返した。
「そう。…亡くなったのが、とてつもなく好きな人だったりすれば」
「――かもしれない。でも少しずつ、『思い出』の方が強くなる」
「…」
 三四郎の確信めいた言い方に、翆は何も言えなくなる。
 何となく、相手の方がよく知っているように感じたからだった。――そして、「知っている」ということは、三四郎にとって「『誰か』が亡くなった」ことを意味する。いくら翆でも、簡単に踏み込める領域ではないような気がした。
「どうして、そんなに…つらいのか。いつまでも…痛むのか」
 それが三四郎の疑問だった。
「ごめん、烏丸。俺には答えられない」
「何だよ、お前。らしくないな」いつになくしおらしくなった翆に、三四郎は逆にからかうように言った。
「俺には、まだまだ重すぎるよ」真剣なまなざしの翆は、端正な顔をした少年のようにも見える。三四郎はそれ以上、ふざけて見せる気になれなくなった。
「…いや。俺にだって、充分重いさ。だから分からないんだ。たぶん」と、つぶやく。「悪かったな。お前には全然関係のない話なのにさ。――ほら」
 いつの間にやら、強烈な筆圧で殴り書きしたノートを翆に返した。
「あ…できたのか?」驚いて翆は三四郎を見る。
「補助線の引き方がコツだろ、この手の問題は」
「ちぇっ、簡単に言いやがって」
「簡単なんだよ。こういうのはパターンだからな」
(答えもない問いの方が、よっぽど難しいさ)
 とまで思ったが、口にはしなかった。とりあえず、今三四郎に必要なのは答えの用意されている問いに対して、どれだけ効率よくそれを導きだすかという「技術」なのだ。それを満たさないで偉そうなことを言うのもばかばかしいように感じたのだった。
 年が開けてから、冬は本格的に訪れているかのようだ。三四郎に残された時間もわずかしかない。


     6.

 神楽山高校というのは、本当に山の近くにあった。毎日の登校がめんどくさそうな学校だ。制服と言えば男は詰襟、女はセーラー服。中学と代わり映えもない。男女共に真っ黒で、かえって地味なことこの上ない。
 もっとも、中身にもよるのだろう。何度か制服姿の雅を見かけたことがあるが、それで雅が地味になったとはとても思えなかった…
「合格すれば、まぁ三年はここに来ることになるのか。よろしくな」
 古めかしい門の前で、これまた古びた校舎を見ながら三四郎はひとりつぶやいてみる。こういう学校には『伝統』とかいうものがあって、そればかり懐かしがってありがたがる教師がいかにも居そうではある。とはいえ、全く新しいばかりで、みかけはきれいだがうすっぺらい感じがするよりは、こういう古めかしさはかえって面白みがあるように思えた。
「あ、しろー!」
 声の主は――間違えようもない。
 匠は、おそらく、三四郎のことをそう呼ぶ唯一の存在だろう。軽快な走りで門まで一気に駆け抜けてきた。「どうだった、しろー?」
「どうでもいいけど、なんだか犬みたいだな、『しろー』って」
「ひょっとして、話をごまかしてるつもり?」匠は、乗ってくれる気配を、全く見せない。
「…やるだけは、やった」校舎を見上げながら、長身の少年はつぶやいた。
「うん。…で、それで?」匠は、その三四郎を見上げている。
「採点は、向こうですることさ。俺には分からないよ」
「なんかだめみたいじゃない、そんな言い方されたら」不満げに匠は言った。
「お、なんかぞろぞろと来たぜ」
 三四郎の目線が遠くの方を見ているのにいらいらしながらも、匠もつられて振り返った。見れば、皆同じ中学の生徒である。匠が知っている顔はといえば…政宗はもちろんのこと、『鹿島さん』、『空ちゃん』といったあたりか。
「ふうん」静香は小首を傾(かし)げて興味深げに三四郎を見た。これは、何か考えるときの彼女の癖だ。
「三四郎くんも神楽山だったのね」と言う。そして、率直な反応で、
「意外だわ」付け加えた。
「そうだな。自分でもそう思う」怒る訳でも皮肉を言う訳でもなく、三四郎は答えた。実際、これが正直な気持ちだった。何もなければ、ここに居ることなどまずあり得ない。
「でも、烏丸さん、すごい頑張り屋さんなんですよ」静香の評価を控えめに訂正するつもりか、有栖川 空はぽそぽそと話した。「一人でこつこつできる人って、わたしは、すごいと思います」
「そうね。意外だったけど、もちろん悪くはないわ」
(…やっぱり、量ろうとしてるのか)
 静香のその答えを聞き、政宗は考えた。
 癖なのか意図的なのかは別にして、この少女はどこか「人を」量ろうとしているように思えるのだった。そしてそれは、どうやら三四郎だけが対象ではない。…たぶん、自分も、量られている。
「有栖川はいいやつだよ」三四郎は目頭を押さえて泣く…ふりをした。
「で。しろー、受かりそう?」それを完全に無視して、改めて匠は問いただした。
「ああ、実のところ、あんまり自信はない」
「はぁ…。ま、その方がしろーらしいけど」
 情けない返事を聞きながらも、あまりがっかりした様子はない。――むしろ困り顔をしつつも笑っている所が匠らしかった。はぐらかされたり冗談で済まされるほうが、何より嫌いなのだ。
「だけど、あれだけ頑張ったんだもん。悪い結果になんかならないわ」
「全部答えは埋められたのか」
 政宗が率直に訊く。
「――ま、分かる所はな」いやなことを聞いてくる、と内心思ったのか、三四郎の声は前にも増して不機嫌になった。「全部なんかとうてい無理だ。そんなの分かってるだろうが。…ああ、記号問題ぐらいはあてずっぽで埋めたけど」
「それならいいんだ。…たぶん、大丈夫だから」
「え?」
『たぶん』と保留の文字が入っていながら、聞く人間にはほとんど断定しているように感じる言い方だった。
「どうして?」訳が分からず、匠は目をしばたかせる。
「できない所がちゃんと分かるってことは、」その彼女に、政宗は小さく笑った。「――できてる所もちゃんと分かってるんだ。それさえはっきりしてれば全然心配はない」
 なんだかひねくれたものの見方をするやつだな。
 三四郎は率直なところ、そう思ったのだが、
「なるほどね。面白い考え方だわ」すぐにそう言ったのは静香だった。
「面白がるなよ」即座に三四郎が打ち消す。
 内心複雑であるらしい。分かる人間には、それが感じられた。
 そのせいか、静香は一瞬不思議そうな顔をしたが、結局それ以上は何も言わなかった。
「だめだって言われるよりいいんじゃない?」これは、その微妙な空気には気づかなかった匠の言葉である。
「…だけどいいか悪いかなんて決めるのは、政宗じゃないだろ」
「それは…そうだけど」
「いいんだよ、終わったことなんだから。結果は、寝て待つさ」


 帰り道が最後まで一緒になるのは、全部で四人。
「匠さん」
「ん…なに? 鹿島さん」
 名前で呼ばれること自体が意外だった。
 匠と静香は、今まであまり接点がない。少し人見知りをする匠には話しかけにくい相手だし、話しかけられてもやはりよそよそしい。
 お互いに学校で相手の噂は耳にしている。
「雅先輩はお元気?」
「あ、お姉ちゃんのこと、知ってるんだ」
 匠の知らないところで、静香はここにいる三人に間近な人間なのだ。
「考えてみたら同じ学校になるのよね。なんだか嬉しい」
 合格すれば、の話のはずなのだが、静香の口調にはそうした不確定な要素は微塵もない。
 その後は、誰も何も言わなかった。どうも、少しぎこちない感じがした。
「…」
「…」
「…」
「――あのね。気を悪くしないで欲しいんだけど」
 これもまた、静香が言い出した。
「どうしたんだよ、改まって」過度の沈黙に少々嫌気がさしたのか、いつもの調子で三四郎がそれに応えた。
「御矢君と、三四郎君、あんまり仲が良さそうじゃないのね」
 たとえ思ったとしても、当人たちに向かってそれを口にする人間はまずいないだろう。
「こうして二人一緒にいるの見てても、なんか思ってたのと少し違う気がしたから」さっきよりも強くなった沈黙の空気の中で、静香の声だけが伝わってきた。
「あの、鹿島さん」たまりかねて匠が代弁しようとした。――しかし、
「…ま」わずかな沈黙の後に、三四郎が答える。「腐れ縁だよ。なぁ、政宗」
「ちょっ…」匠からすれば背後の味方から突き飛ばされたような気がしたが、
「そうだな。たしかに、つきあいは長い。けどそれだけかもしれない」
 政宗までもがこう答えた。

「…そうなの」
「…そうなの?」

 それに反応した少女たちの声は2種類、同時だった。発せられた言葉は同じだが、込められた気持ちはまるで違う。
「情けない声を出すなよ、匠」たしなめるかのように三四郎が言った。
「いいわよ、もう」怒ったかのようだったが、言葉にやや力がない。
 それを見て政宗が口を開きかけたが、結局、途中で止めてしまった。
 結局、ぎこちない沈黙がその後も続くだけだった。

「…そう。元気がないからどうしたのかと思ったら、そういうこと」
 受験の後にとぼとぼと帰って来られては、家族としては心配するのが当たり前だった。自分の部屋に招き寄せ、雅は妹のぽつぽつと話す事を黙って聞いた。  聞いて、そして雅は苦笑した。
「匠。あなたねぇ、何年二人と一緒に居るの」
「…」
「二人の性格なら、そう答えるでしょ? 他に答えようがないから」
「わたしもね、お姉ちゃん。小学生のときに二人がそう言うなら分かるわよ」ばかにしないで欲しい、という口ぶりで匠は反論した。「…、だけどね。やっぱり二人ともどんどん離れてく気がするの。なんか、言葉にできないぐらいに寂しかった」
 今度は雅が黙ってしまう番だった。
「――ねえ、やっぱり、あのときのケンカが原因なのかな?」
「でしょうね」
 四人で過ごした時間は何よりも貴重なものであり、二人とも、隅々までよく覚えている。あれは、小学生のときだった。もちろん少年たちは二人ともすぐに仲直りした。
 だが、どんなふうに仲直りしたのかまでは、雅も匠も知らない。
「ね、匠」
「うん…」
「あの二人はね、どんなに仲が良くても、絶対にぶつかるものなのよ。うまく言えないけど、目指しているものが同じだから」
 他の人間が聞けば理解に苦しむし、さらに説明も必要となるだろう。しかし匠は、姉の言うことは正しいと感じた。

 だけど、あのとき…ぶつかりかたを間違えてしまったのね、きっと。
 二人ともぶつかるのが怖くなって避けるようになったから。  ぶつからなければ『仲良し』でいられる…。
 けど、ぶつからないってことは、距離を置いてしまうことでしょ?
 今のしろうちゃんとみやくんは、そんな感じ。

「…」
「おかしい?」そっと笑って、しかし真顔で雅は妹に訊ねた。無言で匠は首を振った。
 驚いていたのだ。雅がそういうふうに二人のことを考えていたことに。そしてそれは、匠が感じていただけで理解できなかった二人の関係を的確に説明しているように思えた。
 そして…姉が少年たちのことをずっと見ていたことを知った。そうとしか思えなかった。そのことは嬉しかった。――が、微かな怖さも感じた。
 自分は、この姉には絶対にかなわない。
「このままなら、二人ともお互いをなくしたまま」雅は、さらに言った。
「…」
「そうなったとしても、それは仕方のないことだから…」
「そうなの?」
 匠は姉に対してもそう問いかけた。「仕方のない」とか「それだけのこと」でしかないのだろうか。それで納得してしまっていいのか。――問いかけというよりは、匠にとって純粋な反語だったのかもしれない。
「…二人が決めることだもの」雅の答えは自分に言い聞かせるようでもある。
 だから私たちには関係ないって言えるの?
 畳みかけるようにそう訊こうとして、匠は口を開いた。しかし何も言えなかった。
 姉の答えは、もしかしたら匠を傷つけるかもしれなかったから…
「ね、だから。私たちがそんなに気にすることじゃないわ」
 匠にとって雅は責めるよりは甘えたい対象だった。その声に抗ってまで告げる言葉を、このとき匠はまだ持っていなかった。


     7.

 二週間と経たずに合格発表が行われた。
 彼ら三人の中学から、不合格者はなかった。 …と、いうことは。

「ほんとかよ。よく合格ったもんだ」

 そうつぶやいたのは、他ならぬ三四郎だった。


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