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第四章
1.
「それにしても、ほんとに受かっちまうんだもんな」
「…まるで受かって欲しくなかったような言い方だな」
「ちがうよ。お前はすごいやつなんだなって見直してるんだ」
卒業式の日。
声をかけてきたのは翆の方だった。相変わらずの口調で。「しゃくに触るけど」とも、付け加える。
「神楽山かぁ。ちょっと、うらやましいかも」と彼女は続けた。
「――結局、お前どうしたんだっけ?」
「菖蒲館。女子高なんだよなこれが」
「なるほど。お前は運動神経抜群だし、顔も悪くない。きっともてるだろうな」
「そりゃどうもありがとよ」
この手の言葉には完全に免疫があるらしい。彼女は怒るそぶりすら見せなかった。
「菖蒲館はスポーツが強いし、まぁ文句はない。だけどお前が神楽山だとなんか悔しいんだよな。負けちまった気がする」
「いいんじゃねえのか? 自分が選んだところにちゃんと入れたんだ。…と、そういや、『負け』だ『勝ち』だといえば」
にやり、と三四郎は笑った。
「何だよその笑い方」
「お前、確か言ってたよな。『何でも言うこと聞いてやる』とか」
「…。思い出したか」
その割には、『負け』を口にしたあたり、翆は自分からわざと思い出させようとしている気がしなくもない。
「けど、ま、俺はどうでもよかったんだ。だいたいどっちが勝ったかなんて、よく分かんねえし」
「そうか。どうでもいい、か」少し考えるように翆は繰り返す。
「だけどお前、一体俺に何をさせるつもりだったんだ」三四郎はそちらの方に興味を持った。
「…」
「な、なんだよ。言い出せないような恥ずかしいことなのか?」
「バスケかな、やっぱり」
「…」
今度は三四郎が沈黙した。それほど意外な答えだった。――そして、
「烏丸。お前は絶対何かスポーツやるべきだって。もったいないよ」
唐突に、思いの外熱心に翆は訴えてきた。
「バスケが嫌いならそれ以外のでもいいからさ」
「嫌いだなんて思ってない」
「…でも、やる気はないってのか」
「お前はそう言うけどさ。俺はずっと前から続けてることがあるんだぜ、これでも」両手の指を鳴らしながら三四郎は言った。
「ケンカかよ」翆は眉をしかめて、吐き出すようにつぶやく。翠には三四郎のこういう所が、才能と資質の無駄遣いにしか思えないのだ。――しかし、
「違う。それは結果で、目的じゃない」
三四郎は明快に断言し、怪訝そうに翆は相手を見上げた。
辺りは春の風に吹かれ、桜が乱れ散っている。
三四郎はおもむろに、数度、左腕で鋭く空を斬らせた。
「ボクシングみたいだけど…なんか、変だな。構えも、手の動きも」
さすがというか、意外というか、翆の観察は鋭かった。女の子で違いが分かるというだけでもたいしたものだ。あるいは、そう思ったからこそ、三四郎もいつもならやらないことをやって見せる気になったのかもしれない。
「足も使うさ。…けど、ま、そんなに見せびらかすもんじゃない」つかんだ花びらを惜しげもなく簡単に払って、三四郎は言った。
「ふーん…。拳法か何かなのか、それ?」
「考えたのは隣のじいさま、だ、そうだ」
まさか出典が『隣のじいさま』だとは思いもしなかったのだろう。翠は思わず笑った。
「なんか、いんちきっぽいな」
一言、あっさりと笑われてしまう。
「実は俺もそう思う」少年もつられて笑い、「でもまぁ、名前とか由来なんかはどうだっていいんだ」
「…」
「これが一番長続きしてるし、――だから。たぶん、これからもそうだろうさ」
言い方はいつもの調子だった。しかし、そうした言葉の中にこそ三四郎の意志の堅さはかえって感じ取れた。
彼女は小さくため息をついた。
「正直言って、俺には分かんないよ。殴り合いのために体を鍛えるなんてさ」と、言う。「――だけど、お前にとっちゃ大事なことなんだろうから、」
うまく言いたいことが見つからないのか、結局、翆の次の言葉は月並みなものになった。
「ま、…頑張れ、よ」
「お前もな」
簡単に返事をしたが、三四郎は珍しくこう付け加えた。「――なんか、改めて考えてみると、少し寂しいもんがあるな」
「…うん」
「まぁ、菖蒲館なら、どっかで会うこともあるだろ」
「そうかよ」
「あのなぁ、何でそこで怒るんだよ」
「…怒ってなんか、ない」
三四郎は、ようやく気づいた。翆の声がわずかに震えていたのを。
そして――少年はこういう状況が何より苦手であった。小さくため息をつき、頭をかき回す。とりあえず、かき回してみても頭にはどこにも名案は転がってはいないようだった…
(こういう役はあいつに任せきりだった)
急にふと今までのことを思い、心の中で苦笑いする。
何となく制服のポケットを探ってみる。ほとんどくだらないものばかりだったが、今日式で使ったばかりの紅白のリボンが目についた。
するするとほどき、蝶結びを作ってみる。そして、何を思ったのかそれを翆の頭に載せた。
「? 何だよ」
「おおっと。動くなよ」がっしりと両手で、三四郎は翆の頭を固定した。
端から見ればとても不思議な二人の姿が出来上がる。幸い、周りには誰もいなかったが…。
「…何やってんだお前」目許をこすってから、翆は相手を睨みつける。
「いや、何となく、な」
(なかなか、いい…かも)
素直に三四郎は思った。こいつ、自分でどう思っているかは知らないけど――
「人の頭で遊ぶなっ」
ぶんぶん首を振って、翆は三四郎のいたずらから逃れた。頭に載せられていたものがぽとりと落ち、それを不審げに見つめる。
「よし。餞別だ、栗山。お前の成長を祈願したこのリボン、もらってくれ」
リボンを拾い上げて、三四郎は言った。
「思いつきで言うな! いっつもそうだなお前」すかさず翆が返す。
それでも、まるで動じず三四郎は言ってのけた。
「確かに思いつきだけど、願いは本気も本気だぜ」
…こうなると冗談なのかそうでないのか、まるで分からない。
「…」
「身長、胸囲、共に大いに成長するよう願っといたから」
「胸は余計…って、そもそも、大きなお世話だ!」
「親心だよ」
「勝手に親になるなっ」
「しょうがないだろ、お前がお子様なんだから」
「…はあ。もういいや、めんどくさいからもらっといてやるよ」
あきらめたように翆は言うと、手を差し出した。改めて見ると、思ったよりもずっと小さな手だった。
「ま、こんなもんで悪いけど、他に作れるものがなかったし」言いながら、三四郎はそのリボンを翆の手のひらに載せる。
ばかばかしいようで、相手の声にからかう調子がまるでない。彼女としては反応に困る所だった。
「…烏丸、俺は大きくなれるかな」不器用に作られた蝶結びを見やりつつ、相手の言葉に触れて、翠は訊いていた。
「背は伸びると思うぜ。人より、ちょっと遅いだけだろ」
伸び盛りの時期になれば、体の小さなほうがかえってぐんぐん大きくなるという話は聞いたことがあった。三四郎などは例外中の例外なのだろう。
「それじゃ、」
「ああ、胸の方は保証しかねるな」
「誰も、そんなことは訊いちゃあ、いない」翆は一言々々力を込めて切り返して、「――それじゃ、このリボンはどういう意味なんだ?」と改めて言った。
「そりゃ、お前だって一応女だろ、う、か…ら」
簡単に言い出してから、いくら何でもあまりに正直すぎたかと三四郎は思った。語尾がぎこちなくなる。
「…ふーん。そんな風に見てくれるんだ」
怒りもせず、翆の反応はあっさりとしていた。
三四郎は黙って相手を見やった。意外さの方がずっと大きく、何も言えなかったのだ。
「そういうことなら、このリボンもうれしいな」
「はあ?」
「ついでだから、もっとましなもんをくれよ」と、彼女は笑う。
「金なら持ってない」
「カツアゲじゃねえっての」半分呆れ顔になったが、すぐにまじめな――いや、どこかはにかんだ表情になった。
「――制服の、釦でいいよ」
「…」珍しい生き物でも見たかのように、三四郎は黙って翆の顔を見つめた。
「…。あ、あのっ、いやならぜんぜん構わないけどさ」
「何を力んでるんだよ。そんなもんでいいならくれてやるって」
「あ、ああ」自分のうろたえ方に赤面し、彼女は大きく息をついた。
「ちょっと待ってろ、すぐに外すから」
「ええと、そうだな、二番目でももらおうか」
「けちけちすんな。全部やるから」
「そ、そんなに要らないってば」
…結局、翆は5個の釦すべてを受け取るはめになった。
「じゃあな、烏丸」別れ際、少し駆け出してから振り返った翆は、元気に手を振っていた。
三四郎も手を振った。翆からもらった制服のスカーフがひらひらと揺れている。「そっちも何かよこせ」と、三四郎が言い張った結果だった…
「…ちぇっ」
遠ざかってゆく後ろ姿を見ながら、彼女は小さく口の中でつぶやいた。ただ顔は、微笑っている。
最後の最後まで向こうに乗せられっぱなしだった。おかしさも込み上げてくるが、――それだけではだめな気がした。
お前だって一応女だろうから。
どんなひどい言い方であれ、あいつがそう言ってくれたのは、初めてだったと思う。
(そうだよ…俺だって、女だったんだよ?)
それはたぶん、ただの『トモダチ』には必要のない想い。
感じたとき、少し…痛かった。
2.
「三四郎君との『約束』か何かなの」
「何が」
何となく想像できたが、少年は敢えてそう訊いた。
「御矢君が神楽山に行く理由、よ」
同じ日、時間だけが少し異なる帰り道。
政宗は小さくため息をついた。
「少し違うけど、そんなに間違ってもない」
「その『約束』に、匠さんが加わるってとこかしら」
「雅さんもね」と、政宗は相手の『解答』を自分で完成させてしまった。
少年は相手を邪険に扱えなかった。内心、この少女の普通の賢さとは違った部分に素直に感心している面がある。…とはいえ、大切にしていた場所に、いきなり土足で入り込まれた気がしなくもない。
話していると、そうした感情が自然と言葉にも織り混ぜられてしまうのだった。
「三四郎君の意地の張り方、普通じゃないもの。御矢君に関係あることとしか思えなかったから」彼女はひとり納得したかのようにうなずいた。
「俺と三四郎は、仲が悪いから?」
受験の日の帰り道での言葉を意識して、わざとそう言ってみる。
澄ました顔で、静香は答えた。
「その逆だとわたしは思ってるけど」
「…。思うのは、勝手だけどね」
ここで沈黙してしまうと、かえっていろいろと訊かれることになりそうな気がした。
「鹿島さんは、どうして神楽山に?」と、政宗は訊いた。
「え?」
「いつだったか、訊いた時には考え中で――」
「結局、神楽山にしたの」静香は笑った。「その方がいいかな、て思ったからよ。御矢君も言ってくれたでしょ? わたしはどこに行っても、わたしなんだから」
「…そう、それはそうだと思う」
そして事実だろう。と、政宗は確信している。良くも悪くも。
「だから。少しでも着心地の佳さそうなところに、ね」
「その答えが、神楽山なの?」
素朴な疑問を政宗は返す。
「お友達もいるから」答えも、単純だった。
「そういうことか」
「それに、御矢君も三四郎君もいるじゃない」
「それは結果として、だけどね」
「…。そうね」静香は小さく、ため息をついた。
…言う順番を変えるだけでまるで違う解釈になるのね、と内心思う。
「――ま。これからも、よろしくね」
明るい声で静香は言った。
その言葉は『あいさつ』というより『宣言』に思えた。
少年が立ち止まる。
「…。わたし、何か変なこと言った?」
じっと正面から見据えられて、彼女は怪訝そうに訊ねた。
(やっぱり、不思議な人だな)
思考が深化し、構築が瞬時に始まって、終わる。
この人は無邪気に人を和ませることもできる。今、自分が感じたように。
でも、――無邪気に人を傷つけることもできる。
「御矢君?」
「考えてみたら、結局鹿島さんとはずっと同じクラスだった」
別のことを言って話を逸らせる。――あるいは、避けたかったのはその思考そのものなのかもしれない。
「ええ、そう。…最初の一年半は、お互いに無意味な時間だったけど」
「『無意味な時間』、か」その部分を繰り返して、小さく政宗は笑った。小気味よい決めつけ方だと思った。
確かに、クラスに居ることぐらいは知っていたが、ただそれだけだった。あのときの一件がなかったら、ふたりとも交わることはなかっただろう。
それがよかったのかどうかは、まだ分からない。しかし今のところ、二人ともお互いのとある部分に「居心地の佳い場所」を感じているようだった。
「今度も、意外とそうなるかもしれないわ」
「それはどうかな」
「ふふ。御矢君ならそう言うと思った」
予想通りの答えにかえっておかしくなったらしく、静香は笑った。
「――あ。わたし、こっちだから。じゃあね、御矢君。四月にまた会いましょう」
「うん。…また」
代わり映えのしない別れ方は、どこか少年を安心させた。
一応その後ろ姿を見送ってから、今度はいま来た道を改めて見た。
誰もいない。
それなのに、政宗はその空間に向かってこう呼びかけていた。
「――匠?」
当然のことながら、答えはない。しかし、
「…おかしいな」それが不思議なことであるかのように、政宗は一人つぶやいた。
「ここよ」
声はなぜか背後から聞こえた。さすがにぎくりとした。
「どこから出てきたんだ」振り返ればすぐそばにある匠の顔をまじまじと見つめて、彼は訊いた。
「こっちも訊きたいわ。どうして私がいるって分かったの?」
「帰り際に見かけたから」少々相手の雰囲気に気圧されつつ、答えた。「匠は途中で寄り道なんかしないし。だから、そう遠くない所にいるんじゃないかって」
「別の道を通ってこっちの様子を見てみたら、まだみやくんたちがここに居たんだもん」
「なるほど」
「じゃ、ないでしょ」不機嫌そうに匠はつっかかった。「気づいてたんなら声ぐらいかけてくれたっていいのに。私、馬鹿みたいじゃない」
「だけどお前」なだめるどころか、政宗はむしろ気遣わし気な様子である。
「何よ」匠の眉はつり上がったままだった。
「鹿島さんのこと、苦手なんだろ?」
「…」
事実なので反論のしようがなかった。
「――違ってたなら、ごめん。匠も一緒に帰れば良かった」
『も(・)一緒に』、という言葉にひっかかりはしたものの…鹿島さんとの下校を拒否する理由が特にない限り、政宗の言うことはごく当たり前のことだった。
「…えーと」
腹立たしさも一気に無くなって、結局こんな言葉に置き換えられた。
「何でもない。――行こ、みやくん」
実の所、学校を出る所で待っていたのだが、政宗と静香が一緒に出てきたので声すらかけそびれてしまったのだった。後は避けるというか、逃げるというか。理由は簡単で、政宗に指摘された通り「鹿島さんが苦手」だから…。
「それにしても。何でもお見通しね、みやくん」少しして、照れたように匠は笑った。
「まあ、匠のことはね」
「…」
あっさりと言われてしまったが、それはそれで何となく嬉しい気がする。
「ね」
「うん」
「私、苦手な人とか嫌いな人が誰だかって、そんなに簡単に分かっちゃう?」
できることならそんな風に思われたくはない、と匠は思ったのだった。
「誰にだって、好きになれない人はいるよ」
政宗は直接それに答えようとはしなかった。
「それはそうだけど、」
「誰からでも好かれる人間だってそういないし。――いたとしても、たぶん、俺は嫌だな」
「どうして?」
「その人のどこを信じればいいのか、まるで分からないじゃないか。誰かに嫌われる部分があるから、別の誰かにとって好きになれる部分があるんだよ」
「…」
政宗の言うことは、匠にはいつも新鮮な気がした。今まで見てきた世界を別の場所から見せてくれるような、そんな気がするのだった。
「どっちにしたって、他人(ひと)の目を気にすることじゃないさ」
「うん。そうよね」匠は素直に頷いた。
…しかし、少年の言葉は、それだけで終わりではなかった。
「だけど、――人を嫌いになるのは簡単だろ?」
そう付け加えられた。つぶやくように。
「え?」
「簡単だから…気をつけなきゃいけない」
何のことを言われているのか、匠は理解した。――そして、
「だって嫌いなものは嫌いなんだからしょうがないでしょ」またも怒ったように言う。
「違うよ」
まるで自分のことのように、政宗は断定した。
「今の匠は、嫌いなんじゃない。嫌いになろうとしてるだけだ」
「じゃあみやくんは好きだっていうのね、鹿島さんのこと」
勢いで思わず口走ってしまったが、それはすぐに自分の感情の醜さに対する嫌悪へと変わった。
不機嫌そうに匠は沈黙してしまった。どこかすねたようでもあった。
政宗も黙った。言葉を重ねるとかえって火に油を注ぐようなものだ。それに匠の性格に対する一種の信頼もあった。今は腹が立つのかもしれないが、少し時間が経てば必ず分かってくれる…はずだった。
しばらくして、改めて確認するかのように、匠はぽつりぽつりと言った。
「だって、あの人…自分の都合でしかしゃべらないんだもの。全然遠慮しないで、言いたいこと勝手に」
「うん」静香について一言の弁護もなく、静かに政宗は頷いた。
「でしょ?」
「それはどっちかというと、短所として見えてしまう部分だ」
「…。けど、だけど、それが嫌なの」
相手の無理解に、何だか小学生に戻ったような気がしてしまう。政宗は考えた。
…匠が嫌う相手がどうでもいい人間なら、このまま放っておいてもいいと思う。しかし「鹿島 静香」という人間は、政宗から見て「どうでもいい」で片付けられるような軽い存在ではないように思えていた。
「別に鹿島さんに限ったことじゃないよ、匠」
「何が?」
「相手のこと、ちゃんと見ようとしなきゃだめだ」
できるだけ控えめに言ったつもりなのだが、『だめだ』と言われては、匠も気持ちのよいはずがない。
「いいもん、別に」匠は首を横に振った。
さすがに政宗も憮然とした表情になった。ため息をつく。
「なら、俺はこれから独り言を言うから」
「え?」
「聴きたくないなら先に帰ってくれればいい」
こうなると、政宗は匠以上に頑なだった。そのまま静かに話し始める。
「――鹿島さんという人は、相手(ひと)を試すところがあるらしくて」
「…」匠は何も言わない。聴いているのかどうかも分からないが、逃げ出さなかったのも確かだった。
「わざと遠慮のないことを言って、相手の反応を見たり」
一瞬、匠の表情が反応を見せた。
「そうやって観察して、相手を量っているんだと思う」
「わざと『仲が悪い』かなんて訊いたりする訳?」思わず匠は『独り言』に質問してしまった。
この少女の『苦手』も、そこが始まりだった。あの日の、あまりに無遠慮な静香の言葉に一番敏感に、率直に反応したのは匠だった。
(…自分のことでもないのに、一番怒ったのが匠なんだよな)
そう思うと、やはり匠への気持ちは特別なもの抜きには有り得ない。それを胸の中に感じつつ、
「ほら。そうやって怒る人間もいるし、受け流す人間もいる。相手がどんなタイプかが分かるだろ?」少しからかうように、少年は答えた。
ということは、自分は乗せられただけの単純人間扱いということか。
そう思うと匠はますます腹が立ってきた。
「ひどい人ね」軽蔑すらこもっているかのような吐きすて方だった。
この強烈な反応は予想外だった。政宗はまたもため息をついた。
「匠は、裏を知って裏を憎む、か。そこが佳い所でもあるけど」
「だって、全然言うことが信じられない人じゃない…そんなの」と、匠は怒っている。
「そうじゃない。逆だよ」
「え?」
何だか、今日の匠は政宗に驚かされてばかりの気がした。
「鹿島さんの言葉が気に障ったときは、その『裏』が何かを考えてみればいいんだ。…ちょっと言い方が極端だけど」
「私には、無理ね。疲れちゃうわそんなの」
少し考えて、政宗の言ったことを理解してからの匠の感想だった。
「うん…。かもしれない、正直な所」
政宗も否定しなかった。そもそも、政宗もここまで偉そうに話せるほど『鹿島さん』を理解している訳ではなかった。ときに振り回され、もて余し気味でもある。
「だけどみやくんは…嫌いじゃ、ないのよね」探るように、少女は少年に訊いた。
「最初は、驚いた。匠が言った通りのことを思った」
政宗は直接答えず、このときまだ『独り言』を続けているように見えた。
「――だけど、これは相手のことを知りたいからなんだなって」
それを聴くと、匠は微妙に変化した。
「そう感じたら…わざと嫌われても自分を貫く鹿島さんのこと…俺は嫌いにはなれなくなった。やり方は別にしてもね」
「…うん」
政宗は立ち止まって匠を見た。
「何?」と匠。
「それは、分かるの? …匠」意外そうに少年は訊いた。
「何となくだけど。『知りたい』って気持ちは」少女は、小さく口許に笑いを浮かべる。
多少「『知りたい』の種類」が違うような気がしたが、匠にもその気持ちはある。種類が異なれば確認の方法も違ってくるだろう。それが匠と静香の違いだとしても、本質はさほど違わないように思えた。
「――それに、言うことが厳しいけど、冷たくはないよ。あの人は」
ここで初めて、静香の性格を弁護するような言葉を政宗は口にした。
「鏡の国の住人なのね、鹿島さんは」呆れたように、匠はため息と共に言った。
「面白いな、それ」
何気なく言ったその言葉が、少年の感性に心地よく響いたらしい。…政宗自身は少々堅苦しく『逆説の人』、などと内心思っていたのだが、匠の言い方の方がよほど『鹿島さん』らしさを表している気がした。
「ふぅ…ん。鹿島さん、ね」その名前をつぶやき、その印象を匠は思い浮かべてみる。
明るい目に、どこか強気の整った顔立ち。まっすぐで、きれいな髪。澄んだ声と…人の神経を逆撫でする言葉。「――みやくんが思った通りの人なら…」
わたしも仲良くなれるかな、と言おうとしたが、それは遮られた。
「でもそれは、匠が決めることだから」
いつものように、控えめな言い方。
「なんか、ずるくない? それ」匠は口をとがらせた。
「ずるくない」大まじめに政宗は答える。「…匠が同じふうに思うかどうかは、避けているだけじゃ分からないよ。だから、」
「ほら。やっぱりずるい」
「…」
政宗も少し笑った。どうやら、既に話の中身が変わりつつあるらしかった。
「鹿島さんのことは四月からの宿題ね」
「宿題って、お前」
それでも、その真面目さがどこか匠らしい、と思う。
一方匠には、せっかく久しぶりに一緒に帰ってるのに、という気持ちがその裏にはあった。静香のことをいったん頭から追いやり、改めて相手を見やって――
「え…みやくん、釦あげちゃったの?」
またもや心に別の波紋が描かれる。
「何だよ突然」
この季節に未だマフラーをしている政宗だったが、ふと見えた襟元に釦がなくなっている。目敏(さと)く匠は気づいたのだった。
「もらおうと思ったのに」
「…。別に、要らないだろ? 匠には」
何かとこういうことにこだわるのは、女の子だからか、性格だからか。
「誰にあげたの?」当然ながら、次に匠はそう訊いた。
「さあ」
「…」
「誰だか知らないけど、くれって言われたからあげた」
「ひどい」政宗に対して匠は抗議の声を上げる。「こういうのは、大事なことなんだから。ちゃんとしないとかわいそうじゃない。名前ぐらい言ったんでしょ? 相手の子も」
「知らない人だった。後輩だったのかも」
「みやくんの場合は同級生でも怪しいかもね」
だんだん匠の言うことも容赦がなくなってきた。――実際、政宗は同じクラスの女子さえも顔と名前が一致していないような所があったが。
「ねえねえ、釦あげるときに、告白されたりした?」
これは、好奇心とからかい半分の質問。
「いや、別に」
頼もしいほど、淡々としている。
「されたら、どうしてた?」と、さらに突っ込んだ問いかけをしてみる。
政宗は少し困ったような顔をした。脳裏にはほんの少し前の、どこか苦い記憶が浮かんでいた。
「…断った、だろうな」事実を思い出しつつ、匠にはそう答えた。
「うん。そうよね、そうじゃないと」うんうんと彼女は頷いている。
「匠もそう思うか?」
春の風がひときわ強く通り過ぎた。二人は思わず立ち止まり、匠は長い髪が乱れるのを押さえる。
何でもないしぐさ、何度となく見たこともあるしぐさ。
しかし今この一瞬は、まるで詩中の出来事のように、政宗は思った。
ほんとうに大切なものは、ここ(・・)にあるのだと素直に感じた。
その場を見る者がいれば、少年にも詩情を充分に感じ取れたかもしれない。…当の政宗は、ただこの光景がこんなに身近なものであることに満たされつつあった。
完璧な微笑みで、匠は答えた。
「そんなの、当たり前じゃない。…私としては、ね」
3.
「邪魔するぜ」
その二人のそばをそおっと通り過ぎようとする三四郎。…しぐさだけは「そおっと」しようとしているのが分かるが、この長身ではとても不可能だった。
「あ、しろー」
この時になってようやく匠は三四郎の存在に気づいた。
「悪いな、俺の家がこっちなもんだから」
「当たり前のことを言わないでよね」
昔から変わりようもない事実である。――変わったのは、少年と少女たちの方だろう。
いつの間にやら家のすぐそばまで帰り着いていた。てくてくと帰ってきた二人に対して、ずんずんと歩いて来た三四郎が追い付いてしまったのだった。
「じゃあ俺は消えるから、続きをやってくれ」
「変な気の遣い方しないでっ」と、匠は声を高くする。とはいえ、顔はまんざらでもなさそうだったが。
「三四郎」
一方の政宗は、たいしてうろたえる様子も見せなかった。相手が相手なだけに、安心している部分があるのかもしれない。
「何だよ」
「お前、今日は大人気だったんだ…な」
「あーっ、ほんとだ」驚いたように匠も言った。「…信じられないけど」と小さくつぶやく。
「何言ってるんだ? 二人して」
「釦よ、釦」
三四郎は釦がまるでなくなった制服をひらひらとさせた。
「ああ、これのことか。全部栗山にやったんだよ」
「ぜんぶ?」と、少女は呆れた。
「…栗山」政宗は首を傾げていた。誰だったろう、と思い出そうとして。
(…そもそも知らないんじゃ、思い出しようもないか)
匠に言われたことを思い出し、幾分自嘲気味な気分になる。
「別にけちけちするもんでもないしな。もう使わないし」三四郎は事もなげに、そう言った。
「はあ…。二人とも、そういう所はほんっとにそっくりね」
匠のその言葉に、怪訝そうに三四郎と政宗はお互いを見やった。
「――でも」くすりと少女は笑うのだった。「その方がらしいかも」と、その様子が妙に気に入ったらしい。
「怒ったり笑ったり、忙しいやつだな」と、三四郎。
「ふーん、だ。人の気も知らないで」
やっぱり二人は、二人じゃないとだめなのよ。――改めて思いはしたが、口には出さない。
「ね、二人とも。珍しくみんなそろったし、うちに来て卒業お祝いしない?」
賑やかに匠は提案した。
「なんか思い付きで言ってないか、お前?」三四郎が苦笑いしつつ言い、
「準備も何にもしてないだろ」政宗もそう付け加えた。
「当たり前じゃない、これから用意するんだから。自分たちのお祝いだもん、準備だって自分たちでやるの」
明快に匠は断言し、二人を自分の家まで引っ張った。
「着替えぐらいさせろ」三四郎が言ってみたが、
「今日で最後なのよ? いいじゃない、制服のまんまで」
匠はそう言って聞かない。
庭の樹々は春の兆候を帯びてはいたが、まだ生命を感じさせるような鮮かさを見せてはいない。ただ、一本だけある桜の樹が見事に花を咲かせていた。
この樹も、四堂家の少女らと共に成長してきた。何か象徴的なものがあった。
「おかえりなさい」
明るい声に三人が顔を向ける。
桜の、すぐそばに立っていたのは雅だった。
「あ。ただいま、お姉ちゃん」
「みんなの声が聞こえたから、そろそろ来るかと思ってたの」そう言って雅はにっこりと笑った。
「あれ。高校は?」と、三四郎。
「春休み。三月の始めからずっとよ。知らなかったの?」
「いいなぁ、それ」
「でもその前に試験があるけど」
「ちぇっ。どこもかしこも意地の悪いしくみだぜ、まったく」
感嘆の後の三四郎の言葉は極端に不機嫌で、それがかえって面白い。とにかく率直(ストレート)で嫌味がないのだ。
「…なんか、久しぶりだな、ここに来るの」少し門の前で立ち止まり、庭の全景を見渡すようにして、政宗はつぶやいた。
「うん、そうよね。そんな気がする」どこかはしゃぐように、匠は笑う。
「枳…」と、さらに政宗はつぶやいた。
「ん? ああ。独特だよな、この匂いは」
匂いと共に記憶までも解き放たれるようであった。枝そのものがほのかに、柑橘類の香りを放つ。
「だがまぁ、今は桜だろ」三四郎が続ける。
その通りだった。やや咲き遅れたのが幸いして、今満開の花をつけているのだ。
「けっこう、伸びるんだな…」
その長寿と比べると、樹々の成長は妙に早いように、政宗には思えた。
「だけど、私たちの方がずっと大きくなってるわよ。小さな頃は、この樹を見上げるようにしてたんだもの」
雅はそう言いながら、少し背伸びして枝に触れた。今はそういう距離に、枝があるのだ。
三四郎も近付き、ひょいと枝を手にした。この少年の場合、背伸びどころか、目線の高さに枝があった。
「しろうちゃん…ほんと、大きくなったね」その三四郎を見上げる形のまま、雅はつぶやくように言った。
「背だけは誰にも負けてない…かな」
「ううん、そんなことないわ。今度だってちゃんとがんばって合格できたし」
「だけど、これ以上は無理だな。もう俺、あんな約束しないぜ」
「うん…」あいまいに雅は頷いた。
桜は、このまま大きくなるだけだろう。しかし――
「これからどうなってゆくのかしら、みんな」雅はつぶやいていた。
「雅さんは絵の道に進むんでしょう?」政宗が口を挟んだ。
「さあ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、ちゃんとなれるかどうか」
「雅さんでも…そう思うの?」
普段淡泊な政宗が、この問いには少し拘っている。その混濁を見透かすかのように雅は穏やかに笑って答えた。
「みやくんはどうなの?」
「俺? ――俺は…とても無理だよ。だけど雅さんなら」
「私、好きだけどな…みやくんの絵」
「…いや」
違った。雅に言って欲しかったのはそんな言葉ではなかった。
「みやくんには、そんな言い方しないで欲しい」
「そうじゃなくて、」
「なんだお前。絵描きになりたいのか」不思議そうに三四郎が訊いた。
それに答えるべく政宗は口を開きかけたが、結局何も言えない。言いようがなかった。このわだかまりはおそらく、政宗自身にしか分からないだろう。あるいは、かろうじて雅にだけは感じ取れたのかもしれないが…
「俺は、何になりたいのか…分からない」
代りにそう言っていた。これは、確かに事実でもあった。
「まあ、そんなに慌てて決めることでもないだろ」手を頭の後ろにやって、三四郎は言った。それは、大雑把な三四郎らしさでもあるし、ひょっとすると相手の少年を気遣ったつもりなのかもしれない。
「ということは、しろーも何にも考えてないのね」
「うるさいな。匠だってそうだろ? どうせ」
…三人とも、何も言えなくなってしまった。
「まだ決めてないってことは、これから何にだってなれるってことよ?」励ますつもりか、雅はそう言う。
「それはちょっと無理が」政宗は冷静に返しかけたが、
「これから始まりだってときにつまらないこと言うなよ」三四郎は苦笑した。
言いながら、当の三四郎は思う。
(始まりったって、何がどうなるかな)
どうせ三四郎にとってはつまらない授業が待っていて、今まで通りの生活が延長されるのだろう。繰り返し…。しかしまぁそれはそれでいい。
(ほんとうは、このままが一番なのかもしれない)
雅をじっと見ながら、何気なく思った。
――確かに、この状態には痛みがない。心地よいに決まっていた。
「しろうちゃん?」動かなくなった三四郎を、不思議そうに雅は見上げた。
「…そういや、さ。まだ、その呼び方するの?」三四郎は苦笑した。
「だって、しろうちゃんはしろうちゃんだから」
雅は笑ってそういう。
しかしそれは、今の三四郎を…結局雅は拒絶しているのではないか。
ぼんやりと、そう感じない訳ではない。
「なんだか、こればっかりはずっとこのままみたいだな」
…三四郎にはそれ以上踏み込めなかった。やはり苦笑いした。
「――そうね。ずっと、そうかも…」
その姉を見つつ、匠は何となく思う。
(…お姉ちゃん、誰か好きな人がいるのかな)
4.
「まぁ。みんなおそろいですね」
からりと庭に面した障子を開けて、聞こえてきた声がある。
「あ、ただいま、アンナさん」
「はい、おかえりなさい、匠さん」
アンナはそう言うとしばらく黙っていたが、「政宗くんと三四郎くんは、まだ言ってませんね」と、穏やかに言った。…穏やかではあったが、二人ともが強制力を感じたのは確かだった。
「…おじゃましてます」心なしか背筋まで伸ばして政宗が言う。
「おじゃまなんですか、政宗くん」にこりともせずに彼女は言った。
もちろんアンナは『おじゃましています』の意味ぐらいは知っている。
政宗は言葉に詰まり、少女らは顔を見合わせてくすと笑った。
「ただいま、アンナさん」
そのやりとりでアンナの言いたいことを理解した三四郎は、笑って言った。
「はい、おかえりなさい、三四郎くん」
「…ただいま、アンナさん」それを見て『学習』した政宗が、今度は言い直した。
「はい、おかえりなさい、政宗くん。…お二人がここに来るのはぜんぜんじゃまなんかじゃありませんからね。余計な遠慮はかえって相手に失礼です」
それはここでしか通用しない考え方だな、と頭では政宗は考えている。
しかし気持ちは、何となくあったかくなれる彼女の言葉だった。
「あら。…三四郎くんは、ケンカでもしたんですか?」
次にアンナはそう訊いた。視線は、三四郎の制服の上着に注がれている。
「違うってば。釦は、外れたんじゃない。外したんだよ」
「…それは、どうしてですか」不思議そうに小首を傾げている。
「卒業式のときってね、好きな相手の人から釦をもらったりするのよ」
答えたのは雅である。
「まぁ、それじゃもてるんですね、三四郎くんは」本気でアンナは感心していた。
「ところがさ、そうじゃないんだって」三四郎は苦笑いした。――そうだといいなぁ、と男として思わなくもないが。「成り行きでそうなっただけだよ。あげたのだって一人だし、ついでだから全部やっただけで」
「でも、欲しがったのは女の子の方なんでしょ?」と雅。
「ええと、そうだったけな。忘れちまったよ、どうでもよかったから」
雅に詮索されるのを避けたいのか、珍しく三四郎はあいまいにした。
「本気だったんじゃないかなあって。その子」
雅の言葉はからかうようでもあり、本気で問いただすようでもある。
「まさかぁ」と、反射的に冗談めかした言葉が口を突いて出たが、雅の表情はそれを許さなかった。「――いや、だって、正直な話、俺にはそう思えなかったから」
「しろうちゃん、相手がどうでもいい人なら、女の子だって欲しがらないわよ」
「…」
「分かってあげて。…釦は、外されて、渡された瞬間から釦じゃなくなるの」
怒るようでもなく、ましてや笑う訳でもなく。
あまりにも自然に、雅は心に伝わる言葉を紡ぐ。彼女は三四郎がつい虚心になって聞いてしまう、数少ない言葉の持ち主の一人だった。
「釦じゃ、なくなる?」その不思議な表現を、少年は繰り返した。
「思い出に変わるのよ。とても大切な」
「…そんなこと言われたって」
今更どうしようもない。そもそも渡さなければよかったのか、かと言って断れたろうか。改めて突き付けられると、三四郎自身『栗山 翆』に対して何を思っていたのかはっきりしない。
「ううん、しろうちゃんを責めてる訳じゃないの。ただ…ちゃんと分かって欲しいのよ…相手のことを」
いつのまにか、諭す口調が何かを求めるようなそれへと微妙に変わっていた。
このとき、三四郎は、
「そんなの、――分かりっこないだろ? 言われれば別だけど。俺、そんなに便利にできてないし」そう答えた。
このとき、政宗は、
(雅さん、…何かを伝えようとしているの?)そう思った。
雅は胸元に軽く手を当てて、一人うなずく。
「そうね。…そうよね。言わなきゃ伝わらないわよね、気持ちは」
「で、それがどうかしたの?」わざと明るい声で三四郎は訊いた。
雅はいつもの笑顔だった。ただ、ほんの少し顔に朱をさして。
「ううん。何でもないの」
…今はまだね、たぶん、きっと。
(雅さん…何かを不安がってる…)
その事実に気づいたのは政宗一人だけだった。
雅がいつも身につけているはずの小さな銀の十字架。
そこに手を当てるのは不安なとき、しかもどちらかといえば怖さを感じたときの雅のしぐさなのだ。だいぶ前から、政宗はそれに気づいていた。
――そうよね。言わなきゃ伝わらないわよね、気持ちは。
分かりきったことなのに、雅はそれを否定したがっているように見えた。
(ほんとうは、何が言いたいの? …どうして言わないの?)
「みやくん、やっぱり寒いの?」
「え?」少年は、自らが作り上げた思考の迷宮から引きずり出された。
「何だか顔色が悪いわ。…寒いっていうのも変だなって思うけど」
雅がこちらを見ていた。特に、首のまわりを。そこには長いマフラーが巻かれている。普通ならとっくに『季節はずれ』の代物だった。
「お姉ちゃん、みやくんの寒がりは特別だもん」
とっさに反応できずにいた少年の代りに、匠が答えた。
「それにしたって四月も近いのに」
「低血圧ってやつさ。朝もぜんぜんだめだし、こいつは」と三四郎。
「…低血圧だと、寒がりになるの?」
「でも、学校に行くのは政宗くんの方がずっと早いですね」
「う…」
「しろーはずぼらだもん。みやくんはちゃんと性格でカバーしてるのよ」
あっという間に、何やら別の話が進んでいってしまっている。
「別にそんなに寒くないし。人のことはどうでもいいから、さ」
政宗は自分でそう言って、だんだんくだらなくなりつつある会話に区切りをつけた。
そして、ついさっきまで頭の中にわだかまっていたものを押し流した。こうして話をしていると、自分が単に考えすぎなだけのような気がするのだ。三四郎も、匠も、雅も、こうして見ればまるで『あいかわらず』というやつで、不安や不審とは互いに無縁のはずだった。
「――四月から、またみなさん同じ学校ですね」
アンナは笑って子供たちを見た。大きくなった。まだまだ子供だが、確実に、少しずつ、大人になろうとしている。それぞれに、誰が何を想っているのか。彼女には分からない。
ただ、ずっと四人を見続けてきた。
アンナは彼らをいとおしく思った。自分とはまるで違った形で青春を迎えようとしている少年と少女らに、充実した生を満たしてほしかった。それでこそ、自分自身の遠い日の選択は間違っていないと思うことができるから…
「そう。ちゃんとみんなが約束を守ってくれたから」
そう言った雅は本当に嬉しそうだった。それだけでも、ほんのそれだけのことなのに、少年らにとっては最高の報酬のように思えた。
「入学式のときは一緒に行きましょうね、みんな」
雅は桜の樹をくるりと背にして、にっこりと笑った。
…四堂の老人がその様子を眺めていた。いつになく、障子の内に身を隠すようにして。
この老人がこうした気遣いをするのは珍しかった。佳くも悪くも明朗快活にふるまうのがこの人の為人(ひととなり)だった。
今、あの庭に自分の居場所はどこにもない。そう決めているようだった。
これが春、というやつか。
髭をなでつつ、彼はそうつぶやいていた。