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焉
1.
夜桜を月影に晒(さら)して眺めている。
少々肌寒くはあったが、今は佳酒が体を内から温めてくれる。
「悪くない」兆はつぶやいた。
我が庭にて絶景を楽しむ心地佳さよ。――と、思いはしたが、酌をしてくれる相手に対していささか遠慮して口には出さなかった。
傍らにはアンナが姿勢正しく正座していた。時折老人の杯に酒を注ぐ。
老人は、あまり酒はやらない。『酔っ払いの年寄りなど誰も相手にしてくれん』などと冗談めかしているが、心に悦びを覚えなければ酒は良くないというのが持論であった。
だから、少し酔ったときの老人は生そのものを楽しんでいるかのようである。アンナもつきあわされるが、それを苦痛に思ったことはなかった。小さな頃から仕事柄かいろいろな酔態を目にしたが、兆老人のそれはむしろ心地佳かった。
「今日は何かありましたか、佳いことが」
「いやさ、陽を見てようやくつぼみがほころびかけておる」
「…つぼみが」
「雅と匠という名の花だ」
それを聞いてアンナは微笑した。今日の庭でのことを見ていたのだろう、と察しがついたのだった。
「我が孫ながら、見事に。名前に負けておらぬ」
二人に名前を与えたのはこの老人だった。長女に「雅」、次女に「匠」と。これを見た息子夫婦らはあまりに感性端的な、その二つの名に遠慮気味だったが…
二人ともここまで育ってくれた。名は体を現す、そう言っても決して過言ではあるまいと老人は思ったりする。
「むろん佳き陽がなければ佳き花も育たぬが」兆老人は付け加えた。
「陽というのは、政宗くんと三四郎くんのことですか」
「あの子らの心の中までは見えぬが、まずわしの見るところでは」
と、笑う。
不思議な巡り合わせだった。たまたま定住の地として選んだこの場所の両隣にちょうど同じ年ごろの少年たちが居た。
兆老人は自分の孫たち同然に少年らを見た。少年たちも、それぞれ彼らなりに自分に懐いてくれた。
そして…何より、孫たちにとっていつも一番の遊び相手であり、相談相手であり続けてくれた。
「やつらも、将来(さき)が楽しみである」
彼はアンナには常々そう言っていた。細かいことまでいちいち評することはないが、言葉以上に二人の少年のことを高く買っていることは伺えた。
「…それにしても」
「はい」
「わしも歳を取った。…せめて匠が成人するまでは永らえたいが」
突然縁起でもないことを、ぽつりと老人は口にした。
「だんな様。少し酔いが過ぎましたか?」
たしなめるようにアンナが言う。「そんな気弱なお言葉、だんな様にはお似あいになりません」
「そうだな、アンナ。まずは気の病を戒めるとしよう」素直に老人は従った。
「おっしゃる通りです」
「しかし、何が何時(いつ)あっても不思議ではない年齢(とし)だ。後々のことも、そろそろお前たちに話しておかねばならぬと思う」
「…」
いつも微笑を絶やさないアンナが、このときはほんとうに悲しげに見えた。
「謝りたくはないが」低く、彼はつぶやいた。
「…」
「結局、長いことお前を縛りつけてしまったな。…わしは、あのとき、ほんとうは娘としてお前を迎えるつもりだったのだが」
「それは、…どうか気になさらずに」
いつになく、声音をこわばらせて彼女は答えた。
二人にも、二人だけしか知りえない過去があるらしかった。
「お前はまだ若いのだし、もっと自分を大切にして先のことを考えなさい」
兆老人の言葉からは、彼女のことを決して単なる使用人と思っていないことがはっきりと分かる。
「お前にも、できる限りのことをしてやりたいと思う」
「でしたら、どうか…長生きなさって下さい」彼女の声はわずかに震えた。
「…」
「私を、独りにしないで下さい」
「分かった分かった。せいぜい養生しよう」
何を言っても聞くまいと思った老人は、一旦アンナの言うことを聞くふりをしてこの話を収めた。
「それにしても。神楽山、か」再び、夜桜に目をやって別のことを言った。
「みんなの、学校の名前ですね」
「うむ。…『神楽』とは、神前に奏する舞楽のことをいう」
「なんです?」目をしばたかせて彼女は訊いた。いくら語学に堪能とはいえ、その文化の古語までを正しく理解するのは難しいものなのだ。
「簡単に言えば神に捧げる歌じゃ。とはいえ聖歌とはちと違う気もするが」
「神様に」
「漢字では神の音楽…こう、『神』『楽』と書く」床に、酒で字を書きながら、アンナに教えてやる。「雅は『神楽』と名のつく場所を選んだが…」
彼が意識したのは、この言葉に含まれる一文字のことだった。
「なぜだろうな?」
「偶然でしょう」
アンナはわざとありきたりなことを言った。
――四堂家の人間は雅の精神(こころ)にひとつ、深く痍があることを知っていた。
老成した彼の境地には、そこに思う所があるらしい。杯を口に持っていきながら彼は静かに、独りつぶやく。
「憎みながらも惹かれてやまぬものが、確かに世にはあるのかもしれぬ」
その目は一瞬、目の前の桜ではなく遠い過去を一挙に振り返って覗き見ているようだった。
「――しかし、まぁ、因果なことだ。…それとも、これもあるいは、わしの業のせいか」
「ごう…?」これもまた、アンナにはよく分からない言葉だった。
「お…」何気なく杯を空けてしまったらしい。「ふーむ。いつもはこれでしまいじゃが、今宵は常になく心地佳い。あと一杯、美人の酌を賜ろうか」
「そのおじょうずな所に免じて、差し上げましょう」澄まして彼女は返した。
「かたじけない」傍らのアンナを見やり、兆老人は笑った。
話題はあまりにとりとめもなく、まとまりも欠いた。
しかしそれでも彼女は構わなかった。そういう些細な言葉、身ぶりの中にこそ兆老人の本当の姿があるように思えるからだった。何を思い、何を憂うか。何を喜ぶのか。すべてとは言わないが、そのできる限り多くを、彼女は共有したかった。
「どうじゃ、お前もひとつ」
「そういう訳には参りません」
穏やかに、しかし毅然としてはっきりと拒絶する。…考えてみればそれは雅と似ていた。というより、雅がアンナに影響されたという方が正しいのだろう。その一つを取ってみても、アンナなしでは今の四堂家は在り得ないことが分かる。
「だんな様、日本の春というのは不思議ですね」
桜を見ながらアンナは言った。
「一年の始まりの季節に、卒業したり、お別れしたり。自然と嬉しく感じるときに、わざと悲しい気持ちになるんですもの」
彼女の素朴な感想に、兆は目を細めて笑う。
「何かが始まるためには、まず旧いものが終わらねばならぬ」
彼はじっと夜桜を見つめた。かつて自分も迎えた幾重もの出会いと別れを、その樹に重ねていた。ときに、二度と再会(あえ)ぬものも多かった。――彼の生きた時代は、それだけ過酷だった。
「桜は、そういう心を現す花よな…」
2.
学校までの長い石階段の左右には、桜並木が見事に形造られていた。
「毎日登ってたら、それだけで体力つきそうだ」
少々呆れて三四郎がつぶやいた。遅刻寸前だとしたら、駅からダッシュしてもたぶん真ん中あたりで力尽きてしまうだろう。などということも思った。
四人とも、神楽山の伝統ある制服に身を包んでいる。
男子は黒の詰襟で、これは中学と代わり映えもしない。襟の校章が変わったぐらいである。
女子もまた黒で統一されている。セーラー服の襟には白のストライプが一本だけ。全体としてこの学校には『質実剛健』の風が漲(みなぎ)っている。
茶の革靴に黒の革鞄。四堂姉妹はそろって、紺のハイソックスを履いていた。靴下まで制服として定められている訳ではないのだが、これもまた、神楽山の伝統らしい。全体を黒に統一した姿には、どこか凛として清楚な雰囲気があった。
「そうね、体育では必ず往復させられるわ。男子も女子も」雅が説明する。
「う…」露骨に三四郎は嫌そうな顔をした。
「『古豪』神楽山の所以(ゆえん)はここに有るのかも」
匠は時折、祖父の言葉が映ったかのような旧い言葉を使う。
「クラブはどうするの、みんなは」その言葉に思い起こされたのか、雅はそう訊いた。
「私は剣道、続けるけど」何の迷いもない匠が真っ先に答える。
「入りたいところが見つかったら、入るつもりだけど」と、ごく穏当な答え方をしたのは政宗だった。
「俺は、どこにも入る気はないなあ」
一瞬、卒業式の日の翆の言葉が思い出されたが、三四郎はそう宣言していた。
「絶対にあちこちから勧誘されるでしょうね、しろうちゃんは」去年の春の光景を振り返りつつ、からかうように雅はそう言った。
「だとしても、決めるのは俺だ。だいたい俺は気が向いた時にしかやる気にならないからさ。クラブとかってだめなんだよな」
それは確かに、三四郎のひとつの特徴だった。
「続けられるものって、見つからないの?」
「…雅さんにそう言われると、なんだか見つけなきゃならない気がするけど」
頭を軽くかいて、「――今は、『百式』ぐらいなもんさ」そう答えた。
「しろー、『百式』だってそんなに練習してないじゃない」匠がその事実を指摘する。
「だから、気が向いた時にしかやる気にならないって言ってるだろ」
「…」
「そんな、冷たい目で見るなよ」
「だけどしろうちゃん」
「何?」
「今は見つからなくてもいいけど、見つける気持ちまでなくしちゃだめだと思う」
「…ああ」さすがに、少し考えるようにして三四郎はつぶやく。
「なんにも見つけなくても、なんとなく過ごしてはゆけるでしょうけど」
いつものように、穏やかな言葉。
「私はそんな場所のために、みんなとここに来たつもりはないから」
雅らしい、宣言のしかただった。
(俺は、何がしたいのかな)
その会話を耳にしつつ、黙り込んでいた政宗はそのまま考え込む。
その気にさえなれば、たいていは器用にこなせる気がした。今までのところ、それはさほど間違ってはいないように見える。
だが最近、気づき始めた。
…例がある。どちらかといえば苦い例だった。
絵が嫌いになったのは、描けないから(・・・・・・)ではなかった。描けることは分かった。描けた。だが、自分の目指すものに遠く及ばないことも分かってしまったからだった。
(…見つける気持ち、か)
それを意識していれば、ここで自分を見つけることができるのだろうか。
少年はちらりと一年先輩の雅を見た。いつの間にか雅が自分のことを見ているのに気づき、慌てて目線を逸らした。
「みやくんも、ね」
政宗に対しては、雅はそれだけしか言わなかった。この少年には考え過ぎる所があるのを知っているからかもしれない。
「はい」政宗の答えも、短かった。
「みやくんは大丈夫よね、何だってできるもの」匠は明るくそう言う。
が、
「それは、何もできないのと一緒だよ」
「え?」
本人からそう返されてしまい、匠は次の言葉を失ってしまった。
「でもさ、雅…さん?」
どこかぎこちなくなった雰囲気を紛らわすかのように、三四郎が言い出す。「前から訊こうと思ってたんだ。どうして雅さんは…ここを選んだのか」
「私が?」
「そう。…どうして他所(よそ)じゃなくて、ここだったのかなってさ」
「そうやって、真面目に訊かれちゃうと困るわね」
その割には困った様子もさほどなく、気持ち佳さげに彼女は周囲の桜を眺める。「…ひょっとしたら、ここからの景色が佳かったからかも」
振り向けば、確かに桜の樹々は山を美しく飾っていた。…が、
「それだけ?」と、三四郎。さすがに納得しかねる答えだろう。
「そのうちに分かるわ、きっと」にっこりと雅は笑った。
――わたしの答えじゃ、意味がないもの。みんなが自分の答えを見つけてくれないと。
雅は軽やかに跳ねて、ひと足先に石段を登りきった。そして振り返り、三人を迎える。
「ようこそ、神楽山へ」
…春は、これからが本番である。
(そして「旧日の縁(上)」へ)